学位論文要旨



No 117470
著者(漢字) 稲木,公一郎
著者(英字)
著者(カナ) イナキ,コウイチロウ
標題(和) マウス嗅球における匂い分子構造認識領域の空間分布の解析
標題(洋)
報告番号 117470
報告番号 甲17470
学位授与日 2002.04.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4232号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 坂野,仁
 東京大学 教授 深田,吉孝
 東京大学 助教授 榎森,康文
 東京大学 教授 芳賀,達也
 東京大学 教授 森,憲作
内容要旨 要旨を表示する

 哺乳類嗅覚系において、匂い分子は、嗅上皮に存在する嗅細胞で発現している匂い分子レセプターによって受容される。嗅細胞は匂い分子を受容すると興奮し、その情報は軸索を通して嗅球に送られる。嗅細胞の軸索は、嗅球表面にある糸球において嗅球のニューロンとシナプスを形成している。特定の匂い分子レセプターを発現している嗅細胞の軸索は、収束して、通常2個、外側、内側半球にそれぞれ1個ずつ、の糸球にのみ投射している。また、1つの糸球は、通常特定の1種類の匂い分子レセプターを発現している嗅細胞の軸索のみで占められている。よって、嗅球上で、個々の糸球はそれぞれ特定の一種類の匂い分子レセプターに対応していると考えられる。従って、嗅球糸球層を2次元展開したシートは、嗅球表面上での匂い分子レセプター地図、感覚地図を表している。

 本研究は、匂い分子刺激によって嗅球糸球層において誘導される神経活動をマップすることにより、このような匂い分子レセプター地図の構成の基本的な法則を解明することを目的としている。嗅球糸球層での匂い応答のマッピングの方法として、種々の神経刺激に応答して発現が誘導されることが知られているzif268遺伝子の発現誘導を神経活動のマーカーとして使用した。すなわち、匂い刺激により特定の糸球が活性化し、その糸球の周りに存在して、その糸球を通して嗅細胞からの入力を直接受け取っているjuxtaglomerular cell(JG細胞)内で、zif268の発現が誘導されると考えた。

 実際には、匂いを嗅がせたマウスの嗅球切片において、Zif268遺伝子産物の発現を免疫組織化学法により検知した。一定の区分内のZif268陽性JG細胞数を数えて色で表現し、その情報を嗅球糸球層の2次元展開図上にプロットした。嗅球糸球層では、2種類の細胞接着分子(CAM)、OCAMとNeuropilin-1の発現パターンが個体間でよく保存されているので、それらの情報を2次元展開図上に重ねあわせ、嗅球上の定点座標として利用した。

 匂い刺激した個体の嗅球の切片でZif268の発現を調べたところ、特定の領域でのみ高密度のZif268陽性JG細胞が観察された。その他の領域や、脱臭した空気のみを嗅がせたネガティブコントロールマウスの切片では、少数のZif268陽性JG細胞が散在しているだけであった。展開図上では、このような高密度のZif268陽性JG細胞が存在する場所は、それぞれの匂い分子に特異的ないくつかの領域に集中していた。よって、匂い刺激によって、それぞれに特有の空間パターンで糸球が活性化し、その周りのJG細胞でZif268の発現が誘導されると想定された。

 そこで、この仮説を検証するため、嗅球背側面において、内在性信号の光学的計測法(optical imaging法)によって測定される匂い応答の空間分布と、免疫組織化学法によって検知される、JG細胞でのZif268の発現誘導の空間分布を比較した。まず、optical imaging法により、嗅球背側面においてpropionic acidに応答する糸球の部位を記録し、その内の2ケ所にマーカー色素を注入して、活性化部位をマークした。1週間後に、同じ匂い分子、propionic acidを使用してZif268マッピング法を行った。その結果、マーカー色素が注入された部位付近に、Zif268陽性JG細胞が集中して存在しているのが観察された。さらに、展開図上での解析により、Zif268シグナルのクラスターの空間分布と、optical imaging法で測定された匂い応答の空間分布がよく一致することがわかった.よって、Zif268シグナルが、実際に匂い刺激で誘導される嗅球糸球層での神経活動を反映していることが証明された。

 次に、匂い分子により誘導されるZif268シグナルの空間分布が、どの嗅球においても保存されているかどうかについて検証した。propionic acidで刺激した同じマウスの左右の嗅球、及び異なる2個体の嗅球での、Zif268シグナルの空間分布を展開図上で比較した。各嗅球の地図上では、前述のように、CAMの発現パターンを基にして座標を設定した。これらの座標を参考にすると、多少の差はあるものの、調べた全ての嗅球において、Zif268シグナルの空間分布が概ね保存されていることがわかった。よって、Zif268マッピング法によって、別種類の匂い分子に対する応答の空間分布を、異なる個体を使用して比較検討することが可能である。

 これらの結果をふまえて、炭素鎖長を体系的に変化させた3種類の脂肪酸、及び3種類の直鎖アルコールを匂い刺激として使用し、嗅球全体において、Zif268シグナルをマップした。それぞれの匂い分子は、Zif268シグナルのクラスターを概ね2対誘起した。2対のクラスターは、嗅球外側、内側地図間で鏡像対称的に配置されていた。optical imaging法により、嗅球背側面において、脂肪酸は前内側ドメインに局在する糸球を活性化し、直鎖アルコールは前外側ドメインに局在する糸球を活性化することが知られている。また、各ドメイン内では、匂い分子の炭素鎖が長くなるに従って、応答する糸球の場所が前方ヘシフトする。すなわち、optical imaging法により、匂い分子構造認識領域(molecular feature domain)および、その極性(匂い分子の炭素鎖長の変化に従って、応答する糸球の場所がシフトする)が決定できる。本研究では、optical imaging法で定義されるmolecular feature domain及びその極性が、Zif268マッピング法でも検知されるかどうかについて検証した。3種類の脂肪酸、または3種類直鎖アルコールによって誘導されるそれぞれのZif268シグナルのクラスターの位置情報を、標準の展開図(複数の嗅球の展開図を重ねあわせて、平均化した展開図)上に重ね合わせた。そうすると、これらのクラスターは、各領域でお互いに重なりあって、大きなドメイン(脂肪酸応答ドメイン、及び直鎖アルコール応答ドメイン)を形成していた。嗅球背側面では、optical imaging法で観察される決まった場所、すなわち背側面前内側部と前外側部、にそれぞれZif268マッピング法で検知される脂肪酸応答ドメイン、及び直鎖アルコール応答ドメインが存在した。さらにドメインの極性の方向も、optical imaging法で観察された方向と同じ、前腹側方向であった。よって、Zif268マッピング法でも、得られたデータを標準の展開図上で重ねあわせることにより、molecular feature domain及びその極性が検知可能である事がわかった。

 次に、嗅球背側面以外(つまりoptical imaging法では観察できない領域)も含む嗅球の全領域で、脂肪酸応答ドメイン、及び直鎖アルコール応答ドメインの空間分布とその極性について検証した。その結果、(1)molecular feature domainsは、嗅球上の決まった位置に存在すること、(2)molecular feature domainsは、嗅球の外側、内側感覚地図間で鏡像対照的に配置されること、及び(3)調べた全てのdomainsの極性の方向が概ね前腹側方向であることがわかった。

 このような、脂肪酸応答ドメインの相対的位置や、極性の方向、対称的な空間配置は、以前に報告された、興奮した細胞への2-deoxyglucose(2-DG)の取り込みを神経活動のマーカーとしたマッピング方法(2-DG uptake法)を用いた研究の結果とよく一致していた。molecular feature domain及びその一定の極性が、別個の方法によっても、決まった場所で一貫して観察されることは、molecular feature domainが嗅球上の匂い分子レセプター地図の構成における基本的な構造上の単位であることを示唆している。

 また、全ての脂肪酸応答ドメイン、及び直鎖アルコール応答ドメインの極性の方向は、概ね嗅球の後背側-前腹側軸に平行であり、この軸はOCAM(+)/(-)ゾーン間の境界線の後部分に概ね平行であると推定された。さらに、全てのドメインは、後背側-前腹側軸上の特定の範囲内に局在していた。これらのことは、後背側-前腹側軸に沿った糸球の配置が、感覚地図を形作る上で重要な鍵の1つである可能性を示唆する。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文では、マウス嗅球における匂い分子構造認識領域(molecular feature domain)の空間分布の解析について述べられている。

 マウス嗅球において、個々の糸球はそれぞれ特定の一種類の匂い分子レセプターに対応していると考えられる。従って、嗅球糸球層を2次元展開したシートは、嗅球表面上での匂い分子レセプター地図、感覚地図を表している。

 本論文において、論文提出者は、匂い分子刺激によって嗅球糸球層において誘導される神経活動をマップすることにより、このような匂い分子レセプター地図の構成の基本的な法則を解明することを目的としている。

 嗅球糸球層での匂い応答のマッピングの方法として、immediate early geneの1種であるzif268遺伝子の発現誘導を神経活動のマーカーとして使用した。すなわち、匂い刺激により特定の糸球が活性化し、その糸球の周りに存在して、その糸球を通して嗅細胞からの入力を直接受け取っているjuxtaglomerular cell(JG細胞)内で、Zif268の発現が誘導されると考えた。実際の実験では、匂いを嗅がせたマウスの嗅球切片において、Zif268遺伝子産物の発現を免疫組織化学法により検知した。一定の区分内のZif268陽性JG細胞数を数えて色で表現し、その情報を嗅球糸球層の2次元展開図上にプロットした。嗅球糸球層では、2種類の細胞接着分子、OCAMとNeuropilin-1の発現パターンが個体間でよく保存されているので、それらの情報を展開図上に重ねあわせ、嗅球上の定点座標として利用した。

 初めに、嗅球背側面において、内在性信号の光学的計測法(optical imaging法)によって測定される匂い応答の空間分布と、免疫組織化学法によって検知されるJG細胞でのZif268の発現誘導の空間分布を比較した.まず、optical imaging法により、propionic acidに応答する糸球の部位を記録し、その内の2ケ所にマーカー色素を注入して、活性化部位をマークした。1週間後に、同じ匂い分子、propionic acidを使用してZif268マッピング法を行った。その結果、Zif268シグナルの空間分布と、optical imaging法で測定された匂い応答の空間分布がよく一致することがわかった。よって、Zif268シグナルが、実際に匂い刺激で誘導される嗅球糸球層での神経活動を反映していることがわかった。

 次に、propionic acidで刺激した同じマウスの左右の嗅球、及び異なる2個体の嗅球での、Zif268シグナルの空間分布を展開図上で比較した。多少の差はあるものの、調べた全ての嗅球において、匂い分子により誘導されるZif268シグナルの空間分布が概ね保存されていることがわかった。よって、Zif268マッピング法によって、別種類の匂い分子に対する応答の空間分布を、異なる個体を使用して比較検討することが可能である。

 これらの結果をふまえて、炭素鎖長を体系的に変化させた3種類の脂肪酸、及び3種類の直鎖アルコールを匂い刺激として使用し、嗅球全体において、Zif268シグナルをマップした。結果の要旨は以下の通りである。(1)それぞれの匂い分子は、嗅球外側、内側地図間で鏡像対称的に配置される、Zif268シグナルのクラスターを概ね2対誘起した。(2)嗅球背側面において、optical imaging法により定義されるmolecular feature domain(同じ官能基を持つ匂い分子に応答する糸球がクラスター化して局在する嗅球上の領域)及び、その極性(匂い分子の炭素鎖長の変化に伴って、応答する糸球の場所がシフトする)が、Zif268マッピング法でも検知される。(3)molecular feature domainsは、嗅球上の決まった位置に存在する。(4)molecular feature domainsは、嗅球の外側、内側感覚地図間で鏡像対照的に配置される。(5)調べた全てのdomainsの極性の方向が概ね前腹側方向である。

 以上の結果を基に、molecular feature domain、及びその一定の極性が、別個の方法によっても、決まった場所で一貫して観察されることから、molecular feature domainが嗅球上の匂い分子レセプター地図の構成における基本的な構造上の単位であることを示唆した。

 また、全ての脂肪酸応答ドメイン、及び直鎖アルコール応答ドメインの極性の方向は、概ね嗅球の後背側-前腹側軸に平行であり、この軸はOCAM(+)/(-)ゾーン間の境界線の後部分に概ね平行であると推定された。さらに、全てのドメインは、後背側揃腹側軸上の特定の範囲内に局在していた。これらのことから、後背側-前腹側軸に沿った糸球の配置が、感覚地図を形作る上で重要な鍵の1つである可能性を示唆した。

 以上のように、論文提出者は、optical imaging法とZif268マッピング法を比較し、嗅球全体でZif268マッピング法を行い、さらに、その結果をOCAMとNeuropilin-1の発現パターンと比較することにより、匂い分子レセプター地図の構成に関して、いくつかの基本的で重要な法則を解明した。

 本論文のうち、optical imaging法による匂い応答の記録、及び、活性化部位へのマーカー色素の注入の実験は、それぞれ、東大大学院、医学系研究科、細胞分子生理学教室の大学院生である、高橋雄二氏、及び永山晋氏が執り行ったが、論文提出者が主体となって結果の解析、検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する.

 従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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