学位論文要旨



No 117390
著者(漢字) 長瀬,敬
著者(英字)
著者(カナ) ナガセ,タカシ
標題(和) 野生型および顔面裂モデルラット初期胚発生におけるHNK−1糖鎖の局在と機能に関する研究 : 頭部神経堤細胞を中心として
標題(洋)
報告番号 117390
報告番号 甲17390
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1998号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高戸,毅
 東京大学 教授 加我,君孝
 東京大学 教授 清水,孝雄
 東京大学 教授 橋都,浩平
 東京大学 助教授 山岨,達也
内容要旨 要旨を表示する

(1)序論

 脊椎動物の初期発生において、神経堤細胞(neural crest cells; NCCs)は神経堤より生じて胚内を広く遊走し、極めて多様な組織に分化する細胞集団である。NCCsは背側外胚葉が中胚葉に誘導されて神経上皮を形成するのに引き続き、神経上皮と表皮外胚葉の境界に誘導される。NCCsは腹内側・腹外側・背外側の3種類の経路をへて遊走後、末梢神経とその支持細胞、副腎髄質、色素細胞や、さらに頭部顔面骨格などに分化する。特に頭部NCCsは骨・軟骨などの骨格系細胞への分化能を持つ点で、体幹部NCCsに比し際立った特異性がある。つまり体幹部の骨格は発生上は中胚葉由来であるのに対し、頭部顔面部の骨格の大半は外胚葉由来のNCCsが分化したものである。このことは、唇顎口蓋裂や顔面裂などの、形成外科の重要な治療対象となる頭部顔面部の骨格系の先天奇形の発症が、頭部NCCsの異常と密接に関係することを意味する。従って頭部NCCsの遊走や分化のメカニズム、あるいは体幹部NCCsと比較した頭部NCCsの特異性を規定するメカニズムを分子レベルで研究することは、上記疾患群の発症機構解明への有効なアプローチとなるものと考えられる。

 以上の背景に基づき、本研究は頭部NCCsの遊走や特異性を制御する分子の一つと考えられるHNK-1糖鎖とその合成酵素遺伝子に特に着眼し、正常および顔面裂モデルラット胚におけるこれらの発現と機能について検討することを通じて、顔面形態形成およびその異常の分子メカニズムの理解の手がかりをうることを目的とする。

(2)研究1.正常ラット胚におけるHNK-1糖鎖とその合成酵素遺伝子GlcAT-P,GlcAT-Dの発現と機能

 HNK-1糖鎖は接着分子や細胞外マトリックス分子上に存在し、細胞運動などの細胞間相互作用に関与する。トリ胚ではHNK-1糖鎖はNCCsの表面に存在し、そのためNCCsの特異的マーカーとして頻用される。NCCs上のHNK-1糖鎖はその正常な遊走に必須とされる一方、脊索周囲などNCCs外に局在する場合は逆にNCCs遊走を阻害しうることもトリ胚で報告されている。しかし哺乳類胚でのHNK-1糖鎖の局在に関する詳細な報告は少ない。最近ラットでHNK-1糖鎖の合成に係わるグルクロン酸転移酵素(glucuronyltransferase; GlcAT)の遺伝子サブタイプGlcAT-PおよびGlcAT-Dがクローニングされた。両者はin vitroでは基質特異性が異なるが、in vivoにおける機能的差異に関しては不明である。そこで本研究では正常ラット胚におけるHNK-1糖鎖の局在とGlcATサブタイプ遺伝子発現の分布パターンを調べ、さらにHNK-1糖鎖とGlcAT遺伝子の機能解析を試みた。

 まずNCCsの遊走時期に相当する胎齢11.5日(E11.5)胚でHNK-1の免疫染色、GlcAT-PおよびGlcAT-Dのin situハイブリダイゼーションを行った結果、頭部NCCsでは遊走を終えた脳神経節NCCsにHNK-1糖鎖は局在し、GlcAT-D遺伝子の発現を認めた。これに対し体幹NCCsでは、遊走開始直後のNCCsにHNK-1糖鎖は局在し、GlcAT-P遺伝子の発現を認めた。これらの発現パターンの相違は頭部・体幹NCCsの特異性と関連する可能性が示唆された。

 さらに、GlcAT-Pが遊走の継続に、GlcAT-Dが遊走の終止にそれぞれ関与する可能性が考えられた。この仮説を検証する目的で、ラット胚頭部NCCsにGlcAT-PおよびGlcAT-D遺伝子を電気穿孔法にて導入し、HNK-1糖鎖の合成を人為的に促進させた状態で全胚培養系に移し、その後の第2咽頭弓領域のNCCs遊走の変化を追跡した。この結果、GlcAT-P導入により遊走距離が延びる一方、GlcAT-D導入によりNCCsが耳胞周囲の神経節近傍に集まる傾向が観察され、先の仮説を支持するものと考えられた。

 なお上記の観察の過程で、NCCs以外にもHNK-1を発現する細胞群が見出された。まずE11.5の肢芽付近に認められたHNK-1陽性の細胞群は、全胚培養におけるNCCsの標識実験およびPax3やMyf5などの筋芽細胞マーカーの染色により筋芽細胞であることが判明した。体節内筋芽細胞ではGlcAT-Pが、肢芽内筋芽細胞ではGlcAT-Dが発現することも示された。体節内筋芽細胞はまさに遊走開始〜遊走中であり、肢芽内筋芽細胞は遊走を終えつつある細胞群であることを考えると、この結果は上記のNCCsにおける遊走能の差による両GlcAT遺伝子の発現の相違と一致しており、照らし合わせて興味深い。さらにE13.5の脳でもHNK-1糖鎖は大脳皮質や基底核原基に広範に局在したが、ここでもGlcAT-PおよびGlcAT-Dの発現分布間には明らかな相違が見られ、NCCs以外の細胞・器官でもGlcAT-PとGlcAT-Dが何らかの機能分担をすることを反映すると考えられた。

(3)研究2.顔面裂モデルラットにおけるNCCs遊走異常とHNK-1糖鎖の関与

 Pax6は眼、鼻、膵臓および中枢神経系の発生を制御する転写因子としてよく知られている。そのホモ変異ラット胚では上記器官の異常にくわえ、中脳から鼻部へのNCCsの遊走が阻害される結果、ヒトの顔面裂に類似した奇形を呈する。NCCs自身はPax6を発現しないこと、また野生型NCCsをPax6変異ラット胚中脳部に移植すると遊走が阻害されることから、この遊走阻害は遊走経路における環境要因の変化と考えられてきたが、その分子の実体は不明であった。上述の通りNCCs外におけるHNK-1糖鎖はNCCsの遊走を阻害する作用があるため、本研究ではHNK-1糖鎖がPax6変異ラットでのNCCs遊走異常の原因と考え、この仮説の検証のため以下の各実験を行った。

 まず中脳から外側鼻隆起へ向かうNCCsのマーカーであるPax7の免疫染色を野生型胚と変異胚で行った。E11.5野生型胚ではPax7陽性のNCCsはすでに鼻部に達し、E12.5では外側鼻隆起に選択的に集まる。一方変異胚ではE11.5の時点でPax7陽性NCCsの遊走は三叉神経節付近で阻害され、E12.5では外側鼻隆起が全く形成されないことが示された。

 次にE11.5の変異ラット胚でHNK-1免疫染色、GlcAT-PおよびGlcAT-D遺伝子のin situハイブリダイゼーションを行い、野生型胚と比較した。その結果、野生型胚では眼胞や脳神経節でHNK-1糖鎖の局在およびGlcAT-D遺伝子の発現が見られた。一方Pax6変異ラット胚では野生型と同様の発現に加え、鼻部上皮に異所的にHNK-1糖鎖の局在およびGlcAT-P遺伝子の発現が認められた。つまりPax6はGlcAT-P遺伝子の発現を抑制するため、変異ラットにおいてHNK-1糖鎖の合成が異常に促進するものと考えられた。またこの異所性のHNK-1糖鎖の局在部位は上記の中脳由来NCCsの遊走阻害部位と近接しており、HNK-1糖鎖が変異胚でのNCCs遊走阻害に関与する可能性を支持するものと思われた。

 この可能性を直接検討する目的で、NCCs初代培養においてin vitroで遊走能をアッセイする系を確立し、培養ディッシュをHNK-1糖鎖でコートした場合としない場合で遊走に差が生じるかを調べた。その結果、野生型ラット中脳NCCsはHNK-1コーティングにより遊走が阻害される傾向を認めた。対照として前脳NCCsでもアッセイを行ったが、HNK-1糖鎖による影響はなかった。これらの結果を合わせると、Pax6変異ラットで鼻部上皮で異所的に発現するHNK-1糖鎖が中脳NCCsの遊走を選択的に阻害し、外側鼻隆起の欠損ひいては顔面裂奇形をもたらすものと考えられた。

(4)まとめ

 研究1の結果、ラット胚ではHNK-1糖鎖はNCCsおよび肢芽筋芽細胞などに局在すること、GlcAT-PおよびGlcAT-Dの発現パターンは各々異なっており生体内の機能的差異を反映する可能性があることが明らかになった。とくに重要な点として、頭部と体幹のNCCsの間にHNK-1糖鎖による遊走の影響の仕方、あるいはGlcAT-PおよびGlcAT-Dの発現分布などの点で差異が認められたことがあげられる。このことは冒頭で述べたような頭部NCCsの特異性を反映する分子的基盤の一つとして、HNK-1糖鎖およびその合成酵素遺伝子が重要な意義を持ちうることを示唆する。

 一方研究2においてはPax6変異ラットの顔面裂の原因である中脳NCCsの遊走阻害が、HNK-1糖鎖の異所的局在によって生じることが示唆された。この顔面裂は外側鼻隆起の欠損による点、またPax6の変異はヒトではヘテロで無虹彩症を引き起こすなどの点で、このラットの顔面裂はヒトの顔面裂とは厳密には異なる。しかしながらPax6の下流で制御されるNCCsの遊走に関する遺伝子群の中に顔面裂の原因遺伝子が含まれる可能性が示唆される。ヒトの唇裂や顔面裂の発症が多因子遺伝で環境との相互作用も影響しうる複雑な系であり、分子レベルでの解析が困難なことを考えた場合、遺伝的バックグラウンドが明瞭で解析の容易なPax6変異ラットをモデルとして研究することは、顔面裂発症の分子メカニズムを探るアプローチとして極めて有意義なものと思われる。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は顔面発生・奇形の理解の上で重要と考えられる、頭部神経堤細胞(NCCs)の遊走制御機構の一端を明らかにするため、正常および顔面裂モデルラット(Pax6変異ラット)初期胚においてHNK-1糖鎖とその合成酵素遺伝子GlcAT-P,GlcAT-Dの発現および機能解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.正常ラット胚NCCsにおけるHNK-1糖鎖の局在を免疫染色にて、またGlcAT-PおよびGlcAT-D遺伝子の発現をin situハイブリダイゼーション法にて解析した。頭部NCCsでは遊走を終えた脳神経節にHNK-1糖鎖は局在し、その部位でGlcAT-D遺伝子の発現を認めた。これに対し体幹NCCsでは、遊走開始直後のNCCsにHNK-1糖鎖は局在し、GlcAT-P遺伝子の発現を認めた。これらの発現パターンの相違はNCCsの頭部・体幹間の差異を反映する可能性が示唆された。

2.機能的解析として正常ラット胚の全胚培養系において頭部NCCsにGlcAT遺伝子を導入し、NCCsの遊走の変化の有無を調べた。GlcAT-Pを導入したNCCsでは遊走距離が延長する傾向が、GlcAT-Dを導入したNCCsでは遊走が終止する傾向がそれぞれ観察され、遺伝子サブタイプがNCCs遊走に異なった様式で影響するものと考えられた。

3.正常ラット胚においてNCCs以外に、肢芽付近筋芽細胞や中枢神経系にもHNK-1糖鎖は局在することが判明した。ここでもGlcAT-PおよびGlcAT-D遺伝子の発現パターンは相違を呈し、生体内における両サブタイプの何らかの機能的分担の存在が示唆された。

4.Pax6変異ラットの顔面裂は外側鼻隆起を構成する中脳由来のNCCsの遊走の阻害により生じるが、その分子機構は不明であった。そこで変異ラット胚でのHNK-1糖鎖およびGlcAT遺伝子の発現を調べたところ、Pax6変異ラット胚のNCCs遊走阻害部位で、HNK-1糖鎖およびGlcAT-P遺伝子の異所的な発現を認めた。

5.正常胚の中脳NCCs初代培養系を用いて、NCCs遊走に対するHNK-1糖鎖の阻害効果の有無を検討した。その結果、中脳NCCsの遊走はHNK-1糖鎖に濃度依存的に阻害される傾向が示された。これらの結果により、Pax6変異ラットの顔面裂は、異所的に局在するHNK-1糖鎖によってNCCs遊走が阻害されるために生じる可能性が示唆された。

 以上、本論文は頭部NCCsの遊走制御における細胞表面および細胞外基質のHNK-1糖鎖修飾の重要性を明らかにした。本研究は顔面形態形成および顔面先天奇形のメカニズムの分子レベルでの解明の上で大きな貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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