学位論文要旨



No 117476
著者(漢字) 和泉,徹
著者(英字)
著者(カナ) イズミ,トオル
標題(和) 水の構造化による農産物の代謝抑制メカニズムに関する基礎研究
標題(洋)
報告番号 117476
報告番号 甲17476
学位授与日 2002.04.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2464号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物・環境工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 瀬尾,康久
 東京大学 教授 岡本,嗣男
 東京大学 教授 蔵田,憲次
 東京大学 助教授 大下,誠一
 東京大学 助教授 芋生,憲司
内容要旨 要旨を表示する

 水の中に疎水性分子が存在すると、その周囲に水素結合による水のネットワーク構造が発達する。この現象は水の構造化と呼ばれている。疎水性分子である無極性ガス、例えば水素、窒素、メタン、そしてヘリウム、ネオン、アルゴンなどの貴ガスにより水を構造化させることが可能である。そして、農産物の代謝抑制には化学的活性が低く細胞内の反応に直接関与しない貴ガスが望ましいと考えられている。キセノンガスは、水への溶解度が貴ガスの中では比較的高いために農産物貯蔵の研究に用いられてきた。溶解度が比較的高いとはいっても、キセノンガスを用いて水を構造化させるためには、数気圧程度の圧力をかけて水に溶解させる必要がある。また、一般に気体の溶解度はその分圧に比例するので、キセノン分圧が高いほど多くのキセノンが水に溶解し、構造化の程度が高くなるものと考えられる。

 キセノンガスによる水の構造化を農産物の貯蔵に応用した既往の研究として、モヤシ付着細菌の増殖抑制、オオムギ子葉鞘細胞の原形質流動速度の低下ならびに生存率の向上、ブロッコリの呼吸および切断面の褐変の抑制、そして、カーネーション切り花の花持ち延長などの研究がおこなわれている。これら既往の研究における温度およびキセノン分圧の条件は、温度2〜20℃、キセノン分圧0.24〜0.7MPaの範囲にある。

 これらの構造化による代謝抑制のメカニズムとして、構造化によって水の粘度が増大し、基質の拡散係数が小さくなり、酵素反応速度の低減、すなわち代謝の抑制につながるというモデルが提唱されているが、理論的考察の域を出ておらず、実証的研究が求められている。

 本研究では、酵素反応が粘度増大によって抑制されることを確認し、構造化によって水の粘度が増大することを実証することを目的とした。

 第2章では、乳酸デヒドロゲナーゼによるピルビン酸の乳酸への還元反応を対象とし、増粘剤としてショ糖を添加することで反応系の粘度を制御することで、酵素反応が粘度増大によって抑制されることを確認した。実験条件は、Tris-HCl緩衝液を用いてpH7.4、温度20℃とし、混和直後の反応溶液の濃度を、Tris,81.3mM;NaCl,203mM;pyruvate.1.6mM;NADH,0.20mM;LDH,0.13mg prot./lに設定し、ショ糖濃度を0から24%の範囲に設定した。反応溶液の粘度は、落体式粘度測定法に基づく.方法で温度20℃で測定し、反応初速度を波長339nmにおける吸光度の変化から計算した。反応溶液の粘度はショ糖濃度にしたがって増大し、ショ糖濃度が0および24%のときの粘度はそれぞれ1.0および2.3mPa・sとなった。反応初速度の粘度依存性についてみると、実験を行った1.0から2.3mPa・sの全粘度範囲において、反応初速度は粘度の増大にしたがって低下した。また、反応初速度と粘度の逆数とのあいだに直線関係がみられ、両者を関係づける実験式を得た。以上より、反応系の粘度を増大させることにより、酵素反応が抑制されることを確認した。

 第3章では、キセノンガスによる構造化によって水の粘度が増大することを実証し、構造化による粘度増大が物質移動および酵素反応を抑制し、農産物の代謝を抑制するのに充分なレベルにあることを示した。粘度の測定は落体式粘度測定法に基づく方法で、温度20℃でおこなった。

 はじめに、水にキセノンガス圧をかけてガスを所定の時間溶解させてから粘度を30分間測定する実験をおこなったところ、水の見かけ粘度は、測定開始直後に高い値をしめしたあと、しだいにその温度における水の粘度へと低下する挙動を示した。これは測定中の粘度計ピストンの運動によって水の構造が破壊され、粘度がしだいに低下したものと考えられた。また、見かけ粘度の最大値はガス溶解時間が長いほど高くなる傾向がみられた。

 そこで、キセノンガス圧を0.3および0.5MPaとして、最大見かけ粘度のガス溶解時間依存性を調べたところ、最大見かけ粘度は3時間ほどで飽和すること、およびその飽和した偵はキセノンガス圧が高いほど大きくなった。キセノンのかわりに水に対する溶解度が比較的小さい窒素ガスを用いてガス圧0.5MPaで同様の実験を行ったところ、最大見かけ粘度はガス溶解時間によって変化せず、圧力自体は粘度の測定値に影響しないことが確認された。

 次に、粘度の測定中に一旦低下した粘度が静置することで回復するか調べた。キセノンガス圧を0.3MPaとして4時間溶解させたあと、粘度を30分間測定し、その後所定の時間静置してから、もう一度粘度を30分間測定し、2回目の測定のとき粘度がどれだけ回復しているか調べた。その結果、粘度は30分後にはガス溶解実験の飽和値まで回復し、粘度の測定中キセノンは水から脱離せず、水の構造だけが破壊されるものと推察された。

 本論では、増粘剤を添加することで反応系の粘度を制御して酵素反応が粘度増大によって抑制されることを確認し、反応初速度と粘度の関係をあらわす実験式を求めた。また、キセノンガスによる構造化によって水の粘度が増大することを実証し、さらに、構造化による粘度増大が物質移動および酵素反応を抑制して農産物の代謝を抑制するのに充分なレベルであることを示した。

 以上により、水の構造化による農産物の代謝抑制メカニズムが基礎的に明らかにされた。

審査要旨 要旨を表示する

 野菜をはじめとする生鮮農産物は収穫後も生命活動を続けており、流通過程における鮮度保持が必要である。このため、予冷にはじまる低温温度管理や、これに環境ガス組成の制御を組み合わせたCA貯蔵などが実施されている。近年、これら従来の鮮度保持技術に加えて、無極性ガスであるキセノンを用いて生体内水を構造化することで農産物の鮮度を保持する方法が検討されている。この方法のメカニズムは、キセノンを細胞内の水に溶解させて構造化すると細胞内水の粘度が増加して基質の拡散速度が減少し、酵素反応速度が低減して農産物の代謝抑制につながるためであると考えられている。しかし、このメカニズムは仮説の域を出ておらず、水の構造化を利用した農産物の鮮度保持法を推進していくためには、構造化による農産物の代謝抑制メカニズムを明らかにする必要がある。そこで、キセノンの溶解による構造化によって水の粘度が増加することおよび溶媒の粘度増加によって酵素反応が抑制されることを実証し、さらに、水の構造化から期待される物質移動および酵素反応速度の低減が構造化による農産物の代謝抑制に匹敵するレベルにあることを示し、構造化による農産物の代謝抑制メカニズムを明らかにすることを目的として研究を行った。

 この研究では第2章において、キセノンを溶解させて水を構造化することにより粘度が増加することを円柱落体粘度測定法に基づく方法により確認した。キセノンが溶解した水では、粘度の読みが測定開始直後に極大値を示したあと、その温度における水の粘度の値へとしだいに減少する挙動を示すことを観察し、チキソトロピーとの類似性を指摘した。また、粘度測定過程における粘度の読みの最大値は粘度測定中のピストンの運動によって水の構造が破壊される前の水の状態を表していると考え、この最大値がガスの溶解とともに増加し、溶解平衡後にはキセノン分圧の高い方が大きい粘度となることを観察した。この結果から、キセノン分圧が高く、したがってキセノンの溶解度が高い方が粘度の増加効果が大きくなることを示した。また、粘度の測定を止めて静置することで、測定中に低下した粘度が回復されることを確認した。このように、取り扱いが難しい構造化した水の粘度増加が実験的に明らかにされた。

 また、第3章において乳酸デヒドロゲナーゼによるピルビン酸の乳酸への還元反応を対象とし、NaClを0.2M含む0.08M-Tris-塩酸緩衝液(pH7.4)にショ糖0〜24%(w/w)を増粘剤として添加することで反応系の粘度を1.0〜2.3mPa・sに調整して、ピルビン酸1.6mM,NADH0.2mMのときの反応初速度を温度20℃において測定した。実験を行った全粘度範囲において、反応初速度は粘度の増加にしたがって単調減少し、酵素反応が粘度増加によって抑制されることを確認した。また、この全粘度範囲において反応初速度と粘度の逆数とのあいだに直線関係を見出し、両者を関係づける実験式を求めた。

 ここで、水の構造が機械的に破壊されていない状態を想定し、水-キセノン系の粘度として第2章において観測された溶解平衡後の粘度の読みの最大値を用いて、水の構造化による粘度増加から期待される反応基質の拡散係数および乳酸デヒドロゲナーゼによるピルビン酸の乳酸への還元反応の初速度の低減を、ストークス-アインシュタイン方程式およびこの研究で求めた実験式によりそれぞれ推算し、これらが報告されている構造化による農産物の代謝抑制に匹敵するレベルにあることを示した。

 以上、本研究はキセノンを細胞内の水に溶解させて構造化すると細胞内水の粘度が増加して基質の拡散速度が減少するのにともない、酵素反応速度が低減して農産物の代謝が抑制されるメカニズムを確認したものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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