学位論文要旨



No 117285
著者(漢字) 谷口,浩和
著者(英字)
著者(カナ) タニグチ,ヒロカズ
標題(和) 遺伝子発現プロファイリングに基づく胃癌の分子病理学的解析
標題(洋)
報告番号 117285
報告番号 甲17285
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1893号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,茂郎
 東京大学 教授 渋谷,正史
 東京大学 助教授 浜窪,隆雄
 東京大学 助教授 宮澤,恵二
 東京大学 講師 大西,真
内容要旨 要旨を表示する

 胃癌は長年の間日本人の癌による死因の上位を占めてきた。近年の分子生物学の発達により、胃癌についても多数の遺伝子変化が明らかになってきているが、胃癌の発生や進展については未だに不明な点が多い。さらに胃癌は組織型や浸潤転移の状況、化学療法への反応など様々な臨床的特徴を備えており、これらの特徴に関連した遺伝子の変化はほとんど知られていない。

 本研究では胃癌組織特異的な遺伝子を明らかにするために、多数の遺伝子の発現量を同時に解析できる技術の中でも最近多くの研究に応用されるようになってきたオリゴヌクレオチドアレイGeneChipTM HuGeneFL(Affymetrix社)を用い、22検体の胃癌組織及び8検体の非癌部胃粘膜組織について約6800遺伝子の発現プロファイリングを行った。得られたデータに対し、2方向クラスタリング解析を行ったところ、胃癌組織と非癌部胃粘膜組織は別々のクラスターを形成し、胃癌組織と非癌部胃粘膜組織は、遺伝子の発現量のみを指標に区別できることを示した。

 次に胃癌組織と非癌部胃粘膜組織それぞれに特徴的な遺伝子を抽出するために、アレイ上の各遺伝子について胃癌組織と非癌部胃粘膜組織での遺伝子発現量の平均値を比較すると同時にMann-Whiteny's U-testによる検定をおこなった。これにより、胃癌組織に高発現している162遺伝子、非癌部胃粘膜組織で高発現している129遺伝子を抽出した。このリストの再現性を確認するために、78遺伝子については、GeneChipの実験に用いたRNAをランダムに選んで、4組の胃癌組織と非癌部胃粘膜組織を用いて半定量的RT-PCRを行ったところ大部分の遺伝子で良い相関を示した。さらに、この遺伝子を機能別の表にまとめた。胃癌組織では、細胞周期や細胞増殖因子のような胃癌細胞の増殖状態を表している遺伝子群と、細胞外マトリックスやその改築、血管新生に関わる間質細胞の反応を表している遺伝子群で高い発現が認められた。腫瘍に特異的な間質の反応は、化学療法の効果が低い癌に対する治療の標的として最近注目を集めており、多くの知見が集積されつつあるが、本研究で高い発現を示したコラーゲンの多くが血管内皮由来であるという報告もあり、しばしば胃癌で見られる強い線維化に腫瘍近傍の血管新生が関与しているという意味で興味深い。反対に、非癌部胃粘膜で高発現が見られる遺伝子は、消化管に固有の機能に関連しているものが多くを占めた。

 次に、リンパ節転移、組織型、β-cateninおよびp53の核内蓄積の有無といった胃癌の臨床的、分子病理学的な特徴を規定する遺伝子の同定を行った。Mann-Whiteny's U-testを用いて二群に差がある遺伝子を抽出するとともに二群の平均を比較することで、それぞれの特徴を規定する遺伝子を同定した。

 リンパ節転移は胃癌の生命予後に大きな影響を及ぼすが、これらに関する遺伝子はまだあまり知られていない。胃癌組織をリンパ節転移の有無で二群に分け、リンパ節転移を起こす胃癌組織に特徴的な遺伝子を同定した。リンパ節転移のある群に高発現の遺伝子には、細胞外マトリックスの再構築に関連するfibronectinや細胞の運動能に影響を与えるprofilin 2のような転移との関連を示唆する遺伝子の他に、リンパ球に特異的なイムノグロブリンの転写因子であるOct2の発現が認められた。OCT-2の免疫染色では、リンパ節転移がみられる一部の癌組織のみで浸潤する形質細胞だけでなく、癌細胞が陽性を示した。Oct2の発現がリンパ節転移に直接関係するか否かは、更なる検索が必要である。

 胃癌の組織型には大きく分けて腸型とびまん型があり、各々について特徴的な遺伝子の異常が知られている。この二つの組織型の各々に特徴的に発現する遺伝子の同定を試みた。腸型で高発現している遺伝子は、正常の腸で発現しているものが多く、これは腸上皮への分化と考えることができる。また、LI-cadherinは腸型胃癌に高発現であったが、これは最近の免疫組織化学を用いた報告とも一致する。さらにLI-cadherinは、腸型胃癌の前癌病変と考えられている腸上皮化生の段階で発現しており、その転写制御因子は、腸型胃癌の多段階発現に重要な役割を果たしている可能性もある。

 p53は最もよく知られた癌抑制遺伝子で、その異常は多くの癌にみられ、胃癌でも6割に異常があることが知られている。本研究では免疫染色によりp53の核内異常蓄積を評価し、p53の異常に関連して発現する5遺伝子を抽出した。抽出された遺伝子のうちMatrix metalloproteinase 9は胃癌の浸潤や転移との関連が報告されているが、p53の関連は報告されていない。Matrix metalloproteinase 9のプロモーター領域にはp53により負の制御を受けるc-junが結合するAP-1サイトがあり、その直接的関連の可能性が示唆された。

 β-cateninはwntシグナルを構成する分子で、wntの異常により核内に移行してTCF4と結合し、下流遺伝子であるmycやcyclinD1などの発現を上昇させることが、大腸癌の研究で明らかになっている。本研究では免疫染色によりβ-cateninの核内異常蓄積を評価し、関連して発現する5遺伝子を抽出した。抽出された遺伝子のうち、Transcription factor 7はTCF4の下流の遺伝子であることが報告されている。また、Protein phosphatase 2, regulatory subunit B(B56), delta isoformやGRO1など、増殖に関連する遺伝子が抽出されており、β-cateninが胃癌の発癌やその進展への関連が示唆された。

 さらに胃癌で発現の上昇する新規の遺伝子を検索するため、主にESTクローンが配列してあるオリゴヌクレオチドアレイGeneChipTM Hu35K(Affymetrix社)を用い、一組の胃癌組織及び非癌部胃粘膜組織について、約35000ESTクローンの遺伝子発現プロファイリングを行った。胃癌組織で高発現しているクローンのうち、2001年1月の時点で全長の配列が決定されていないものについて、4組の癌組織と非癌部胃粘膜組織の半定量的RT-PCRによって3組以上の検体で癌組織に高発現している3クローンを抽出した。そのうち2クローンは、2001年6月の時点ですでに全長がGeneBankに登録されていたが、1つについては依然としてESTであった。GeneBankに登録されているものは、Notchシグナルにより転写が亢進するHEYファミリーの遺伝子Hairy/enhancer-of-split related with YRPW motif-like(HEYL)とSoinc Hedgehogシグナル伝達系の転写因子GLIのファミリー遺伝子Kruppel-like zinc finger protein GLIS2(GLIS2)であった。Notchの機能には、側方抑制、分化誘導、および幹細胞の状態を維持するのに重要な役割を果たしていることが知られている。また、白血病や前立腺癌との関係が報告されている。Sonic Hedgehogは、分化に重要な役割を果たしており、Basal cell carcinomaとの関連では、浸潤に関連することが知られている。

 ESTであったクローンについては、Web databaseのホモロジー検索により、マウスのCarboxypaptidase X2に高いホモロジーを持つことがわかり、Human Genomeの配列やホモロジーサーチを組み合わせることにより、全長に相当する配列を得た。その配列のRT-PCRを行いSequenceを行い全長の配列を決定した。この遺伝子(CPX-2)は、14のExonからなる全長が約3300bp、コーディング領域は1941bp、647アミノ酸からなる。

 これら2つの新規遺伝子を含む3遺伝子についての詳細な解析は今後の課題である。

 <まとめ> オリゴヌクレオチドアレイを用いて胃癌の遺伝子発現解析を行った。胃癌組織と非癌部胃粘膜の各々に特徴的な遺伝子セットを行った。また、リンパ節転移、組織型、p53の核内異常蓄積、β-cateninの核内異常蓄積に関係する遺伝子セットの同定を試みた。また、胃癌関連新規遺伝子の検索を行い、癌と関係が深いと思われる2つの転写因子と、1つの新規遺伝子を同定した。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は胃癌の臨床検体に対してGeneChipTMを用いた遺伝子発現解析を行うことにより、胃癌組織および、その臨床的、分子病理学的な特徴を規定する遺伝子の同定を行い、さらに胃癌に関連する新規遺伝子の同定を行ったもので、下記の結果を得ている。

1.胃癌組織および非癌部胃粘膜組織に特徴的に発現する遺伝子の同定

 a)胃癌組織22検体および非癌部胃粘膜組織8検体から得られた約6800遺伝子の発現データ(GeneChip HuFL)を用いて、ピアソンの相関係数により2方向クラスタリングを行った。これにより胃癌組織と非癌部胃粘膜組織は遺伝子の発現量のみによって区別できることが示された。

 b)さらにこの遺伝子発現データを用いて、胃癌組織及び非癌部胃粘膜組織に特徴的に発現する遺伝子の同定を行った。Mann Whiteny's U-testによる検定を行い、胃癌組織と非癌部胃粘膜組織での遺伝子発現量の平均を比較することにより、胃癌組織で非癌部胃粘膜組織より2倍以上発現量のある162遺伝子、逆に非癌部胃粘膜組織で2.5倍以上発現量のある129遺伝子を同定した。さらに、それぞれを機能別の表にまとめることで、胃癌組織と非癌部胃粘膜組織で発現する遺伝子の特徴が示された。

2.臨床的および分子病理学的特徴を規定する遺伝子の同定

 1.の遺伝子発現データを用い、Mann Whiteny's U-testによる検定、および二群の平均を比較することで、次の4つの特徴を規定する遺伝子の同定を行った。

 a) リンパ節転移に関連して9遺伝子が同定された。うち4つはすでにリンパ節転移との関連が報告されていたものであった。あらたに関連が示されたもののうちOCT2はリンパ球に特異的に発現する遺伝子で、OCT2に対する免疫染色ではリンパ節転移陽性の胃癌組織の一部にのみ胃癌細胞に陽性所見が認められ、OCT2の発現とリンパ節転移とが関連することが示唆された。

 b) 組織型(腸型、びまん型)に関連して15遺伝子が同定された。腸型の胃癌ではLI-cadherin等の腸管に発現する遺伝子が、びまん型の胃癌では、胃に固有の機能と関連する遺伝子が特徴的であり、二つの組織型は別の発癌経路をとっている可能性が示唆された。

 c) p53の核内異常蓄積に関連して5遺伝子が同定された。p53との関連が報告されている遺伝子は同定されなかったが、MMP-9は、胃癌の浸潤転移との報告がされており、そのプロモーター領域にp53との関連を示唆する領域(AP-1 site)があることから、MMP-9の発現がp53の異常と関連する可能性が示唆された。

 d) β-cateninの核内蓄積に関連して5遺伝子が同定された。そのうちTCF7はβ-cateninの核内蓄積との関連が報告されている。他には、Protein phosphatase 2, regulatory subunit B(B56), delta isoform等の増殖に関連する遺伝子が抽出されており、胃癌の発癌や進展との関連が示唆された。

3.胃癌に関連する新規遺伝子の同定

 1組の胃癌臨床検体に対する約35000クローンのEST発現データ(GeneChip HuGene35K)と、4組の胃癌臨床検体に対する半定量的RT-PCRのデータを用いて、胃癌に関連する新規の3遺伝子を同定した。HEYL (hairy/enhancer-of-split related with YRPW motif-like)およびGLIS2 (GLIS2 Kruppel-like zinc finger protein)の2つは、解析中に他のグループからGenebankに登録された。HEYLはNotchシグナルによって転写が亢進する転写因子、GLIS2は、Sonic hedgehogシグナルの転写因子GLIのファミリー遺伝子であり、ともに発生の過程に関与することが知られている。これらの遺伝子が間質の細胞ではなく胃癌細胞に発現していることをin situ hybridization等により示し、この二つの遺伝子が胃癌の発癌に関連している可能性が示された。また、残る1つの新規遺伝子は、ESTを結合してin silicoで同定した後に、cDNAを用いて存在を確認したマウスのCarboxypeptidase X2のオルソログで、ヒトでは未だ報告のない新規の遺伝子であることが示された。

 以上、本論文は胃癌の臨床検体を用いて比較的新しい手法を用いた広汎な遺伝子発現解析によって、胃癌組織、非癌部胃粘膜組織、リンパ節転移、組織型、p53およびβ-cateninの核内異常蓄積に関連する遺伝子の同定、および胃癌に関連する新規遺伝子の同定を行ったものである。個々の遺伝子に関しては今後も詳細な解析を継続する必要があるが、新規の遺伝子の同定を含め、胃癌の様々な特徴に関して多くの新規の知見をもたらしたものであり、学位の授与に値すると考えられる。

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