学位論文要旨



No 117316
著者(漢字) 尾方,克久
著者(英字)
著者(カナ) オガタ,カツヒサ
標題(和) 神経系に発現する電位依存性ナトリウムチャネルの分子生物学的研究
標題(洋)
報告番号 117316
報告番号 甲17316
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1924号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 御子柴,克彦
 東京大学 教授 三品,昌美
 東京大学 教授 岡山,博人
 東京大学 教授 花岡,一雄
 東京大学 助教授 中福,雅人
内容要旨 要旨を表示する

序論

 神経や筋肉などの興奮性細胞で,情報伝搬や筋収縮などそれらの細胞の本質的な機能は膜電位の変化によりもたらされる。膜電位は細胞内外のイオン濃度により規定される。しかし親水性物質であるイオンは,脂質二重層で構成される疎水性の細胞膜を自由に通過することができないので,膜たんぱく分子により形成されるイオンチャネルをイオンが通過し,膜電位の変化が生じる。電位依存性イオンチャネルは膜電位の変化を感知して特定のイオンを選択的に通過させる。膜電位変化による活動電位の発生と伝搬に最も大きな役割を果たすのが電位依存性ナトリウムチャネルである。電位依存性ナトリウムチャネルは,αサブユニットといくつかのβサブユニットで構成され,膜電位の感知やナトリウムイオンの選択および通過といったチャネルとしての基本的機能を担うのはαサブユニットである。βサブユニットは,αサブユニットの機能を修飾すると考えられている。分子生物学的手法により,ナトリウムチャネルには少なくとも10種のαサブユニットと3種のβサブユニットが同定され,発現分布が分子種ごとに異なることが報告されている。しかしそれぞれの分子種の機能的差異についてはまだよくわかっていない。他方では,電位依存性ナトリウムチャネルの変異による遺伝性疾患が同定され,正常機能のみならず疾患の病態機構にも重要な役割を果たすことが明らかとなった。

 神経系組織は,部位によって機能が極めて多様であり,同一の部位に存在する神経細胞であっても,個々の神経細胞が特異的な機能を有する。それぞれの神経細胞が独自の機能的個性を有していることが,神経系の最大の特性と言えよう。しかし神経細胞ごとの特異性に与る分子に関して,これまであまり検討されていない。そこで,興奮性細胞である神経細胞の本質を担い,多様な分子種が存在するナトリウムチャネルが,神経細胞の個性の決定に関与しているのではないかと考えた。実際,細胞の機能が一様である骨格筋や心筋においては,特定の分子種のみが発現しているのに対し,神経系には多くの分子種が発現していることが知られている。神経系における,ナトリウムチャネルの分子種ごとの分布の差異を系統的に検討することは,個々の神経細胞の機能の特異性・多様性を検討する上でも,またナトリウムチャネルの分子種ごとの機能を検討する上でも重要である。

 本研究では,神経細胞の個性の発現を制御する機構の解明を目的として,神経系に発現する電位依存性ナトリウムチャネルの分子種ごとの発現分布を,分子生物学的手法を用いて明らかにした。まず発現する遺伝子の探索を行なったところ,新規の電位依存性ナトリウムチャネル遺伝子を単離して同定することに成功した。さらに神経系組織の各部位および単一神経細胞レベルでの発現分布について,系統的に検討した。

1.新規のマウステトロドトキシン抵抗性電位依存性ナトリウムチャネルαサブユニットNaT/Scn11aの単離同定と発現分布の検討

 神経系に発現する電位依存性ナトリウムチャネルの分布を系統的に検討するために,分子生物学的手法を用いて,神経系に発現する電位依存性ナトリウムチャネル遺伝子の探索を系統的に行なった。その結果,新規のマウス電位依存性ナトリウムチャネルαサブユニット遺伝子を単離して同定し,NaT/Scn11aと命名した。

 NaT/Scn11a遺伝子はラットNaN/SNS2遺伝子と約89%が相同で,その他のナトリウムチャネルαサブユニットとは40-60%の相同性しかなかった。塩基配列解析から,NaT/Scn11aは1765個のアミノ酸残基から成り,分子量201kDaで,電位依存性ナトリウムチャネルの遮断薬であるテトロドトキシンに対して抵抗性であると予想された。また蛍光in situハイブリダイゼーション(FISH)法により染色体座をマウス第9染色体F3-F4に同定した。その近傍にはテトロドトキシン抵抗性のScn5aおよびScn10aの染色体座が存在することから,薬理学的に同様な性質を有する3つの分子種の遺伝子は染色体上でクラスターとなって存在していることが予想された。テトロドトキシン抵抗性のヒト分子種SCN5A,SCN10AおよびSCN12Aもヒト第3染色体上でクラスターを形成する。他にSCN1A,SCN2A,SCN3A,SCN6A/Scn7a,SCN9Aはヒト第2染色体,マウス第2染色体上でクラスターを形成する。SCN4A(ヒト第17染色体,マウス第11染色体),SCN8A(ヒト第12染色体,マウス第15染色体)は別の染色体に位置し,10個のαサブユニット分子種はゲノム上の4か所に分布している。これらの染色体座にはHOX遺伝子,コラーゲンα遺伝子,インテグリン遺伝子などの派生相同も生じており,進化の過程での染色体重複によりこれらの遺伝子とともに電位依存性ナトリウムチャネルαサブユニット遺伝子がゲノム上の4か所に位置するようになったと推測される。

 さらにNaT/Scn11aの発現分布を検討するために,ノザンハイブリダイゼーション,RT-PCR,およびin situハイブリダイゼーションを行なった。ノザンハイブリダイゼーションでは,精巣においてのみ約6kbのシグナルを認めた。また受胎15日目以降にシグナルを認めた。RT-PCRでは,脊髄後根神経節(DRG),三叉神経節,精巣に強いシグナルを認め,これらの組織にNaT/Scn11aが主に発現していることがわかった。脊髄,卵巣,子宮,小腸にも弱いシグナルを認めた。In situハイブリダイゼーションでは,DRG,脊髄,精巣,子宮,卵巣,胎盤,小腸にシグナルを認め,概ねRT-PCRの結果と同様の分布を認めた。DRGでは小径の神経細胞に限局してシグナルを認めた。小径の神経細胞は主に痛覚を伝導すると考えられており,NaT/Scn11aは痛覚の伝導機構に関与する分子であることが予想された。その機能の詳細は電気生理学的手法を用いた機能的発現実験や,ノックアウトマウスの解析により明らかにされよう。またDRGの小径神経細胞はマウス受胎13-16日目に形成されることが知られ,NaT/Scn11aがDRG小径神経細胞の発生に伴って発現する可能性が考えられた。

2.ヒトおよびラット神経系に発現する電位依存性ナトリウムチャネル各分子種の発現分布

 電位依存性ナトリウムチャネルの全分子種の分布を,系統的に検討した研究は報告されていない。ヒトおよびラットでは,αサブユニット10種とβサブユニット3種が同定されている。RT-PCR法を用いて,神経系におけるそれぞれの分子種の発現分布を解析した。

 SCN1A,SCN2A,SCN8Aは中枢神経系(CNS)に広く分布し,DRGはCNSより弱かった。SCN3Aも広く分布するがヒトは尾状核と小脳皮質,ラットは視床と海馬に強かった。SCN4Aは骨格筋に極めて強く,CNSよりDRGがやや強かった。SCN5Aは心筋に極めて強く,大脳皮質,海馬,脊髄,DRGにも認めた。SCN6A/Scn7aは視床,脊髄,DRG,心筋に強かった。SCN9AはCNSよりDRGが強く,CNSではヒトは尾状核と黒質,ラットは視床に強かった。SCN10A,およびラットScn11aとヒトSCN12AはDRGに強く,CNSはごく弱かった。

 SCN1Bは神経系,骨格筋,心筋に広く強い分布を認めた。SCN2B,SCN3BはヒトではCNSに広く分布しDRGより強かったが,ラットではDRGがCNSより強く,CNSではSCN2Bは大脳と小脳,SCN3Bは大脳と脳幹が他より強かった。

 以上,神経系に広く分布する分子種と,分布が局在する分子種があることがわかった。

3.ヒト単一神経細胞における電位依存性ナトリウムチャネル各分子種の発現分布

 本研究の目標は神経細胞の個性を規定する機構の解明なので,単一の神経細胞における発現分布の解析が求められる。さらに末梢感覚神経節では,神経細胞は細胞体径により3群に分類され,それぞれで発現するナトリウムチャネル分子種が異なることから,それぞれ個別に発現分布を解析する必要がある。そこで単一神経細胞を材料としたRT-PCRを行ないそれぞれの細胞での各分子種の発現を解析した。

 単一神経細胞はフッ化アルゴンエキシマレーザーを用いたレーザーマイクロダイセクターにより回収した。0.2%トルイジンブルーで染色した凍結切片標本上で標的とした細胞は,その外縁をレーザーで切断し,標本を表裏反転後に裏面から弱いレーザーを照射し,はじかれて落下した細胞を回収してRT-PCRの材料とした。逆転写反応にはアンカーを連結したオリゴ(dT)プライマーを用いた。PCRはnested PCRで行ない,1回目PCRは標的とした14分子種全ての5'プライマーを3'アンカープライマーとともに加えて反応させ,各分子種の比率が変わらない程度の少ないサイクル数で増幅した。2回目PCRはそれぞれの分子種ごとに別々に反応を行なった。

 微量PCRの感度と安定性を検証する目的で,グリセルアルデヒドリン酸デヒドロゲナーゼおよびβ-アクチンのcDNAサブクローン標準試料を段階的に希釈しPCRを行なったところ,1.6×10-15g(約4000コピー)以上では安定したPCR産物が得られ,1.6×10-17g(約40コピー)以下では全くPCR産物が得られなかった。1.6×10-16g(約400コピー)では同一組成の反応液で結果がまちまちで,特定の低濃度ではPCR産物の検出にばらつきが生じることがわかった。

 単一神経細胞RT-PCRの材料として,小脳プルキンエ細胞,中脳黒質メラニン含有細胞,脊髄運動ニューロン細胞,および後根神経節の大径,中径,小径の各神経細胞の6群に分けて採取した。まず各群の10個の神経細胞を集めて反応を行ない,引き続き各群の神経細胞7個ずつにつき検討した。細胞10個での結果と1個ずつでの結果は一致した。

 小脳プルキンエ細胞は,全ての細胞でSCN1A,SCN8A,SCN1B,SCN2Bが,SCN3A,SCN12A,SCN3Bが一部の細胞で発現し,他は発現を認めなかった。中脳黒質メラニン含有細胞は,全ての細胞でSCN3A,SCN6A,SCN9A,SCN2B,SCN3Bが,SCN1A,SCN2A,SCN8A,SCN1Bが一部の細胞で発現し,他は発現を認めなかった。脊髄運動ニューロン細胞は,全ての細胞でSCN8A,SCN9A,SCN1Bが,SCN1A,SCN2A,SCN3A,SCN6A,SCN2B,SCN3Bが一部の細胞で発現し,他は発現を認めなかった。

 後根神経節では,SCN6AおよびSCN9Aはいずれの大きさの群にも発現が認められた。SCN10AおよびSCN12Aは中〜小径の神経細胞に,SCN8Aは大〜中径の神経細胞に,SCN1Aは大径の神経細胞の一部にのみ発現を認めた。βサブユニットはSCN1Bがいずれの大きさの群にも発現が認められたのに対し,SCN2Bは中径の神経細胞に,SCN3Bは小径の神経細胞にしか発現を認めなかった。神経細胞の径は軸索径と概ね相関し,それぞれが伝導する感覚情報の種類が異なると考えられているので,分子種ごとに感覚伝導に果たす役割が異なることが想定される。

 単一神経細胞における各分子種の発現分布をみると,ある群の全ての細胞に発現する分子種と,一部の細胞にしか発現しない分子種があった。ある群の神経細胞でその機能の本質を担う分子種は全ての細胞に発現し,細胞により分布がばらつく分子種はその細胞に特有の機能に与るのではないかと考えられた。ある群の細胞ごとの発現のばらつきは後根神経節にはほとんどみられず,中枢神経系に多かったが,このことは後根神経節の神経細胞が専ら感覚伝導に関わるのに対し,中枢神経系では一つの部位に多様な神経細胞が混在することによるのではないかと考えられる。

 本実験で確立できた実験方法は,神経系のさまざまな部位における単一神経細胞レベルでのチャネル分子種の発現分布を検討して個々の神経細胞の性質を明らかにしたり,さらには実験動物モデルや病理材料を用いた疾患の病態生理の解明に応用できる。またプライマーを設計すればさまざまな分子を標的として同様の解析が可能である。

総括

 ヒトとラットの神経系に発現する電位依存性ナトリウムチャネル各分子種の分布を,分子生物学的手法を用いて系統的に解析した。また脊髄後根神経節においては,径の異なる神経細胞では発現する分子種が異なることを示した。同様の手法は,生理的な各分子種の特異性・多様性の検討のみならず,疾患の病態機構の解明に応用できると考えられる。

 さらに系統的探索の過程で,痛覚に関与すると考えられる新規分子NaT/Scn11aを同定した。今後,電気生理学的手法やジーンターゲティングの手法を用いた検討による機能の解明が必要である。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は神経細胞の興奮性細胞としての機能に重要な役割を担っている電位依存性ナトリウムチャネルに着目し,分子種ごとの発現分布の特異性および多様性を解析することで,神経細胞の個性を規定する機構の解明を試みたものであり,下記の結果を得ている。

1.分子生物学的手法を用いた電位依存性ナトリウムチャネルの系統的探索により,新規のマウス電位依存性ナトリウムチャネルαサブユニット遺伝子NaT/Scn11aを同定した。この分子は予想されるアミノ酸配列からテトロドトキシン抵抗性と考えられ,その染色体座の周辺には他のテトロドトキシン抵抗性分子種Scn5aおよびScn10aが位置しており,これらの分子種の近縁性が示唆された。末梢感覚神経節(脊髄後根神経節,三叉神経節)と精巣に強い発現を認めたほか,脊髄,卵巣,胎盤,子宮,小腸にも分布した。末梢感覚神経節の中では,小径神経細胞に限局して発現し,この分子の痛覚伝導への関与が示唆された。

2.電位依存性ナトリウムチャネルのαサブユニット10種およびβサブユニット3種について,ヒトおよびラット神経系のさまざまな部位における発現分布を,RT-PCR法を用いて系統的かつ網羅的に解析した。神経系に広く分布する分子種と,分布が局在する分子種があることが示された。同じ分子種でもヒトとラットの発現分布が必ずしも一致しなかった。

3.ヒト単一神経細胞を材料とした微量RT-PCR法を用いて,電位依存性ナトリウムチャネル各分子種の発現分布を解析した。まず解析の素材となる単一神経細胞を,レーザーマイクロダイセクターを用いて回収し,RT-PCRに供した。微量PCRにおいては,鋳型核酸濃度が特定の低濃度の場合,PCR産物の検出にばらつきが生じることが予備実験で示された。単一神経細胞を材料としたRT-PCRでは,10個の細胞を集めてRT-PCRを行なった場合と,1個ずつの細胞でRT-PCRを行なった場合で,結果に齟齬がなく,再現性のある結果であることが示された。周囲の細胞成分の回収したサンプルヘの混入や,メッセンジャーRNAの細胞内局在といった問題点はあるものの,解析した神経細胞に関してはおもに発現する分子種とほぼ発現のない分子種が明らかとなった。細胞ごとに結果にばらつきのある分子種は,細胞ごとの発現の差を反映する可能性と,発現が少量であることを反映する可能性が挙げられた。

 以上,本論文は電位依存性ナトリウムチャネルの神経系における発現分布の特異性および多様性を明らかにし,また新規分子の同定に成功した。神経系で重要な役割を果たす電位依存性ナトリウムチャネルの分布を系統的かつ網羅的に解析した研究はこれまでになく,本研究における解析に用いた手法は疾患の病態解明や分子の機能解明への応用が期待され,学位の授与に値するものと考えられる。

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