学位論文要旨



No 117311
著者(漢字) 小林,大介
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,ダイスケ
標題(和) 脳神経系における領域特異化の機構に関する研究
標題(洋) Studies on the regional specification in the developing brain
報告番号 117311
報告番号 甲17311
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1919号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 御子柴,克彦
 東京大学 教授 井原,康夫
 東京大学 教授 三品,昌美
 東京大学 教授 森,憲作
 東京大学 助教授 郭,伸
内容要旨 要旨を表示する

『研究目的』

 脊椎動物の中枢神経系は、各領域ごとに形態的、機能的に特異化した極めて多様なニューロン、グリアなどの細胞によって構成されている。記憶や学習といった高次機能は、この多様な細胞が厳密な遺伝プログラムに基づいて発生することをその基盤としている。こうした多様な細胞は、発生の早い時期に形成される神経板から発生する。神経板上には領域特異的に多くの転写制御因子と細胞外シグナル分子が発現している。この領域性に基づいて下流の遺伝プログラムが働くことで、さまざまな細胞が特定の位置に形成されると考えられている。こうした神経板の領域特異化に、シグナル分子を介したいわゆる誘導現象が関与していることが知られている。様々なシグナル分子が神経板上に局在して発現しており、その近傍に特定の形質を誘導することで神経板の領域化は進行する。また、神経板はシグナル分子に対して領域特異的な応答をする。例えばシグナル分子Shhは神経板の腹側から作用し、前脳では視床下部の内分泌性の神経核を、中脳では動眼神経核とドーパミン作動性ニューロンを誘導する。このように神経板上の位置による応答性の違いは、細胞の多様な個性の規定に重要な意味をもっている。従って、神経板のシグナル分子に対する領域特異的な応答性を規定する機構を明らかにすることは、完成された中枢神経系を構成する多様な細胞の形成過程を理解する上で極めて大切であり、神経科学における重要な課題の一つである。

 将来の終脳原基である頭部神経板前方領域ではシグナル分子Shhに応答して視床下部形成に必須の転写制御因子Nkx2.1の発現が、またシグナル分子FGF8に応答して終脳形成に必須の転写制御因子Bf1の発現が誘導される(前方型の応答性)。一方、頭部神経板のより後方の領域では、Shhに応答して運動神経形成に必要な転写制御因子Nkx6.1の発現が、FGF8に応答して中脳形成に必要な転写制御因子En2の発現が誘導されることが知られている(後方型の応答性)。これら異なる応答性を示す境界は、将来の腹側視床と背側視床の境界であるZona limitans intrathalamica(ZLI)であると推定されている。しかしながら、このような領域特異的な応答性を規定するメカニズムの分子的な基盤は明らかにされていない。

 本研究では、高次機能を担う大脳皮質、基底核、視床などの発生原基である前脳に注目し、神経板の領域特異的な応答性を規定する分子機構を明らかにすることを目的とした。

『研究結果と考察』

 発生期における神経板の領域特異化の過程を個体レベルで明らかにするため、胚操作に種々の利点を有するニワトリ胚を実験材料にし、エレクトロポレーション法を用いた強制発現系を主たる実験手法として解析を行った。

 はじめに前脳中脳領域の神経板において、それぞれ異なる応答を引き起こすとされるFGF8について解析した。FGF8に対する異なる応答性を規定する機構の一つに、異なるFGF受容体(FGFR)の関与が考えられる。FGF受容体には4種類が知られており、それぞれ領域特異的に発現している。このうちFGFR3はZLIの後方領域、すなわちFGF8がEn2の発現を誘導できる領域で発現し、FGFR1は神経板全域で発現している。そこで、恒常活性化型のFGFR1とFGFR3をコードする発現ベクターを作成し、ステージHH8-10のニワトリ胚にこれらの変異受容体を強制発現させた。その結果、どちらの恒常活性化型受容体の強制発現でもEn2の異所発現が観察されたが、この異所発現が観察される領域はZLIの後方領域のみに限られることが明かとなった。このことから、FGF受容体の違いでは領域特異的な応答性を説明できないと考えられた。

 FGF8がEn2の発現を誘導できる領域はZLIの後方に限られる。ホメオドメイン型転写制御因子であるショウジョウバエIroquoisのマウス相同分子Irx3はZLIの後方で発現している。そこで、Irx3のニワトリ相同分子をクローニングし、その発現領域を詳細に検討した。Irx3は、HH6から頭部神経板後方領域に限局して発現を開始した。HH17でZLIの分子マーカーであるShhとの二重染色を行ったところ、その発現の前端はZLIに一致していた。そこで、Irx3がFGF8に対する後方型の応答性を規定する可能性を検討した。Irx3を強制発現させたところEn2が前方で異所性に発現することが明かとなった。しかもIrx3遺伝子は広範囲に導入されているにも関わらず、En2の異所発現はFGF8発現部位の近傍に限られていた。つぎに、恒常活性化型FGF受容体とIrx3を共発現させると、内在性のFGF8発現部位から離れた領域でもEn2の発現が誘導された。さらに、ドミナントネガティブ型FGF受容体によってFGFシグナルを遮断した場合には、Irx3によるEn2の異所発現は観察されなかった。これらの結果から、Irx3は後方領域におけるFGF8依存的なEn2の発現を制御していることが強く示唆された。

 次に、前方領域でのFGF8に対する応答性を解析した。FGF8を神経板全領域で強制発現させると、視床下部、眼柄などの前方領域では転写制御因子Bf1の発現が誘導されるが、後方領域ではBf1の発現は誘導されないことが明かとなった。Bf1の誘導が起こる領域と一致して、ホメオドメイン型転写制御因子Six3が発現している。そこで、Six3を中脳後脳を含む後方領域で強制発現させた。Six3の強制発現によって、中脳後脳境界部でのみBf1の異所発現が観察された。中脳後脳境界部はFGF8が発現している領域である。さらに、恒常活性化型FGF受容体とSix3を共発現させると内在性のFGF8発現部位から離れた領域でもBf1が誘導されることが観察された。これらの結果は、Six3がFGF8に対する前方型の応答性を与えていることを示唆している。また、同様の条件で終脳の分子マーカーである転写制御因子Emx2の発現が誘導されることから、誘導された組織は終脳である可能性が高いと考られた。

 領域特異的な応答性は、中枢神経系全域において腹側の形質を与えるシグナル分子Shhに関しても知られている。前述のように、Shhは転写制御因子Nkx2.1を頭部神経板前方領域で誘導し、その後方では転写制御因子Nkx6.1を誘導する。この応答性の境界はFGF8の場合と同様にZLIと推定されている。このことからSix3とIrx3がShhに対する応答性を制御している可能性を検討した。Six3とIrx3の強制発現により、それぞれNkx2.1とNkx6.1が異所性に発現した。しかも、この異所発現はShhの作用する神経板腹側に限られて観察された。これらの結果から、Six3とIrx3は標的遺伝子の発現を直接制御しているわけではなく、Shhに対する細胞の応答性を制御していると考えられた。

 以上の解析から、発生初期の神経板においては、Six3とIrx3という2つの転写制御因子が、シグナル分子であるFGF8とShhに対する領域特異的な応答性を規定している事が示された。そこでこのような初期の応答性の違いが後の神経系の組織構築にどのような関連を持つかを解析した。Irx3を前方領域で強制発現させた胚をHH38-40まで孵卵させたところ、正常胚の間脳に相当する部位に異常な腫瘤が観察された。この腫瘤は、中脳に特徴的な層状の組織構築を呈し、また中脳特異的な転写制御因子Pax7が発現していた。組織学的に内側手綱核が欠損していること、脈絡膜がこの腫瘤に取り込まれていることを考えると、Irx3がFGF8に対する応答性を変化させた結果、予定終脳視床領域が形質転換して中脳の形質を獲得したと考えられた。

『結語』

 以上の解析から、神経板で領域特異的に発現している転写制御因子Six3とIrx3が、FGF8やShhといった分泌性シグナル分子に対する領域特異的な応答性を規定し、その結果として領域ごとに異なる組織形成と細胞分化が生じることが明らかとなった。今回の結果から、領域特異的な応答性を制御する分子機構についての具体的な実験が可能となった。また、形態学的知見から、従来前脳は前から終脳、間脳とわかれ、間脳から視床下部と視床が形成されると考えられてきた。しかしながら、発生のプログラム上では、間脳中程の境界であるZLIで前方型後方型の応答性を示す領域にわかれ、Six3発現で規定される前方型の応答性を示す領域にFgf8が作用すると終脳が発生し、Shhが作用すると視床下部が発生すると考えられた。前後軸に沿った応答性の違いや、転写制御因子群の発現領域をふまえて考えると、前脳においてはこれまで軸索の通り道として認識されていたZLIの前後で神経板に決定的な性質の違いがあると考えられる。多様な中枢神経系の細胞が形成される過程に関与する多数の遺伝子が同定されつつあるが、その作用機序の詳細は未だ不明のものが多い。こうした遺伝子の作用機序の解析から発生のプログラムを明らかにしていくことは、高次機能を担う中枢神経系を構成する多種多様な細胞の特性を理解するために有効であろう。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、中枢神経系の発生過程における、転写制御因子による神経原基の領域特異化の分子機構を解明することを目的としている。シグナル分子FGF8は発生期神経原基後方領域では転写制御因子En2を、前方領域では転写制御因子Bf1を誘導することが知られている。また、シグナル分子Shhは後方領域で転写制御因子Nkx6.1を、前方領域で転写制御因子Nkx2.1を誘導することが知られている。こうした反応性の違いの基盤を明らかにするため、ニワトリ胚でエレクトロポレーション法を用いた異所発現実験を行い以下の結果を得ている。

1.発生期神経原基において、転写制御因子Irx3の発現領域はFGF8がEn2を誘導する領域と非常に良い相関関係にあることが示された。一方、転写制御因子Six3はFGF8がBf1を誘導しうる領域で発現していることが示された。

2.ニワトリ胚でのエレクトロポレーション法による異所発現を用いて、Irx3がFGF8に対する後方型の応答性を規定する可能性を検討した。Irx3を異所発現させたところEn2が前方で異所性に発現することが明かとなった。しかもIrx3遺伝子は広範囲に導入されているにも関わらず、En2の誘導は内在性のFGF8発現部位の近傍に限られていた。つぎに、恒常活性化型FGF受容体とIrx3を共発現させると、内在性のFGF8発現部位から離れた領域でもEn2の発現が誘導された。さらに、ドミナントネガティブ型FGF受容体によってFGFシグナルを遮断した場合には、Irx3によるEn2の異所発現は観察されなかった。これらの結果から、Irx3は後方領域におけるFGF8依存的なEn2の発現を制御していることが強く示唆された。

3.Irx3の異所発現によって異所性の中脳組織が形成されたこととが、分子マーカーならびに組織像から示された。従って、Irx3はFGF8に対する反応性を規定し、中脳組織の形成を担うと考えられた。

4.ニワトリ胚でのエレクトロポレーション法による異所発現を用いて、Six3がFGF8に対する前方領域での応答性を規定する可能性を検討した。Six3の強制発現によって、内在性のFGF8が発現している領域でのみBf1の異所発現が観察された。さらに、恒常活性化型FGF受容体とSix3を共発現させると内在性のFGF8発現部位から離れた領域でもBf1が誘導されることが観察された。これらの結果は、Six3がFGF8に対する前方型の応答性を与えていることを示唆している。

5.Six3およびIrx3の発現領域は、Shhが前方でNkx2.1を誘導する領域、後方でNkx6.1を誘導する領域とも良く相関していることが観察された。

6.Six3とIrx3の強制発現により、それぞれNkx2.1とNkx6.1が異所性に発現した。しかも、この異所発現はShhの作用する神経板腹側に限られて観察された。これらの結果から、Six3とIrx3は標的遺伝子の発現を直接制御しているわけではなく、Shhに対する細胞の応答性を制御していると考えられた。

 以上、本論文は、神経板で領域特異的に発現している転写制御因子Six3とIrx3が、FGF8やShhといった分泌性シグナル分子に対する領域特異的な応答性を規定し、その結果として領域ごとに異なる組織形成と細胞分化が生じることを明らかにした。本研究は、脳の形態形成の分子基盤の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものであると考えられる。

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