学位論文要旨



No 117425
著者(漢字) 上川内,あづさ
著者(英字)
著者(カナ) カミコウチ,アヅサ
標題(和) ミツバチの触角において雌雄間、カースト間で発現の異なる分子群の同定と解析
標題(洋)
報告番号 117425
報告番号 甲17425
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第989号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久保,健雄
 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 助教授 仁科,博史
 東京大学 講師 東,伸昭
内容要旨 要旨を表示する

 様々な動物種において匂いは外界の環境を認知する重要な感覚情報であり、動物個体に様々な反応を引き起こす。中でもフェロモンは同種個体に対して配偶行動や防衛行動などの決められた本能行動を惹起する点で特徴的である。

 社会性昆虫であるセイヨウミツバチApis mellifera L.はコロニーを形成して生活しており、多様なフェロモンを発達させることでコロニー内部や外部の環境変化に柔軟に対応している。ミツバチのコロニーは、雌の成虫である女王蜂(生殖カースト)と働き蜂(労働カースト)、雄蜂から構成され、女王蜂は生殖行動と産卵、働き蜂は育児、巣の防衛や採餌などを行い、雄蜂は生殖行動のみを行う。幼虫の世話や採餌、外敵への攻撃などは働き蜂に固有な本能行動であり、それぞれ特異的なフェロモン(幼虫フェロモン、警報フェロモン)によって惹起される。こうしたフェロモンを介した行動調節は動物社会の成立に重要であるが、なぜ一部の個体のみが選択的に特定のフェロモンに応答性を示すのか、その分子機構は不明である。私は、これらの個体間にはそれぞれ固有な嗅覚情報処理機構が存在するのではないかと考え、この仮説を検証する目的で、ミツバチの触角において性選択的、カースト選択的に発現する分子群を検索し、同定した。

1.触角において性選択的に発現する分子群の同定

 まず始めに、ミツバチの触角において性選択的に発現する分子を同定する目的で、働き蜂、雄蜂の触角から粗抽出液を調製し、SDS−ポリアクリルアミドゲル電気泳動(SDS-PAGE)により粗抽出液中に含まれるタンパク質を分離してバンドパターンを比較した。その結果、雄蜂選択的に発現するタンパク質D-AP1 (60kDa)、D-AP2 (15kDa)、D-AP3 (13kDa)を見出した(図1)。そこで、これらのタンパク質のN末端アミノ酸配列を決定し、続いて全長cDNAを単離することにより全一次構造を決定した。予想アミノ酸配列を用いた相同性検索の結果、D-AP1はショウジョウバエのcarboxylesterase 6と33%、D-AP2とD-AP3はそれぞれタバコスズメガの細胞質レチノイン酸結合タンパク質と58%、32%の相同性を示し、これらの分子のミツバチホモログと考えられた(表1)。昆虫の触角で性選択的に発現する細胞質レチノイン酸結合タンパク質が同定されたのはこれが初めての例である。一方、D-AP1はN末端の上流に分泌シグナルを持つことが分かり、分泌タンパク質として機能すると考えられた。RT-PCR法により、D-AP1の触角での発現を検討した結果、D-AP1は雄蜂特異的に発現しており、転写段階で発現が制御されることが判明した(図2)。

 次に、雄蜂の触角においてカルボキシルエステラーゼの比活性が実際に働き蜂よりも高いか否かを知る目的で、働き蜂、雄蜂の触角より粗抽出液を調製し、2-naphthyl acetateを基質としたカルボキシルエステラーゼ活性を測定し、比活性を算出した。その結果、触角におけるカルボキシルエステラーゼ活性の比活性は働き蜂は4.2±0.5 Units/μg protein、雄蜂は9.5±1.2 Units/μg proteinであり、比活性としても雄蜂で約2.3倍高いことが示された(図3)。D-AP1は雄蜂特異的に発現することを考えると、ミツバチの触角においては複数のカルボキシルエステラーゼのファミリー分子が存在する可能性がある。

2.触角においてカースト選択的に発現する分子群の同定

 ミツバチの触角においてカースト選択的に発現する分子を同定する目的で、働き蜂と女王蜂の触角から粗抽出液を調製し、SDS-PAGE後のバンドパターンを比較した。その結果、働き蜂選択的に発現するタンパク質としてW-AP1(分子量8kDa)を見出した(図4)。そこで、このタンパク質のN末端アミノ酸配列を決定し、続いて全長cDNAを単離することにより一次構造を推定した。予想アミノ酸配列を用いた相同性検索の結果、W-AP1はイナゴの触角に発現するchemosensory proteinと44%の相同性を示し、この分子のミツバチホモログと考えられた(表1)。また、N末端の上流に分泌シグナルを持つことが分かり、分泌タンパク質として機能すると考えられた。W-AP1の発現制御段階を知る目的で、RT-PCR法によりW-AP1の触角での発現を検討した結果、mRNAの段階ではカーストや性で等しく発現していることが分かり、翻訳段階や翻訳後修飾段階での発現制御が考えられた(図5)。触角などの感覚受容組織においてカースト選択的に発現する分子が同定されたのはこれが初めての例である。

 次に、カースト間で発現量に差のある分子群のさらなる同定を目的として、働き蜂、女王蜂各100匹分の触角から抽出したRNAを用いてdifferential displayによる検索を行った。約1200個の遺伝子断片を変性ポリアクリルアミドゲル電気泳動により分離し比較した結果、働き蜂選択的な候補遺伝子を6個、女王蜂選択的な候補遺伝子を12個同定した。得られた候補遺伝子全てについて再増幅を行い、RT-PCR法またはノザンブロット法により遺伝子発現を検討した結果、C6遺伝子が女王蜂選択的に、C14遺伝子が働き蜂選択的に発現することを見出した(図6、7)。次に、それらの遺伝子の一次構造を明らかにし、遺伝子産物の機能予測を行う目的で、RACE法により全長cDNAを単離してアミノ酸配列の推定及び相同性検索を行った。その結果を表1に示す。C6遺伝子は232アミノ酸のタンパク質をコードすると推定され、相同性検索の結果、ショウジョウバエのPeritrophin Aと67%の相同性を示したことからPeritrophin Aのミツバチホモログをコードすると考えられた。一方、C14遺伝子は87アミノ酸のタンパク質をコードし、von Heijne法によるシグナル配列予測の結果、分泌タンパク質をコードすると推定された。又、相同性検索の結果、ショウジョウバエ成虫頭部由来、タバコスズメガ触角由来の機能未知のEST cloneの予想アミノ酸配列とそれぞれ43%、43%の相同性を示した。このことから、C14遺伝子産物は昆虫種によらず発現する新規な分泌タンパク質だと考えられた。そこで、C14遺伝子産物の機能を推測する目的で、働き蜂の全身での発現解析を行った。ノザンブロット解析の結果、C14遺伝子は触角と肢で高発現する事が分かり、C14遺伝子産物は付属肢に特徴的な機能に関与する可能性が考えられた(図8)。昆虫類の肢には味覚受容器が存在することから、C14遺伝子産物は働き蜂選択的な化学受容一般に関与する可能性がある。

考察

 本研究は、ミツバチの触角において性やカーストに選択的に発現する分子群を同定した初めての例である(表1)。D-AP2、D-AP3のホモログ分子である細胞質レチノイン酸結合タンパク質は脂肪酸結合タンパク質ファミリーに属し、細胞内の脂質代謝に関与すると考えられている。また、Peritrophin Aはキチン結合性の構造タンパク質である。D-AP2、D-AP3やC6遺伝子産物の発現により性やカーストに特徴的な細胞内脂質組成や細胞外表皮構造が生じる可能性がある。

 匂い分子は触角の感覚子表面の嗅孔から内部に入り、感覚子液中を移動して匂い分子受容体と結合する(図9)。W-AP1、D-AP1、C14遺伝子産物の機能として、感覚子液中に分泌され匂い分子と結合することで運搬、修飾、分解などに関与する可能性が挙げられる。例えば働き蜂に作用して固有な本能行動を引き起こす警報フェロモン(Isoamyl acetate)や幼虫フェロモン(Oleic acid methyl ester、Linoleic acid methyl ester、Linolenic acid methyl ester)はカルボン酸エステル化合物であり、雄の触角特異的に発現するD-AP1によって分解されることが考えられる。今回同定した分泌タンパク質群は、このように匂い分子が受容体へ到達する以前の段階で作用し、匂い情報受容に対する性選択性やカースト選択性を与える可能性がある。

図1 触角において雄蜂選択的に発現するタンパク質のSDS-PAGEによる同定。

矢印で同定したタンパク質を示す。

図2 D-AP1のmRNA発現解析。

上段にD-AP1、下段にコントロール遺伝子(EF1α)のシグナルを矢印で示す。

図3 働き蜂、雄蜂の触角粗抽出液中におけるカルボキシラーゼ比活性の測定。

縦軸の単位、Units/μg protein。

図4 触角において働き蜂選択的に発現するタンパク質のSDS-PAGEによる同定。

矢印でW-AP1のバンドを示す。

図5 W-AP1のmRNA発現解析。

上段にW-AP1、下段にコントロール遺伝子(SF-B52)のシグナルを矢印で示す。

図6 RT-PCR法による、働き蜂、女王蜂の触角でのC6遺伝子の発現量の比較。

上段、C6遺伝子。下段、Ribosomal protein S8遺伝子。

図7 ノザンブロット法による働き蜂、女王蜂の触角でのC14遺伝子の発現量の比較。矢印でシグナルの位置を示す。

上段、C14。下段、18S rRNA。

図8 働き蜂の身体の各部分におけるC14遺伝子の発現解析。

上段にC14遺伝子、下段に18S rRNAのシグナルを矢印で示す。

表1 ミツバチの触角において性選択的、カースト選択的に発現する分子群。

図9 カーストや性選択的な匂い情報の受容モデル図。

感覚子液中に存在する分泌タンパク質群により、匂い分子が細胞外において個体選択的な輸送や分解を受ける可能性がある。

審査要旨 要旨を表示する

 様々な動物種において、匂いは外界の環境を認知する重要な感覚情報であり、動物個体に様々な反応を引き起こす。中でもフェロモンは、同種個体に特定の本能行動を惹起する点で特徴的である。社会性昆虫であるミツバチApis mellifera L.は社会性昆虫であり、多様なフェロモンを発達させることによりコロニー内外の環境変化に柔軟に対応している。ミツバチは、雌が女王蜂と働き蜂にカースト分化しており、雄と合わせて3種類の成虫からなるコロニーを形成する。幼虫の世話や天敵への攻撃は働き蜂に固有な本能行動であり、それぞれ固有なフェロモンにより惹起される。こうしたフェロモンを介した行動調節は、動物社会の成立に重要であるが、なぜ一部の個体だけが特定のフェロモンに対する応答性を示すのか、その分子機構は不明である。上川内あづさは、これらの個体にはそれぞれ固有な嗅覚情報処理機構が存在するのではないかと考え、この仮説を検証する目的で、ミツバチの触角で性選択的、カースト選択的に発現する分子群の検索と同定を行っている。本論文は大きく2つの章から成立している。

1.触角において性選択的に発現する分子群の同定

 最初に触角において性選択的に発現する分子群を同定するため、働き蜂と雄蜂の触角から粗抽出液を調製し、SDS−ポリアクリルアミドゲル電気泳動により、両者のバンドパターンを比較した。その結果、雄蜂の触角特異的に発現するタンパク質を3種類[D-AP1 (60kDa)、D-AP2 (15kDa)、D-AP3 (13kDa)]同定し、これらのN末端アミノ酸配列を決定し、次いでcDNAを単離した。その結果、D-AP1はショウジョウバエのカルボキシエステラーゼ6と33%、D-AP2とD-AP3は、タバコスズメガの細胞質レチノイン酸結合タンパク質とそれぞれ、58%、32%の相同性を示し、これらの分子のミツバチホモログであると考えられた。D-AP1はN末端側にシグナル配列をもつことから、分泌タンパク質として機能すると推測された。RT-PCR法の結果、D-AP1遺伝子は雄蜂と働き蜂では雄蜂特異的、雄蜂の体では触角特異的に発現することが判明した。実際、触角粗抽出液中のエステラーゼの比活性を測定したところ、雄蜂で有意に高いことが示された。昆虫の触角で、性選択的に発現するエステラーゼや細胞質レチノイン酸結合タンパク質のcDNAが単離されたのは、これが初めての例である。

2.触角においてカースト選択的に発現する分子群の同定

 次いで、カースト間(女王蜂と働き蜂)で、触角における発現に差がある分子群をSDS−ポリアクリルアミドゲル電気泳動法により検索した。その結果、働き蜂に選択的に発現するタンパク質(W-AP1)を同定し、N末端配列を決定し、そのcDNAを単離した。相同性検索の結果、W-AP1はイナゴの触角のChemosensory proteinと44%の相同性を示し、この分子のミツバチホモログであると考えられた。このタンパク質もN末端側にシグナル配列をもち、分泌タンパク質であると考えられた。W-AP1の発現調節は、他の分子群とは異なり、転写後段階で起きることが示唆された。

 さらに、カースト間で触角での発現が異なる分子を同定する目的で、differential display法が用いられた。その結果、女王蜂の触角に選択的に発現する遺伝子としてC6遺伝子、働き蜂の触角に選択的に発現する遺伝子としてC14遺伝子を同定した。C6遺伝子がコードするタンパク質は、ショウジョウバエのPeritrophin Aと67%の相同性を示し、そのミツバチホモログと考えられた。一方、C14遺伝子がコードするタンパク質はN末端側にシグナル配列を有しており、ショウジョウバエ頭部由来、タバコスズメガ触角由来の機能未知のタンパク質とそれぞれ43%の相同性を示したことから、昆虫種を越えて保存された新規な分泌タンパク質と考えられる。C14遺伝子はミツバチの触角と肢で高発現していたが、昆虫では味覚受容器が肢にも存在することから、C14遺伝子産物は働き蜂選択的な化学受容一般に関わる可能性が考えられる。

 本研究は、ミツバチの触角で性やカースト選択的に発現する遺伝子を同定した最初の例である。昆虫の嗅覚受容においては、匂い分子は感覚子表面の嗅孔から触角内部に入り、感覚子液中を移動して匂い受容体に結合する。W-AP1 (Chemosensory protein)やD-AP1(分泌性カルボキシエステラーゼ)、C14遺伝子産物(新規な分泌タンパク質)は感覚子液中に分泌され、匂い分子の運搬、修飾、分解などに関与する可能性がある。実際、働き蜂に作用する警戒フェロモンや幼虫フェロモンは、カルボン酸エステル化合物であり、雄蜂ではDAP-1により分解される可能性がある。今回同定された分泌タンパク質群は、このように匂い分子が受容体に到達する以前の段階で作用し、匂い情報受容に関する性選択性やカースト選択性を与える可能性がある。

 以上本研究は、同種の動物間の差異的な嗅覚処理機構の新しい分子機構を提案した点で、神経生理学や動物生理学の分野に寄与するところが大きく、博士(薬学)の学位に相応しいものと判断した。

UTokyo Repositoryリンク