学位論文要旨



No 117352
著者(漢字) 鈴木,亮
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,リョウ
標題(和) インスリン受容体基質−2欠損マウスにおける糖尿病の発症機序の解明
標題(洋)
報告番号 117352
報告番号 甲17352
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1960号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 永井,良三
 東京大学 教授 深山,正久
 東京大学 教授 油谷,浩幸
 東京大学 助教授 七屋,尚之
 東京大学 講師 橋本,佳明
内容要旨 要旨を表示する

 近年、日本では2型糖尿病の患者数が急激に増大している。2型糖尿病は、インスリン抵抗性やインスリン分泌低下など複数の要素が相互に影響を与えた結果、インスリン作用の相対的な不足を来たし発症すると考えられる。インスリンは膵β細胞から分泌され、肝臓・骨格筋・脂肪組織などのインスリン標的臓器に作用してブドウ糖を取り込み、グリコーゲン・蛋白質・中性脂肪などにして貯蔵するホルモンである。この作用はインスリンがインスリン受容体に結合し、内在するチロシンキナーゼが活性化することにより、インスリン受容体基質(Insulin Receptor Substrate : IRS)-1やIRS-2などの細胞質内に存在する基質がチロシンリン酸化を受けるステップから始まる。IRS蛋白質の生理的な役割は、欠損マウスの作製によって明らかにされてきている。IRS-1欠損マウスは成長障害と骨格筋のインスリン抵抗性を有するが、耐糖能障害は示さない。一方、IRS-2欠損マウスは6週齢の時点では耐糖能障害を認めないが、IRS-1欠損マウスで見られる膵β細胞の代償性過形成を欠き、逆に野生型よりも膵β細胞は低形成である。このため肝臓でのインスリン抵抗性を代償できず10週齢で糖尿病を発症する。さらにIRS-2欠損マウスは肥満とレプチン抵抗性、脂肪肝を来たし、これらの表現型はヒト2型糖尿病に類似している。

 本研究では、肝臓でのインスリン情報伝達障害によるインスリン抵抗性と膵β細胞の増殖不全を呈し、インスリンの相対的作用不足をきたす2型糖尿病モデルであるIRS-2欠損マウスを用いて、(1)インスリン抵抗性の糖尿病発症における役割、(2)高脂肪食の糖尿病増悪に与える影響について検討を行った。

 糖尿病の発症にインスリン抵抗性とβ細胞機能障害の両者が併存することが必須であるかどうか明らかにするために、IRS-2欠損マウスの肝臓にIRS-2を強制発現させ、このマウスの耐糖能異常に影響を与えうるか検討した。

 目的遺伝子をアデノウイルスベクターに組込みマウスに感染させた場合、大部分が肝臓に発現することが知られている。糖尿病を発症した10週齢のIRS-2欠損マウスに、Adeno-IRS-2ベクターまたは対照としてAdeno-LacZベクターを感染させた。ベクターにコードしたIRS-2のC末端には標識としてFLAG配列を付加した。感染後5日の時点で肝臓に発現したIRS-2の量をウェスタンブロッティングにより確認した。Adeno-IRS-2ベクターを感染させたIRS-2欠損マウスでは、ほぼ野生型と同量のIRS-2蛋白が発現していたが、これに対しAdeno-LacZベクターを感染させたIRS-2欠損マウスでは全くIRS-2の存在を認めなかった。抗FLAG抗体染色により、ベクターによって新たに発現したIRS-2は外来性であることを確認した。IRS-1蛋白の量は野生型、Adeno-IRS-2ベクター感染IRS-2欠損、Adeno-LacZベクター感染IRS-2欠損、いずれの群でも同程度で、アデノウイルスによるIRS-2の強制発現は内因性のIRS-1発現に影響を与えなかった。骨格筋、白色脂肪組織、膵β細胞の各組織において、Adeno-IRS-2ベクターによるIRS-2の発現はウェスタンブロッティングで検出限界以下であった。

 ベクター感染後4〜5日の時点で、インスリン負荷試験を行った。Adeno-IRS-2ベクターを感染させたIRS-2欠損マウスの血糖値は、インスリン投与後野生型とほぼ同等に低下し、インスリン抵抗性の改善を認めた。これに対し、Adeno-LacZベクターを感染させたIRS-2欠損マウスではインスリン抵抗性が依然として存在した。この結果から、IRS-2欠損マウスのインスリン抵抗性は、肝臓特異的なIRS-2の強制発現により改善すると考えられた。

 経口ブドウ糖負荷試験の結果、Adeno-IRS-2ベクターを感染させたIRS-2欠損マウスは野生型とほぼ同等であった。これに対し、Adeno-LacZベクターを感染させたIRS-2欠損マウスは高血糖を示した。

 16時間絶食後の空腹時血漿インスリン値を測定すると、Adeno-IRS-2ベクターを感染させたIRS-2欠損マウスではAdeno-LacZベクター感染群より有意に低値であるが、野生型よりは高値で、両者のほぼ中間であった。また、インスリン負荷試験の結果はIRS-2欠損マウスのインスリン抵抗性がAdeno-IRS-2ベクターにより改善したことを示したが、投与後90分後には野生型と比較して血糖値の上昇傾向を認め、インスリン抵抗性の改善が完全なものではないことを示唆していた。

 以上の結果から、IRS-2欠損マウスの肝臓特異的なIRS-2強制発現によるインスリン抵抗性改善は、膵β細胞が代償可能なレベルに達してはいるが、部分的であると考えられた。

 Adeno-LacZベクターを感染させたIRS-2欠損マウスではAdeno-LacZベクターを感染させた野生型と比較して摂食時のPEPCK及びG6Paseの発現が亢進しており、インスリンによる発現抑制が障害されていると考えられた。これに対し、Adeno-IRS-2ベクターを感染させたIRS-2欠損マウスでは、これら酵素mRNAの発現が野生型とほぼ同等まで抑制され、Adeno-IRS-2ベクターは、IRS-2欠損マウスの肝臓におけるインスリンシグナル伝達を正常化させたと考えられた。

 アデノウイルスベクターによって強制発現されたIRS-2は肝臓に発現するが、IRS-2は本来全身に広く分布する蛋白であり、IRS-2欠損マウスが(少なくともインスリン作用において)障害を持つと考えられる部位もまた肝臓だけではない。膵β細胞特異的にインスリン受容体を欠損したマウスは進行性のインスリン分泌低下を伴う2型糖尿病に類似した病態をとることから、膵β細胞の機能維持にはインスリンシグナルが必要である。実際、IRS-2欠損マウスも同様に膵β細胞の増殖不全を初めとする潜在的なβ細胞機能障害を有しており、これはアデノウイルスベクターによるIRS-2発現では改善されない。しかし、肝臓のインスリン抵抗性のみを選択的に、しかも部分的に改善しただけで耐糖能が改善したということは、IRS-2欠損マウスの糖尿病発症にはインスリン抵抗性の存在が必須であること、また膵β細胞の機能が低下していても、インスリン分泌を要求する負荷を代償可能なレベルまで軽減することで糖尿病の治療は可能であることを示唆している。

 次に、環境因子による負荷がIRS-2欠損マウスの耐糖能に与える影響を評価するため、糖尿病未発症の6週齢IRS-2欠損マウス及び野生型マウスに高脂肪食負荷を4週間行った。対照として、通常食を投与した群と比較した。IRS-2欠損マウスと野生型マウスともに、高脂肪食を投与された群は通常食と比較して体重が増加した。経口ブドウ糖負荷試験の結果、高脂肪食負荷IRS-2欠損マウスは、空腹時高血糖を伴う糖尿病の著明な増悪を認めた。高脂肪食負荷IRS-2欠損マウスは、インスリン抵抗性の増大に対し、血糖値を正常化することが可能な量のインスリン代償性分泌ができないと考えられた。

 マウス膵臓の免疫染色所見から、高脂肪食負荷4週間後のIRS-2欠損マウスの膵β細胞において脱顆粒所見が見られた。この所見は、高脂肪食負荷IRS-2欠損マウスの膵β細胞が、要求されるインスリン代償性分泌の過大な負荷に対応できないことを示唆する。さらに、単離した膵島のインスリン分泌を測定したところ、IRS-2欠損マウスの膵島は通常食の場合、グルコース応答性インスリン分泌が保たれているのに対し、高脂肪食負荷群においては高濃度グルコースに対するインスリンの応答性分泌がほとんど欠如していた。一般に高脂肪食は、骨格筋の糖取り込み低下に始まるインスリン抵抗性増大を介して耐糖能を悪化させるとされるが、IRS-2欠損マウスにおいては早期からインスリン分泌に影響を与え膵β細胞機能不全をきたすと考えられた。

 IRS-2欠損マウスは野生型マウスと比較して脂肪細胞のサイズが大きい。高脂肪食負荷が加わると、IRS-2欠損マウスの脂肪細胞はさらに肥大化した。脂肪細胞の肥大化と並行して、高脂肪食負荷が加わることでIRS-2欠損マウスの血清レプチン値はさらに高値となり、レプチン抵抗性が増悪していると考えられた。

 高脂肪食負荷IRS-2欠損マウスの糖尿病の進行において特徴的なのは、随時血糖が400mg/dl以上の重篤な糖尿病であること、インスリン抵抗性の増悪に先行してインスリン分泌障害が見られる点である。膵β細胞に元々遺伝的欠陥が存在する個体に、高脂肪食などの負荷が加わると、インスリン分泌が高度に障害されると考えられる。ヒトの2型糖尿病に関しても、膵β細胞の機能不全を初めとした遺伝的素因を有する群に、運動不足や高脂肪食などの環境因子による負荷が加わりインスリン抵抗性が増大し、インスリン分泌の代償性増加が破綻することで発症すると考えられる。戦後日本における急激な患者数の増大は環境因子の変化が原因であり、膵β細胞の機能低下を素因としてもつ患者は環境因子の僅かな変化でも糖尿病の急激な増悪を来たしうる。また、そのような膵β細胞機能不全を有する患者に対しても、インスリン抵抗性に介入する各種治療が有効であることが示唆される。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、ヒト糖尿病のモデル動物であるIRS-2欠損マウスを用いて、インスリン抵抗性が糖尿病発症に与える影響と、高脂肪食の糖尿病増悪における役割の解明を試みたもので、下記の結果を得ている。

1.アデノウイルスベクターを用いてIRS-2蛋白を肝臓に発現させ、IRS-2欠損マウスの肝臓におけるインスリン抵抗性のみを特異的に改善させた。感染4〜5日後のインスリン負荷試験では、Adeno-IRS-2を感染させたIRS-2欠損マウスの血糖値は、野生型とほぼ同等に低下した。経口ブドウ糖負荷試験においても、Adeno-IRS-2を感染させたIRS-2欠損マウスは野生型とほぼ同等まで耐糖能が改善していた。

2.Adeno-IRS-2を感染させたIRS-2マウスの空腹時血漿インスリン値は野生型よりは高値で、インスリン抵抗性の改善は部分的であった。

3.PEPCK及びG6PaseのNorthern blotの結果、IRS-2欠損マウスの肝臓に見られる摂食時の糖新生抑制障害は、Adeno-IRS-2感染により改善しており、肝臓のインスリン情報伝達は下流に至るまで正常化していた。

4.IRS-2欠損マウスの肝臓で見られるSREBP-1の発現亢進は、Adeno-IRS-2感染によって影響を受けなかった。

5.IRS-2欠損マウスに対し高脂肪食負荷を4週間行い、随時血糖値400mg/dl以上と糖尿病の著明な増悪を示した。高脂肪食を負荷されたIRS-2欠損マウスは、経口ブドウ糖負荷試験でも著明な高血糖を示すが負荷後インスリン値は通常食の1.5倍程度にとどまり、高血糖を代償するだけのインスリンを分泌できないと考えられた。

6.組織学的に高脂肪食負荷IRS-2欠損マウスの膵β細胞は脱顆粒所見を認め、単離膵島のグルコース応答性インスリン分泌は著しく低下していた。以上の結果から、膵β細胞に遺伝的欠陥を有するものに高脂肪食が負荷されると、インスリン分泌が高度に障害されると考えられた。

7.脂肪組織を組織学的に検討した結果、高脂肪食負荷IRS-2欠損マウスの脂肪細胞は野生型より肥大し、高レプチン血症とレプチン抵抗性の増悪を認めた。

 以上、本論文はIRS-2欠損マウスの糖尿病発症において膵β細胞の障害だけではなく、肝臓でのインスリン抵抗性の存在が必要であること、また高脂肪食負荷時には早期より膵β細胞の高度障害をきたすことを明らかにした。IRS-2という単一分子の欠損がもたらす糖尿病発症に関連する多彩な表現型のパスウェイを解明する上で重要な研究であり、学位の授与に値するものと考えられる。

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