学位論文要旨



No 117360
著者(漢字) 辻内,優子
著者(英字)
著者(カナ) ツジウチ,ユウコ
標題(和) 化学物質過敏症とストレス性要因との関わりの解明
標題(洋)
報告番号 117360
報告番号 甲17360
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1968号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山本,一彦
 東京大学 助教授 横山,和仁
 東京大学 助教授 岩波,明
 東京大学 客員教授 丁,宗鉄
 東京大学 客員教授 平井,浩一
内容要旨 要旨を表示する

【緒言】

 化学物質過敏症(MCS)は1987年にCullenが提唱した概念で、少量化学物質の持続暴露か一度に大量暴露を受けた後に引き起こされる多症状の疾患である。MCSの概念は一般的に認識されておらず、疾患名も含めて現在も多くの議論がある。本研究では、心身医学的観点からMCSとストレス関連因子との関わりについて明らかにすることを目的とする。

【被験者】

 MCSにおけるストレス関連因子を調べるために、27名のMCS患者(男性9名、女性18名)と36名のコントロール群(男性7名、女性29名)について調査した。患者群は北里研究所病院臨床環境医学センターにてMCSと診断されたものである。コントロール群は家庭向け雑誌に広告を掲載して募集した。その条件として、20歳から70歳までの健康な男女、服薬していない、シックハウス症候群と診断されていない、過去3年以内に新築住居に転居したか住居の改築を行ったものとした。この条件によって、コントロール群は少量化学物質の持続暴露を受けているにもかかわらず化学物質過敏症を発症していないものであると考えた。

【検査方法】

 全ての被験者に対して、ライフイベント、日常の苛立ち事、ソシアルサポート、ストレスコーピング、嗜好、身体および心理症状、行動変化を調査するための生活健康調査表(LHQ)を施行した。CMI健康調査表(身体的・精神的自覚症状)、POMS、アイゼンク人格質問紙、TAS-20R、身体感覚増幅尺度(SSAS)、TAC24(コーピングスケール)の心理テストも全員に対して評価した。自律神経機能として心拍変動を測定した。精神疾患の合併を評価するために、同一の心療内科医が全員に対して精神疾患簡易構造化面接(M.I.N.I.)および精神疾患構造化面接(SCID)から身体表現性障害の項目を抜粋して面接を行った。

【結果】

 発症に先立つ心理社会的ストレス、発症および経過に関わる特徴的な人格傾向やストレス対処スタイルなどのストレス性要因には両群間で有意差を認めなかった。著明な差を認めたのは過去1ヶ月間の喫煙および飲酒の量であり、患者群では一人も喫煙したものはなかった。MCS発症後、患者は多くの身体症状および心理症状を自覚していた。精神疾患の診断率はコントロール群で11%であるのに対し、患者群で89%であった。患者群での精神疾患合併の内訳は、身体表現性障害(63%)、不安障害(48%)、気分障害(40%)などとなっている。自律神経機能としての心拍変動は両群間で差はなかった。女性患者群を化学物質暴露とMCS発症との因果関係が不明確な群と明確な群の二つのサブグループに分けて女性コントロール群との3群比較を行ったところ、因果関係が不明確な群は身体症状および精神症状を共に多く自覚しており、精神疾患の合併も多かったのに対し、因果関係が明確な群では身体症状を多く自覚しているものの精神症状の自覚は少なく、精神疾患の合併も多くなかった。

【結論】

 MCSは、その発症には心理社会的ストレスよりも身体的ストレスが強く関与しているものと考えられ、発症後には多くの身体症状と精神症状の両方を呈し、精神疾患を多く合併する疾患であると考えられた。一方、喫煙量および飲酒量が少ないという特徴以外には、MCS患者に特徴的な人格傾向や行動特性は認められなかった。また、化学物質の暴露と発症との因果関係の有無によって分けられる二つのサブグループの存在が示唆された。

ストレス反応としての病態理解

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、化学物質の少量持続暴露か一度に大量暴露を受けた後に引き起こされる多症状の疾患である化学物質過敏症(MCS)と、ストレス関連因子との関わりについて、心身医学的観点から明らかにすることを目的として行われた。

 北里研究所病院臨床環境医学センターにてMCSと診断された27名のMCS患者と、家庭向け雑誌に広告を掲載して募集した36名のコントロール群とを比較検討した。コントロール群は「20歳から70歳までの健康な男女、服薬していない、シックハウス症候群と診断されていない、過去3年以内に新築住居に転居したか住居の改築を行ったもの」という募集条件にて、少量化学物質の持続暴露を受けているにもかかわらず化学物質過敏症を発症していないものとした。全ての被験者に対して、1)発症に先立つストレッサー、2)発症および経過に関わる個人差要因、3)発症後の状態における心身相関の3点を調べるために、各種質問紙への記入を依頼し、自律神経機能としての心拍変動の測定、精神疾患の合併を評価するための簡易構造化面接を行い、以下のような結果を得ている。

1.発症に先立つ心理社会的ストレスとして、生活健康調査表(LHQ)のライフイベント(生活上の出来事)項目のうち、「耐えられるストレス度」と、「日常の苛立ち事」の項目においては患者群とコントロール群とに統計学上の明らかな有意差は見られなかったが、「最近1年間に起こったライフイベントに対するストレス度の合計点」が患者群に高い傾向が認められた。

2.発症および経過に関わる個人差要因としてのパーソナリティの特徴を、アイゼンク人格質問表(EPQ-R)、トロント・アレキシサイミア・スケール(TAS-20R)、身体感覚増幅尺度(SSAS)にて評価したところ、いずれの結果においても患者群とコントロール群との間に有意差は認められなかった。次に、ストレス対処スタイルの特徴を、質問紙TAC-24およびLHQのストレス対処スキルの項目にて評価したが、患者群とコントロール群との間に有意差は認められなかった。また、LHQのソーシャルサポートの項目も有意差を認めず、少なくとも今回調査した範囲内では発症や経過に関わる個人差要因として患者群に特徴的な心理行動特性は認められないと考えられた。

3.個人差要因としての「過去1ヶ月間の喫煙および飲酒」の項目において、男性における両群間の有意差は認められなかったものの、女性においては喫煙および飲酒をしなかったものが患者群女性において明らかに多く認められた。

4.MCS発症後の身体症状および心理症状の相互関係を検討するために、CMI健康調査票、感情プロフィール(POMS)、LHQのうちストレス反応としての身体症状・行動変化・心理症状の項目を評価した。CMIでは、「心臓脈管系・疾病頻度・消化器系(女性のみ)・身体的自覚症状総点」のいずれも身体症状のみが患者群で有意に高く、精神的自覚症状では「不適応」で低い傾向がみられたのみであった。POMSでは、患者群において「活力」が有意に低く「混乱」が有意に高いほか、「疲労」が高い傾向が認められた。LHQでは、「現在感じているストレス度」が患者群に有意に高かった。

5.精神疾患簡易構造化面接(M.I.N.I.)および精神疾患構造化面接(SCID)(身体表現性障害の項目を抜粋)を行った結果、患者群には何らかの精神疾患の診断がつく者が89%と明らかに多く、特に身体表現性障害が63%と明らかに多かった。その他、不安障害(48%)と気分障害(40%)は統計学的には女性のみに有意に多く認められた。

6.自律神経機能の指標として心拍変動の測定を行ったところ、副交感神経機能を表すHF成分、交感神経機能を表すLF/HF、ゆらぎの複雑さを表すPercent fractal powerおよびSpectral exponentの全ての項目において有意差は認められなかった。

7.MCS患者の中には化学物質の暴露と発症との因果関係が明確な群と不明確な群の二つのサブグループが存在することが示唆され、明確な群は主に身体症状を発現し、身体表現性障害と気分障害の合併が多く、不明確な群は様々な身体精神症状を発現し、身体表現性障害・不安障害・気分障害の合併が多いという特徴が得られた。

 以上より、本研究では、特徴的なパーソナリティやストレス対処スタイルとは関係なく、化学物質の暴露という身体的ストレスに加えて、何らかの心理社会的ストレスが加わったものにMCSが発症するという可能性が見出された。現在のところ本症には、厚生労働省による診断基準があるものの、その病態生理や発症機序は仮説の域を超えておらず、未だに明確な疾患概念が確立されていない。また、本邦ではこれまでに身体面と心理面を同時に研究した例は極めて少なく、ストレスモデルを用いた本研究はこのような病態不明の疾患の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと認められる。

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