学位論文要旨



No 117441
著者(漢字) 松永,章弘
著者(英字)
著者(カナ) マツナガ,アキヒロ
標題(和) ヒト腸癌発症モデルマウスにおける遺伝子発現変化の解析
標題(洋)
報告番号 117441
報告番号 甲17441
学位授与日 2002.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1005号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 漆谷,徹郎
 東京大学 教授 関水,和久
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 助教授 仁科,博史
 東京大学 講師 東,伸昭
内容要旨 要旨を表示する

癌(悪性新生物)による死亡は現在我が国の死亡要因の第一位を占めている。中でも腸癌の死亡者数は肺癌・胃癌に次いで三番目に多く、さらに近年、食生活の欧米化に伴い我が国では増加傾向を示してきた。そのため、腸癌発生・進行メカニズムの研究・解明は多大な期待を担うものである。腸癌は複数の遺伝子変異の蓄積により多段階に進行すると考えられているが、中でも腫瘍抑制遺伝子であるAPC遺伝子の両対立遺伝子の不活化変異は腸癌の発生起因イベントとして、家族性大腸腺腫症並びに散発性腸癌においても重要である。このことからAPC遺伝子の変異により生じる様々な変化を明らかにすることは、腸癌形成早期のメカニズムの解明につながると考えられる。以前我々の研究室で作出された家族性大腸腺腫症モデルマウスであるApc遺伝子ノックアウトマウス(以下Apc△716マウス)は、ヘテロ接合性の欠失によりApc遺伝子の両対立遺伝子に機能欠失型変異を起こし、腸全体にポリプを形成する。そこで、我々は腸癌早期発生メカニズムの解明を目的として、Apc遺伝子の片対立遺伝子に変異が生じたApc△716マウス腸管正常組織並びにApc遺伝子の両対立遺伝子に変異が生じたポリプ組織での遺伝子発現変化の解析を、多遺伝子発現同時解析法であるマイクロアレイ法・DNAチップ法を用いて行った。

[I] ヒト腸癌発症モデルApc△716マウスポリプにおける遺伝子発現プロファイル解析

3匹の18週齡Apc△716マウス回腸に発生した直径1 mm以上のポリプ組織とポリプに隣接した正常絨毛組織よりRNAを回収し、マイクロアレイ法・DNAチップ法により個々の組織での遺伝子発現プロファイルを作成した。これらの遺伝子発現プロファイルをポリプ組織・正常絨毛組織間で比較した結果、両方法に共通して有意に発現変化を示した複数の遺伝子が得られた。このうち、隣接正常絨毛組織と比較してポリプ組織で発現低下が見られたのは47遺伝子(Table 1.)、一方、発現亢進が見られたのは9遺伝子であった(Table 2.)。次に、これら発現変化が見られた56遺伝子中8遺伝子(発現上昇4遺伝子、発現低下4遺伝子)について、異なる3匹のApc△716マウスポリプ組織由来total RNAを用いてsemi-quantitative RT-PCR法により遺伝子発現量の比較を行った。その結果、いずれの遺伝子においてもその発現変化はマイクロアレイ法・DNAチップ法で得られた結果と合致した。このことから、これらの多遺伝子発現同時解析法より得られる遺伝子発現プロファイルは、Apc遺伝子の変異から生じた普遍的変化であると結論付けることが出来た。

 これらの遺伝子発現変化から、腸癌発生早期段階であるポリプ組織は次のような性質を持つ事が推察される。

 Calcyclin遺伝子は細胞周期S期に発現上昇が見られ、細胞増殖制御に関与すると考えられている。ポリプ組織内でこの遺伝子の発現亢進が認められたことは、ポリプ内では細胞増殖期にある細胞の数が増加している事実と一致する。

 また、DNA損傷や細胞内情報伝達異常などの刺激によるアポトーシス誘導に対しての抗アポトーシス機構に関与する遺伝子として知られるimmediate early response 3遺伝子の発現亢進が見られたことから、ポリプ組織は腸癌早期段階で抗アポトーシス能を獲得しており、この性質はDNAに変異を持った細胞の生存に寄与していると考えられる。これら細胞増殖能・抗アポトーシス能といった性質の獲得によりポリプ組織での細胞数の増加が起こり、結果としてポリプ組織の増大が生じていると考えられる。

 一方、好中球、リンパ球などの炎症反応の制御に関与するlipocalin 2遺伝子のポリプ組織での発現亢進が見られた。また、以前我々は、アラキドン酸代謝酵素の1つとしてプロスタグランジン産生を行い、炎症反応に関与するcyclooxygenase-2遺伝子がポリプ組織内の間質細胞で発現誘導されることを報告した。これらのことから、ポリプ組織の間質細胞では発生早期段階から炎症様反応が惹起されていると考えられる。

 また、ポリプ形成過程において上皮細胞は間質細胞間に入り込む様に腺腔を構成する事から、この過程では細胞や基底膜の消化と生成が起こっていると考えられる。遺伝子発現変化解析の結果、細胞外基質消化に関与するcathepsin L遺伝子や、間質基底膜構成成分であるprocollagen, type I, alpha I遺伝子の発現亢進が見られた事から、ポリプ形成増大過程において、間質組織の再構成が起こっている事が示唆される。

 また、ポリプ組織内で腸管上皮細胞の分化マーカーとして知られるfatty acid binding protein 2, intestinalやvillinといった多数の遺伝子の発現低下が見られた。これらのことから、より未分化な状態の上皮細胞によりポリプ組織が形成されていると考えられる。このことは、ポリプ組織内では上皮細胞の分化形体である杯細胞やパネート細胞が観察されないという事実とも合致する。

 さらに、免疫反応に関与する多数の遺伝子(beta-2 microglobulin, Ia-associated invariant chain, immunoglobulin joining chain, etc.)の発現低下がポリプ組織で見られた。この結果から、ポリプ組織を構成する細胞が未分化なため免疫関連遺伝子が発現していない可能性と、実際にポリプ組織内で免疫反応を抑制する機構が働いている可能性の2つが考えられる。いずれの場合も、ポリプ組織内での免疫反応は低下しており、その結果、異常な細胞の除去が行われず、ポリプ形成やポリプ増大につながっていると考えられる。

 これらの結果から腸癌発生早期病変であるポリプ組織は、細胞増殖、抗アポトーシス、間質の再構成、炎症様反応惹起、免疫反応低下などの性質を既に獲得していることが示唆された(Fig. 1)。さらに、今回の結果とヒト腸癌で報告された遺伝子発現解析結果を比較した。その結果、複数の遺伝子が同傾向の発現変化を示し、本実験で得られた結果がヒト腸癌に応用可能である事が示唆された。

[II]Apc△716マウス正常腸管組織における遺伝子発現変化と腸癌発生への影響

Apc遺伝子の片対立遺伝子の変異が腸癌形成に与える影響を調べる事を目的として、Apc遺伝子がヘテロであるApc△716マウス腸管正常組織(回腸)とApc遺伝子が野生型であるC57BL/6Jマウス腸管組織(回腸)よりRNAを回収し、DNAチップ法により遺伝子発現プロファイルを作成、比較解析を行った。

 その結果、Apc遺伝子野生型腸管組織と比較してApc遺伝子へテロ型腸管組織で920個の遺伝子の発現亢進、並びに87個の遺伝子の発現低下が確認された。これら発現変化を示した遺伝子のうち、腸癌発生に影響を及ぼすと考えられる遺伝子としてRanbp9, Eb1遺伝子の発現低下が挙げられる。これらの遺伝子産物は、微小管に結合する蛋白質であり、細胞分裂時の染色体の移動に関与することが知られている。Ranbp9, Eb1遺伝子の発現低下が見られたことからApc遺伝子へテロ組織では細胞分裂時の染色体分離異常が生じる頻度が高くなっていると考えられる(Table 3.)。

 さらに、細胞周期G2期のチェックポイントの機能を持ち、染色体分離異常が生じた細胞の除去を行う働きを持つGadd45a遺伝子の発現低下も確認された。このGadd45a遺伝子の発現低下によりApc遺伝子へテロ組織では染色体異常を起こした細胞が生存する結果となり、ポリプ形成につながっていると考えられる。

 これら3個の遺伝子の発現低下により、Apc遺伝子の片対立遺伝子に機能欠失変異が生じた細胞では染色体分離異常を起こす頻度が上昇しており、これがApc遺伝子の両対立遺伝子変異の獲得につながっていると考えられる。

まとめ

腸癌形成早期に起こるApc遺伝子の片対立遺伝子に機能欠失型変異により細胞分裂時の染色体分離に関与する遺伝子の発現低下が生じる。これにより、Apc遺伝子へテロ細胞では染色体分離異常の頻度が上昇し、もう1方の正常なApc遺伝子対立遺伝子の変異につながっていると考えられる。その結果、Apc遺伝子の両対立遺伝子に機能欠失型変異が生じポリプ発生が起こる。このポリプ組織ではさらに多くの遺伝子発現変化が生じており、細胞増殖、抗アポトーシス、間質の再構成、炎症様反応惹起、免疫反応抑制などの性質獲得につながっていると考えられる。このような腸癌形成早期過程で重要な機構をターゲットとした創薬を行うことが治療、又は予防に効果を発揮するものと考えられる。また、今回の解析で抽出された複数遺伝子の機能・発癌機構への関与を解明していくことは新たな創薬ターゲットの発見に繋がるものとして重要であると考えられる。

Table 1. Genes down-regulated in Apc△716 mouse polyps

Table 2. Genes upregulated in Apc△716 mouse polyps

(a) DNAチップ法のFold increaseは、ポリプ組織average difference:正常組織average difference ratioを示す。(b) cDNAマイクロアレイ法のFold increaseは、ポリプ組織signal intensity:正常組織signal intensity ratioを示す。

Fig. 1

Table. 3 Genes down-regulated in Apc+/−normal villi

(a) 遺伝子名はUniGene記載を用いた。(b) 値は各遺伝子のAverage intensity

審査要旨 要旨を表示する

 我が国の腸癌による死亡者数は様々な癌腫の中で三番目に多く、さらに近年の食生活の欧米化に伴いますます増加傾向を示している。腸癌でみられる様々な遺伝子の変異のうち、APC遺伝子の機能欠失型変異は全体の約85%でみられる。このことから、APC遺伝子の変異の腸癌形成への寄与を明らかにすることは癌を克服する戦略にとって重要である。

 腸癌において、腫瘍抑制遺伝子であるAPC遺伝子の両対立遺伝子の不活化変異は腸癌発生の引き金として、家族性大腸腺腫症並びに散発性腸癌においても重要である。APC蛋白質はWnt情報伝達経路の一員として働き、転写活性化因子であるβ-cateninの分解過程に働く。多くの腸癌ではAPC遺伝子の機能欠失型変異によりβ-cateninの分解が正常に行われないため、Wnt情報伝達系路の異常な活性化が起こり、標的である多数の遺伝子の発現が変化していることが予想される。申請者は、DNAチップ法・cDNAマイクロアレイ法を駆使して、ヒト腸癌発症モデルマウスであるApc遺伝子ノックアウトマウス(Apc△716マウス)に発生するポリプ組織における遺伝子発現プロファイル解析を行い、9個の発現亢進遺伝子並びに47個の発現低下遺伝子を同定した。これらの発現変化を示した遺伝子の機能から、腸癌発生早期病変であるポリプ組織は、細胞増殖、抗アポトーシス、間質の再構成、炎症様反応惹起、免疫反応低下などの癌形質を既に獲得していることが示唆された。この結果から、Apc遺伝子の両対立遺伝子の機能欠失型変異が腸癌の形質獲得に重要であることが明らかになった。

 また、家族性大腸腺腫症患者にみられるAPC遺伝子の片対立遺伝子の変異が腸癌形成に与える影響については不明であった。申請者は、DNAチップ法・cDNAマイクロアレイ法を用いて、Apc遺伝子がヘテロであるApc△716マウスの腸管正常絨毛組織における遺伝子発現プロファイル解析を行い、Apc遺伝子が野生型の腸管組織と比較して、染色体の安定性や染色体分離過程に関与している2個の遺伝子(Ranbp9, Eb1)、および染色体の安定性とDNA損傷を受けた細胞の除去に関与するGadd45a遺伝子の発現低下を同定した。これらの遺伝子の発現低下が細胞分裂時の染色体分離異常につながっていると考えられ、Apc遺伝子の変異がポリプ発生頻度の上昇に寄与している事が示唆された。

 以上、本研究によって、腸癌形成早期に起こるApc遺伝子の片対立遺伝子の変異、それにつづく両対立遺伝子の変異を起因として、多数の遺伝子の発現変化が生じており、多くの癌形質獲得につながっていることが明らかになった。これらの結果は、腸癌形成開始メカニズムの解明にだけでなく、新たな創薬ターゲットの発見につながると考えられ、博士(薬学)に値すると判断した。

UTokyo Repositoryリンク