学位論文要旨



No 117477
著者(漢字) 須原,祥二
著者(英字)
著者(カナ) スハラ,ショウジ
標題(和) 古代地方制度形成過程の研究
標題(洋)
報告番号 117477
報告番号 甲17477
学位授与日 2002.04.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第355号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐藤,信
 東京大学 助教授 大津,透
 東京大学 助教授 早乙女,雅博
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 助教授 山口,英男
内容要旨 要旨を表示する

 日本の古代国家は律令国家の成立を画期とするが、当時は、律令法の母国中国と異なる氏族制的要素の大きい社会だった。律令体制下でも、天皇が個々の人民を直接支配する形をとりながら、実際には地方豪族-地方の有力首長達-の民衆支配に依存していた。このような構造は、地方制度として大和政権段階の国造制、孝徳朝から大宝律令完成までの国評制、そして律令体制下の国郡制へと変化しつつも基本的には不変だった。石母田正氏は文化人類学の首長制の成果を踏まえながら、この一貫する構造を「在地首長」による支配として独自に理論化された。この在地首長制論は、その構想カとある種概念の曖昧さもあって、日本の古代国家の特質を論じる上で今日でも有力な学説となっている。

 確かに在地首長制論に基づけば、律令国家の形成過程について明快な見通しを得ることができるが、一方その明快さ故に、生じる問題点も少なくない。例えば、国造は評制の成立によってそのクニは解体されたものの、新たに評司あるいは郡司に任用されることで在地首長としての地位は再保証され、その職は首長位の継承と同じように子孫へと受け継がれていった、というように、律令国家形成過程において社会内的要因を排除する平板かつ画一的な理解に陥る危険性を孕んでいる。とりわけ中国の律令制度と大きく異なる郡司制度は、それが新たに創始された制度であるにもかかわらず、氏族制的・首長制的要素の残存・維持の側面から評価されがちである。七世紀、特に七世紀後半から八世紀にかけて、対外的緊張の中、中央集権的国制が作り上げられていく過程で、国家は地方の有力首長達をどのように再編していったのだろうか。あるいは地方の首長達にとって、自らの権益を確保するために、主体的に国家との関係をどのように再構築していったのだろうか。単に旧制度の維持としては捉えきれない多様かつ新たな営みがそこはあったはずである。その営みの具体相を、基礎的な史料の再検討を行いつつ明らかにするのが本論文の目的である。以下各部について簡単な説明を加えたい。

 第一部「八世紀の郡司制度と在地」は、八世紀における郡司任用制度の運用実態の分析を通して、「郡領職=在地首長の首長位」というシェーマに対する疑問を提示した論考である。郡領職は在地首長の族長位を職制化したものという理解の根拠の一つとして、郡司は終身官だということが挙げられる。しかし八世紀における擬任郡司や帯勲郡司の史料を分析すると、終身官であるはずの彼らが実際には十年未満という短期間で交替していることがわかる。その背景には、郡司候補者というべき在地の有力者が同一郡内に多数存在しており、実際に郡司職は彼らの間で持ち回り的に移動していたが考えられる。こうした一郡内に拮抗している郡司侯補者たちこそが、いわゆる郡司層の実態であり、律令国家が八世紀に郡司の任用法令をたびたび改制するのも、郡司層を中心とする在地の諸勢力が承服できる人物を、いかに効率よく選ぶかというねらいによる。そして郡制成立当初より、実際に郡司(特に郡領)が終身官として運用されていなかったことは、郡領の地位がコホリ(評・郡)制以前の在地権力の再保証は言い切れない側面があることを物語っているのである。

 第二部「仕奉と性」は、政治制度を離れ、イデオロギーの側面から豪族と王権(あるいは律令国家)との関係を追究した論考である。対象とする時期はやや遡って七世紀後半を中心とし、「姓」というそのテーマからも中央の豪族も併せて考察の対象とした。大和政権の段階から天皇に仕えるすべての人々は、「仕奉」と呼ぶべき先祖から受け継いだ功績やそれによる職掌に基づいて、王権への奉仕を果たしていた。一方、庚午年籍の作成にともなう定姓作業によって、中国の姓制度を模倣しつつ、称号や私的呼称から「姓」が制度化された。新しい制度である「姓」は父系血縁集団の名称としてよりは、仕奉の依代として受け入れられ、孝徳朝以降のめまぐるしい諸制度の変遷の中で、諸豪族は自らが持っているさまざまな仕奉の中から、現時点で最も政治的訴求力があると判断した仕奉にもとづいて「姓」を選択し、戸籍への登録を図ったのである。地方においては、国造・地方伴造・県稲置などの仕奉を偽って主張することで地方の支配者としての実績を示し、評司への任用を図る人々も現れた。

 第三部「評制とその在地構造」は、評制の成立過程とその構造を論の中心にすえ、郡制との連続性を追究した上で、複数の首長をコホリノミヤツコという首長に擬するという、その制度の画期性を明らかにした論考である。評制については基本的な内容そのものについて先学諸氏の見解が分かれているが、まず「評造」について、コホリノミヤツコという古訓を論拠としつつ、評督・助督の総称を基本にしながら、評督の異称でもある、という新たな解釈を提示した。次いで評制の成立過程については孝徳朝全面建評説を採り、評制下の国造の役割については、国宰や評司の公権力を補完する伝統的権威としての機能は持ってはいるものの、国造職自体にはもはや公的な政治権力は持っていなかった、との結論を得た。以上の分析の過程で、評制下の在地構造は、基本的に八世紀の郡司制下の在地構造と基本的に変わらないことを明らかにした。評制に先行する国造制の段階から、クニの中には国造以外に複数の有力首長が存在しており、評の分割の際には国造自身が国造名を冠した評から転出し、新評を建てることすらあった。評制は制度の成熟度の違いこそあれ、基本的に郡制と同じ制度であり、両者を一貫して「コホリ」制度と呼ぶべきと結論した。

 第四部、第五部はそれぞれ個別の論題による各論となっているが、本論と重要な関わりがあるので、これに加えた。

 第四部「越中石黒系図と越中国官倉納穀交替記」は、越中石黒系図の史料批判をテーマとした論考である。同系図は地方史や郡司の研究で広く使用されており、越中国利波郡の郡領を輩出している利波氏が、代々利波郡の郡領職を受け継いできた様子がうかがえるので、「郡領職=在地首長の族長位」という理解を裏付ける重要な史料として位置づけられていた。それに対し、平安時代の原本が現存している越中国官倉納穀交替記の諸写本を検討し、特定の写本の誤写と同系図の記載が一致することから、同系図がその写本を参照して作られた偽系図であることを論証した。

 第五部「式部試練と郡司読奏」は、奈良〜平安時代に行われていた中央における郡司任用手続きについて、その内容を詳細に明らかにしたものである。この手続きは在地首長の王権に対する服属儀礼として取り上げられ、その儀礼的側面が強調されるきらいがあったが、それに対して式部省と太政官における具体的な銓衝手続きを明らかにすることで、あくまでも政務手続きとしての側面から分析することに努めた。またそれを通して、八世紀における郡司任用手続きで重要とされている「立郡譜第」「傍親譜第」「労効譜第」「無譜」の語義についても明らかにした。

 以上、七〜八世紀の在地の政治社会は多極化した構造を持っており、国造やコホリノミヤツコ(郡領・評造)によって一元化しうるものではなかったと考えられる。一方で、律令制下の郡領は終身官で、共同体首長としてのさまざまな機能を負っており、この両側面を統一的に理解するには、コホリ制を擬制された首長制と理解するのが適切だと考える。大化の諸詔で部民領有の弊害が説かれていることからも、二人の有力首長をコホリの首長に擬し、国造制、部民制等による収取を一元化する役割を持たされた新たな地方支配制度として、コホリ制は構想されたのだろう。さらに、コホリ内部の有力首長の政治的自立としてコホリの分割が繰り返され、それを通して国家は地方支配を深化していったと考えられる。以上から、在地首長制論における「郡領=在地首長」という枠組みは、むしろ実態というよりも国家による理念型と位置づけられる。都制成立後、天平期には郡司の任用法令が急速に整備され、コホリ内の有力首長がそれぞれ譜第重大家の資格を有し、持ち回り的に郡領に就任するシステムが成立した。コホリ制は孝徳朝に成立し、天平期に完成したと総括される。

審査要旨 要旨を表示する

 須原祥二氏の論文『古代地方制度形成過程の研究』は、国家による地方豪族の編成のあり方に注目しながら、7〜8世紀の日本古代における在地社会の多極的構造について、新しい論点を提示した意欲的な研究成果である。

 研究成果の基礎は、8世紀に成立した地方の郡司制度が、律令の上では終身官とされているにもかかわらず、郡司任用の分析を通して、10年未満という短期間の交替で持ち回り運用されていたという実態を明らかにした点にある。これにより、在地の族長であった郡司が郡内を一元的に把握していたとする在地社会像を批判し、郡内に多数の郡司侯補者が「郡司層」として存在する多極的な構造であったことを明快に指摘したのである。

 国家による地方豪族編成の歴史過程としては、7世紀半ばの孝徳天皇時代にはじまるコホリ(評・郡)制を、国造・県稲置・地方伴造・ミヤケの現地管掌者などとして王権への「仕奉」にあたった多様な地方有力首長の中から、二人のコホリノミヤツコ(評造・郡領)を選び、部民制や国造制による多元的な収取を一元化した制度であると整理する。

 日本の古代国家を地方豪族たちの伝統的な民衆支配を総括したものとする石母田正氏の「在地首長制」論が提唱されて以来の、国造やコホリノミヤツコの在地支配を一元的なものとみる見方に対して、村落単位の村落首長を論理的に積極評価する見方とは異なる実証的な見地から、説得力ある批判を提起した点は、評価される。

 「郡司層」の具体的な存在形態の解明や、その下の有力農民との関係などについての論及がなお望まれるものの、日本古代の在地社会の構造について新たに一つの見通しを提示した点で、本論文は、今後の研究に有益な基礎をもたらしたといえよう。

 よって、本論文は博士(文学)の学位を授与するのにふさわしい論文であると判断する。

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