学位論文要旨



No 117329
著者(漢字) 塩之入,千恵子
著者(英字)
著者(カナ) シオノイリ,チエコ
標題(和) 成人T細胞性白血病の多段階発癌におけるβ−catenin/TCFシグナル伝達系の関与
標題(洋)
報告番号 117329
報告番号 甲17329
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1937号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,茂郎
 東京大学 教授 中原,一彦
 東京大学 助教授 佐藤,典治
 東京大学 助教授 平井,久丸
 東京大学 講師 小林,美由紀
内容要旨 要旨を表示する

<研究の背景と目的>

 ATLはHTLV-I感染後、約50年の潜伏期間の後に発症する。ATL発症の年齢特異性を調べた報告では、ATLの発症率はWeibullの多段階発癌モデルに適合し、年齢依存的な5つのleukemogenic eventsの蓄積が示唆された。現在、leukemogenic eventsの実体は不明であるが、Taxによる感染T細胞のクローン性増殖がこの初期過程の重要な要素であると考えられている。しかしATL腫瘍細胞ではTax蛋白は発現しておらず、Tリンパ球不死化の過程においてはTax依存性であるが、それ以降の腫瘍化の過程においてはTax非依存性の腫瘍化機構の存在が示唆されている。共同研究者は不死化細胞から腫瘍細胞へ至る腫瘍化機構を調べる目的で、腫瘍化の過程で生じた遺伝子異常が腫瘍細胞に蓄積していると考え、新鮮ATL細胞を材料に、正常Tリンパ球およびTax不死化細胞株を対照として、differential display法を施行し、ATL細胞で発現が亢進している遺伝子としてPKCβIIを同定した。不死化細胞では、PKCβIIの発現レベルが低いことから、PKCβIIの過剰発現は、不死化細胞とATL腫瘍細胞とを明確に区別する特徴であるということを見出した。

 本研究では、不死化細胞からATL腫瘍細胞へのプログレッションにおいて、PKCβIIの下流において、どのような機構が働いているかについて検討した。PKCβIIの基質の一つとしては、GSK-3βが報告されている。また、PKCβIIを腸上皮に発現させたトランスジェニックマウスを用いた報告では、腸上皮の過形成および異型腺管がみられこの腸上皮において、β-cateninの蓄積とGSK-3βの活性の低下を認めた。これらの背景に基づき、ATLにおいて、PKCβIIの下流においてβ-catenin/TCFシグナル伝達系が関与しているという可能性について検討した。不死化細胞株、ATL腫瘍細胞由来細胞株およびATL患者検体において、GSK-3βのリン酸化状態、β-cateninの蓄積、β-cateninの細胞内局在およびTCF転写活性などについて検討した。さらに、β-cateninの蓄積の認められないTax1A細胞に、β-catenin遺伝子を導入して、β-cateninの腫瘍化への関与について生物学的な検討を行った。

<方法・結果・考察>

1.構成的活性型PKCβII導入Tax1Aにおけるβ-cateninの蓄積とGSK-3βのリン酸化:

 PKCβIIの活性化の下流においてGSK-3βのリン酸化とβ-cateninの蓄積を認めるか検討するために、PKCβII低発現のTax1Aに構成的活性型PKCβIIを導入したTax1A/ΔPKCβIIを用いてウエスタンブロッティング法を施行した。その結果Tax1A/ΔPKCβIIは、コントロールに比べて明らかにβ-cateninの蓄積傾向とGSK-3βのリン酸化傾向を認めた。

2.ATL腫瘍細胞由来細胞株およびATL患者検体におけるGSK-3βのリン酸化およびβ-cateninの蓄積:

 内因性のPKCβIIの過剰発現を認める細胞におけるGSK-3βのリン酸化およびβ-cateninの蓄積についてウエスタンブロッティング法にて検討した。PKCβIIの過剰発現のATL腫瘍細胞由来細胞株の一部およびATL患者検体の一部において、明らかにGSK-3βのリン酸化とβ-cateninの蓄積を認めた。一方、PKCβII低発現のTax不死化細胞株では、GSK-3βは低リン酸化状態であり、β-cateninの蓄積は認めなかった。つまりATL腫瘍細胞の一部でPKCβII過剰発現の下流で実際にGSK-3βのリン酸化およびβ-cateninの蓄積を認めた。このことは、ATL腫瘍細胞において、PKCβIIの過剰発現がGSK-3β蛋白のリン酸化を引き起こし、さらにβ-catenin蛋白の蓄積を来すという一連の系が機能していることを強く示唆している。

3.β-cateninの細胞内局在:

 β-cateninが転写因子TCFのcofactorとして機能するには核内に蓄積する必要がある。そこで各種細胞におけるβ-cateninの細胞内局在について共焦点レーザー顕微鏡にて検討した。PKCβIIの過剰発現のATL43TおよびATL48Tではβ-cateninの細胞質内および核内での蓄積を認めた。一方、PKCβII低発現の不死化細胞株MT-2では、β-cateninの核内での蓄積は認めなかった。以上からPKCβIIの発現とβ-cateninの核内の蓄積には強い相関を認めた。

4.ATL腫瘍細胞由来細胞株におけるTCF転写活性:

 β-catenin蛋白の核内への蓄積が、実際にTCFの転写の活性化につながっているか検討するために、TCF-CATアッセイを施行した。PKCβIIの過剰発現を認めるATL43TではCAT活性は高値であったが、PKCβII低発現のTax1AではCAT活性は低値であった。以上からPKCβIIの過剰発現を認める細胞では、PKCβIIの下流においてTCFの転写が活性化されていることが強く示唆された。

5.β-catenin導入Tax1A細胞の樹立と生物学的影響の検討:

 次にβ-cateninの蓄積のないTax1Aにβ-catenin遺伝子を導入しTax1Aの生物学的な変化について検討した。β-catenin遺伝子の導入には、高い感染効率のレトロウイルスベクターを使用して、空ベクター導入Tax1A(Tax1A/mock)、wild typeβ-catenin導入Tax1A(Tax1A/β-catenin full)およびtruncated β-catenin導入Tax1A(Tax1A/β-cateninΔN)を樹立した。細胞増殖能について検討した結果、β-catenin導入Tax1AはTax1A/mockに比べて統計学的に有意な細胞数の増加を示した。さらにTax1A/β-cateninΔNは、Tax1A/β-catenin fullより細胞数の増加傾向が大きかった。Tax1Aは元来IL-2依存性の細胞であるが、次に、Tax1Aへのβ-catenin遺伝子の導入がTax1AのIL-2依存性に及ぼす影響について検討した。IL-2非存在下においてTax1A/β-cateninΔNおよびTax1A/mockの生細胞数を1日毎に計測した結果、Tax1A/β-cateninΔNはTax1A/mockに比べて有意な細胞数の増加は示さなかった。以上からβ-cateninはIL-2の機能を代償することはできなかった。

6.不死化細胞およびATL腫瘍細胞由来細胞株におけるDNAマイクロアレイ解析:

 これまでの結果から、PKCβIIの過剰発現を認めるATL腫瘍細胞の約半数において、PKCβIIの過剰発現の下流においてβ-catenin/TCFシグナル伝達系の活性化を認めることを明らかにした。また、Tax1Aへのβ-catenin遺伝子の導入実験から、β-catenin/TCFシグナル伝達系の活性化は、不死化細胞から腫瘍細胞へのプログレッションにおいて重要であることが強く示唆された。しかしながら、不死化細胞から腫瘍細胞へのプログレッション機構は、PKCβIIの過剰発現、β-catenin/TCFシグナル伝達系の活性化のみでは説明できない。今後の方針としては、1つにはdifferential display法にて見出された他の遺伝子異常について、PKCβIIと同様の手法を用いて解析を進めることが考えられた。しかしながら、不死化細胞から腫瘍細胞に至るプログレッション機構について検討する際、個々の遺伝子異常に着目するのみではなく、遺伝子群としてより包括的に遺伝子発現について調べることも重要であると考えられる。そして、近年、differential display法よりも、包括的に遺伝子発現プロファイルを調べる方法としてDNAマイクロアレイ法が利用できるようになってきた。

 そこで、本研究ではさらに、DNAマイクロアレイ法が、不死化細胞から腫瘍細胞へ至るプログレッション機構の解明において有用であるかどうか検討するために、ATL関連細胞株の代表的なものを用いて予備的な解析を施行した。その結果、不死化細胞とATL腫瘍細胞由来細胞株では、全く別個のクラスターを形成した。つまり、不死化細胞とATL腫瘍細胞の遺伝子発現プロファイルには明確な差異があることを示しており、このことから不死化細胞に種々の遺伝子変化が加わり、不死化細胞とは別の性質のATL腫瘍細胞に至ったと考えられる。以上の結果から、DNAマイクロアレイ解析は、各細胞における遺伝子発現プロファイルの違いを明確に検出可能であり、不死化細胞から腫瘍細胞へのプログレッション機構の解明に大変有用であることを確認した。

<結語>

1.不死化細胞とATL腫瘍細胞を明確に区別する特徴であるPKCβIIの構成的活性化の下流において、ATL腫瘍細胞の一部において、β-catenin/TCFシグナル伝達系が活性化していることを明らかにした。

2.β-catenin遺伝子の不死化細胞への導入により細胞増殖能の亢進を認めたことから、β-catenin/TCFシグナル伝達系の活性化は、不死化細胞からATL腫瘍細胞への進展に寄与していることが強く示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、成人T細胞性白血病の発症機構の解明、特に不死化細胞から腫瘍細胞に至る過程を明らかにする目的で解析を行ってきた。共同研究者は、ATL腫瘍細胞を材料として不死化細胞を対照としてdifferential display法を行い、不死化細胞と腫瘍細胞を区別する現象として、ATL腫瘍細胞でのPKCβIIの過剰発現と構成的活性化を明らかにした。そこで、本研究では、ATL腫瘍細胞において、不死化細胞から腫瘍細胞へのプログレッションの過程において、PKCβIIの下流でβ-catenin/TCFシグナル伝達系が活性化している可能性について検討を行った。

1.PKCβIIの活性化の下流においてGSK-3βのリン酸化とβ-cateninの蓄積を認めるか検討するために、PKCβII低発現のTax1Aに構成的活性型PKCβIIを導入したTax1A/ΔPKCβIIを用いてウエスタンブロッティング法を施行した。その結果Tax1A/ΔPKCβIIは、コントロールに比べて明らかにβ-cateninの蓄積傾向とGSK-3βのリン酸化傾向を認めた。

2.内因性のPKCβIIの過剰発現を認める細胞におけるGSK-3βのリン酸化およびβ-cateninの蓄積についてウエスタンブロッティング法にて検討した。PKCβIIの過剰発現のATL腫瘍細胞由来細胞株の一部およびATL患者検体の一部において、明らかにGSK-3βのリン酸化とβ-cateninの蓄積を認めた。一方、PKCβII低発現のTax不死化細胞株では、GSK-3βは低リン酸化状態であり、β-cateninの蓄積は認めなかった。

3.β-cateninが転写因子TCFのcofactorとして機能するには核内に蓄積する必要がある。そこで各種細胞におけるβ-cateninの細胞内局在について共焦点レーザー顕微鏡にて検討した。PKCβIIの過剰発現のATL43TおよびATL48Tではβ-cateninの細胞質内および核内での蓄積を認めた。一方、PKCβII低発現の不死化細胞株MT-2では、β-cateninの核内での蓄積は認めなかった。

4.β-catenin蛋白の核内への蓄積が、実際にTCFの転写の活性化につながっているか検討するために、TCF-CATアッセイを施行した。PKCβIIの過剰発現を認めるATL43TではCAT活性は高値であったが、PKCβII低発現のTax1AではCAT活性は低値であった。以上からPKCβIIの過剰発現を認める細胞では、PKCβIIの下流においてTCFの転写が活性化されていることが強く示唆された。

5.β-cateninの蓄積のないTax1Aにβ-catenin遺伝子を導入しTax1Aの生物学的な変化について検討した。細胞増殖能について検討した結果、β-catenin導入Tax1AはTax1A/mockに比べて統計学的に有意な細胞数の増加を示した。以上から、β-catenin/TCFシグナル伝達系の活性化は、不死化細胞からATL腫瘍細胞への進展に寄与していることが強く示唆された。

6.さらに本研究ではDNAマイクロアレイ法が、不死化細胞から腫瘍細胞へ至るプログレッション機構の解明において有用であるかどうか検討するために、ATL関連細胞株の代表的なものを用いて予備的な解析を施行した。その結果、不死化細胞とATL腫瘍細胞由来細胞株では、全く別個のクラスターを形成した。つまり、不死化細胞とATL腫瘍細胞の遺伝子発現プロファイルには明確な差異があることを示しており、このことから不死化細胞に種々の遺伝子変化が加わり、不死化細胞とは別の性質のATL腫瘍細胞に至ったと考えられる。以上の結果から、DNAマイクロアレイ解析は、各細胞における遺伝子発現プロファイルの違いを明確に検出可能であり、不死化細胞から腫瘍細胞へのプログレッション機構の解明に大変有用であることを確認した。

 以上、本論文は不死化細胞とATL腫瘍細胞を明確に区別する特徴であるPKCβIIの構成的活性化の下流において、ATL腫瘍細胞の一部において、β-catenin/TCFシグナル伝達系が活性化していることを明らかにした。そして、β-catenin遺伝子の不死化細胞への導入により細胞増殖能の亢進を認めたことから、β-catenin/TCFシグナル伝達系の活性化は、不死化細胞からATL腫瘍細胞への進展に寄与していることが強く示唆された。本研究は、これまで明らかにされていなかった不死化細胞から腫瘍細胞に至る機構の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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