学位論文要旨



No 117302
著者(漢字) 阿部,敦
著者(英字)
著者(カナ) アベ,アツシ
標題(和) 顎タッピングの局所脳血流に及ぼす影響についてのH215O−PETによる解析
標題(洋)
報告番号 117302
報告番号 甲17302
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1910号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上野,照剛
 東京大学 教授 森,憲作
 東京大学 教授 井街,宏
 東京大学 教授 高戸,毅
 東京大学 助教授 小野木,雄三
内容要旨 要旨を表示する

目的及び背景

 ガムを噛む等の咀嚼運動により、脳の活動が活性化される、というようなことが世間一般に言われるが、科学的な証明はなされていない。咀嚼を行う顎関節は左右対称性の2つの関節で構成され、左右の感覚運動野が同時に関与しており、このため複雑な下顎運動が可能となっている。咀嚼運動は大脳基底核や大脳皮質という上位中枢が制御していると推測されている。動物を対象とした実験が行われてきたが、必然的に動物では咀嚼は摂食に伴うものとなる。自発的で自然な咀嚼運動を人間が行うときの脳活動の変化はこれまで十分には検討されてこなかった。

 また、咀嚼運動のもう1つの特徴は、リズミカルに反復する運動であるという点である。咀嚼運動では、動物を対象とした実験により、上位中枢からのリズムをもたない入力が脳幹に存在するリズム発生器を駆動することがわかっている。しかし、リズムの速度を変化させる等の際に、リズム発生器への上位中枢からの入力を、脳内のどの部分が調節しているのかは明らかにされていない。

 今回我々は、咀嚼運動に関わる脳機能を明らかにするための基礎的研究として、酸素15標識水(H215O)とpositron emission tomography(PET)を用いて、顎タッピング運動時の局所脳血流の測定を行った。顎タッピング運動の際の全脳にわたる局所脳血流の変化、咀嚼運動の特徴であるリズムを制御する部位の存在について検討を行った。

方法

データ収集

 本実験では無味のチューイングガムを左右臼歯で噛むことを顎タッピングと定義した。文書により同意を得た、右利き健常有歯顎者11名、22.5±1.5歳の男性7名、女性4名を対象として、無味のガムベースを用い、局所脳血流をPET(HEADTOMEIV,島津製作所)とH215O静注法により計測した。同一被験者に対し、rest: 安静、metronome: 顎タッピングを行わず1Hzのmetronomeを聞くだけ、1Hz: 1Hzのmetronomeを聞きそれに合わせた顎タッピング運動、2/3Hz: 2/3Hzのmetronomeを聞きそれに合わせた顎タッピング運動、2Hz: 2Hzのmetronomeを聞きそれに合わせた顎タッピング運動、の5つの課題施行時の局所脳血流を計測した。1110MBqのH215Oをトレーサーとして片側の肘静脈からbolusで静注し、トレーサーが脳内に到達した直後から90秒間のPET scanを行った。まず課題rest: 安静時の撮像を行い、その他の4つの課題は被験者ごとにランダムに配置した。撮像間隔(課題間隔)は、過去の報告に基づき20分間とした。一人の被験者につき、検査時間の合計は約2時間30分となった。

脳表抽出及びmasking

 顎タッピング運動時には脳内の血流上昇と共に、咀嚼筋である左右側頭筋の血流上昇がある。Statistical parametric mapping(SPM)での解剖学的標準化の際に脳実質外の血流上昇部が残存し、最終的な統計解析の段階で脳実質内の血流上昇との混同が生じる可能性がある。したがって、我々は従来の方法によるSPMでの解析と、maskingを用いる方法での解析を行った。第2の方法については、SPMで用いられるanalyze formatへのデータ変換の前に、個々の画像から脳輪郭を決定し、脳実質外の部分をmaskingすることを行った。

データ解析

 SPM99を用いて標準脳座標系にmappingし、課題遂行条件間の有意差をpaired-t検定にて、画素ごとに検定した。5つの課題施行時の脳血流の差を、以下では次のように表記する。(例:課題1Hz施行時の脳血流が課題rest施行時の脳血流よりも有意に増加している場合を調べた場合:1Hz-rest)1Hz-rest、metronome-rest、1Hz-metronome、2/3Hz-1Hz、2Hz-1Hz、2Hz-2/3Hz、以上6つのpaired-t検定を行った。また、顎タッピング速度と局所脳血流の相関についても検定を行った。以下では次のように表記する。correlation:metronomeに合わせた顎タッピング運動時の運動速度が1Hzと2/3Hzと2Hzの場合における、顎タッピング速度と局所脳血流の相関

結果

従来の方法によるSPMでの解析結果

maskingをしない、通常の方法での安静時と1Hzのmetronomeに合わせた顎タッピング運動時の比較(1Hz-rest):左右中心前回・後回周囲に、左右側頭筋に似た形状の脳血流上昇部。

脳表抽出及びmaskingを用いたSPMでの解析結果(p=0.001)(血流上昇部を記す。)結果metronome-rest:左縁上回、左前頭葉中前頭回、右補足運動野から右帯状回にかけての領域。

結果1Hz-rest:左右中心前回・中心後回及び右島にかけての領域、左被殻背側部、左右補足運動野、左右小脳半球背側部の小脳後葉。

結果1Hz-metronome:左右中心前回・中心後回及び右島にかけての領域、右被殻背側部、左側優位に左右補足運動野、左右小脳半球背側部の小脳後葉。

結果2/3Hz-1Hz:統計学的に有意な血流上昇部は認められない。

結果2Hz-1Hz:左弁蓋部と思われる部分、左島。

結果2Hz-2/3Hz:左側頭後頭下部。

結果correlation:(1Hz・2/3Hz・2Hzの顎タッピング速度をcovariateとし、それぞれ3・2・6のスコアをつけた。):右尾状核、左小脳半球背側部の小脳後葉に相関。補足運動野には相関は見られない。

考察

検査方法の選択について

 本研究は、人間における可能な限り自然で自発的な顎タッピング運動時の脳活動の様子を画像から解析する目的でデザインした。現在、生きた人間での脳活動の様子を画像化する手段としてはfunctional MRI(fMRI)が用いられる傾向にあるが、fMRIで用いられるEPI撮像法では頭蓋底の近傍や頭部の動きに起因するアーチファクトが強く、データ収集の大きな障害となる。特に本実験は、頭蓋底近傍の海馬付近の血流変化が予想され、顎タッピング運動によるデータ収集中の頭部の動きが避けられない。以上の理由から、我々はデータ収集法としてPETを選択した。

顎タッピング時のPETでの画像を標準脳上で評価するための画像処理(masking)の必要性について

 顎タッピング運動時には脳内の血流上昇と共に、咀嚼筋である左右側頭筋の血流上昇がある。通常の方法によるSPM99での標準化後の、安静時と比較した顎タッピング運動時の血流上昇部は、形状が左右側頭筋の形状と酷似しており、不自然な結果となった。masking前後での局所脳血流の上昇率(masking前→masking後)は、中心前回・中心後回付近(14.6→11.8%ΔCBF)、補足運動野(1.8→3.6%ΔCBF)、大脳基底核領域(1.3→3.8%ΔCBF)、小脳後葉(2.6→5.3%ΔCBF)となった。masking前には側頭筋の血流上昇の影響を受けていたと思われる中心前回・中心後回付近では、より限局した血流上昇部が示されると共に、局所脳血流増加率はmasking前よりmasking後の方が低い値となった。また、その他の部位では、masking後に局所脳血流増加率が高い値となり、統計学的に有意な局所脳血流上昇部として同定された。これらはmaskingの有用性を示すものと思われる。

ROI解析と比較した標準脳座標系での解析の有用性について

 当施設の百瀬らにより、顎タッピング運動時の局所脳血流については、region of interest(ROI)解析での結果が報告されている。しかし、ROI解析は、被験者間ではその位置に一致性を欠くものであり、関心領域を定めない部分の賦活については無視されている。ある程度の客観的な解剖学的正確性をもって、人間の脳の全ての領域で、顎タッピング運動時の脳血流変動について議論した報告は今まで見られない。今回、我々はmaskingを用いることにより、PETでのデータを標準脳座標系で解析した。今回の結果(p=0.01)での血流上昇部はROI解析での結果に矛盾しないものであった。さらに、ROI解析では血流上昇が示されなかった、右視床にも血流上昇が新たに認められ、血流増加の空間的な広がりや連続性などが明らかとなった。

顎タッピング運動時の脳内の局所賦活部位について

 安静時と1Hzのmetronomeに合わせた顎タッピング運動時の比較で、左右中心前回・中心後回、及び左右レンズ核背側部・島にかけての領域、左右前補足運動野、左右小脳半球背側部の小脳後葉、右視床に血流上昇が見られた。これらの脳内の賦活部位は、顎タッピング運動に際し脳内でネットワークを形成して相互に連携して活動し、全体として顎タッピング運動を制御しているものと思われる。

補足運動野の活動について

 顎タッピング運動のリズム調節に補足運動野が関与しているものと予想されたが、顎タッピング速度と補足運動野の血流上昇との相関は見られなかった。また、1Hz、2/3Hz、2Hzの顎タッピング速度間で補足運動野の活動に有意差は見られなかった。

 結果1Hz-metronomeでの補足運動野の活動は、pre-supplementary motor area(pre-SMA)と呼ばれる、複雑な認知的行動を伴うような運動課題の遂行と関連していると考えられている部分に強い。また、結果metronome-rest、1Hz-rest、1Hz-metronomeで補足運動野の活動に左右差が見られた。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は咀嚼運動に関わる脳機能を明らかにするための基礎的研究として、酸素15標識水(H215O)とpositron emission tomography(PET)を用いて、顎タッピング運動時の局所脳血流の測定を行い、顎タッピング運動の際の全脳にわたる局所脳血流の変化、咀嚼運動の特徴であるリズムを制御する部位の存在について解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1、顎タッピング時のPET画像から、maskingを用いることにより側頭筋の血流上昇の脳実質への影響を取り除いた。顎タッピング運動に関する脳内全ての局所腑活部位を標準脳上で明らかにした。左右中心前回・中心後回、左右レンズ核背側部・島、左右補足運動野、左右小脳後葉、右視床に血流上昇が見られ、顎タッピング運動時に脳内のこれらの部分がネットワークを形成して活動している可能性が示された。

2、顎タッピング運動のリズム性に注目し、その速度調節に関与する脳領域の同定を試みた。右尾状核、左小脳後葉に血流と顎タッピング速度の相関が認められた。顎タッピング運動の速度調節に関与の可能性が示唆されたが、今後の検証が必要と考えられる。補足運動野の血流と顎タッピング運動の速度との間には相関は見られなかった。

 以上、本論文は顎タッピング運動時の局所脳血流に及ぼす影響について、maskingを用いた画像処理により、顎タッピング運動に関する脳内全ての局所腑活部位を標準脳上で明らかにした。本研究はこれまで未知に等しかった、咀嚼運動に関わる脳機能の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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