学位論文要旨



No 117480
著者(漢字) 関,由賀子
著者(英字)
著者(カナ) セキ,ユカコ
標題(和) 初期分裂病における自生記憶想起 : 横断的・縦断的諸相と臨床的意義
標題(洋)
報告番号 117480
報告番号 甲17480
学位授与日 2002.04.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2018号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 栗田,廣
 東京大学 教授 金澤,一郎
 東京大学 教授 杉下,守弘
 東京大学 教授 久保木,富房
 東京大学 助教授 郭,伸
内容要旨 要旨を表示する

<目的>初期分裂病にみられる自生記憶想起とは1990年中安が《初期分裂病の特異的四主徴》の一つである自生体験の下位症状として記載した症状である。筆者は以前より日常臨床の場面で患者が訴える自生記憶想起の内容は本人にとって不快なものが多いという印象を持っていたが、この症状により注目したのは医療少年院での初期分裂病症例の経験であった。そこでみられた自生記憶想起は、その内容が患者にとって不快な記憶である場合が多く、さらにはその不快な記憶の自生記憶想起から新たな症状が形成されたのではないかと思われた症例も存在し、それらが非行行為の発生や衝動性の全般的な亢進の原因となったのではないかと推察されたからである。自生記憶想起は30種の初期分裂病症状のうち最も高頻度(77.5%)の症状で、臨床場面で最も遭遇しやすく、その正確な同定が初期分裂病診断の大きな拠り所となっており、よって自生記憶想起の体験内容を詳細に明らかにすることが、初期分裂病の診断精度を上げ、またその病像全体の理解を一層深めることになるものと思われる。本論文では想起される過去の体験にはどのような内容があるのかという横断的諸相と、新たな症状形成という縦断的諸相に分けて詳説し検討した。

<対象と方法>対象は、筆者および中安が直接診療にあたった患者で《初期分裂病の特異的四主徴》の下位症状10種のうち少なくとも1つが確実に存在し、かつ他の疾患を疑う根拠が見いだせないことから初期分裂病と診断し治療してきた症例の中から、自生記憶想起を有している87例の初期分裂病症例である。これらの症例の自生記憶想起についての陳述を検討することで、その内容を(1)些事:想起される内容に感情的負荷がなく、想起されてはじめてそのようなことがあったと認識されるような、忘れてしまっていたような過去の体験、(2)テレビ・新聞・マンガ:過去に見たり読んだりしたことのあるテレビ、新聞、マンガなどの記憶、(3)夢:過去に見た夢、(4)病的体験:過去に認められた病的体験、(5)不快事:患者にとって不快な感情的負荷を伴う過去の体験、の5種に分類した。また他の臨床的指標との関連性を検討するために、発病年齢、初診時年齢、初期分裂病症状数、遺伝負因、転帰も示した。

<結果>カテゴリー数の比率は、1種のみの症例が61例(70.1%)、2種が20例(23.0%)、3種が4例(4.6%)、4種が1例(1.2%)、5種全てを有する症例が1例(1.2%)であり、カテゴリー内容の比率は、(1)些事が58例(66.7%)、(2)テレビ・新聞・マンガが11例(12.6%)、(3)夢が5例(5.7%)、(4)病的体験が6例(6.9%)、(5)不快事が42例(48.3%)であった。またその陳述の内に自生記憶想起以外の新たな症状の形成が認められる31症例の存在が明らかとなった。その症状形成の内容は、1:不快気分・自他に対する攻撃性亢進と神経症様症状、2:空笑や独語、3:自生空想表象、4:自己所属感の希薄化、5:関係念慮、6:被害妄想・妄想追想などの極期症状である。このような症状形成が認められた症例は全例が<不快事>をその想起内容に含んでおり、またほとんどで新たな症状形成は<不快事>の記憶想起をもとにしたものであった。これに加えて、臨床的指標を<不快事>を有する症例とそれ以外の症例で比較検討すると、遺伝負因と顕在発症例はいずれもく不快事>を有する症例で多く認められた。

<考察>1.自生記憶想起の横断的諸相一想起される過去の体験一

 想起される過去の体験にはどのような内容があるかという横断的諸相についてであるが、これは、<些事>、<テレビ・新聞・マンガ>、<夢>、<病的体験>、<不快事>の5種を抽出することができ、旧来の定義の不十分性が指摘された。臨床場面において自生記憶想起を見逃さないためには、体験の自生性を把握することが重要であるが、その際どのような過去の体験が想起されるのかという記憶想起の内容を十分に知っておくことも重要であり、この点で想起される記憶内容には5種があるという本研究の結果はそれだけですでに臨床上寄与しうることになろう。

1)<病的体験>の自生記憶想起

 <病的体験>の自生記憾想起は6例のうち4例が面前他者に関する注察・被害念慮であった。これはこの症状が初期分裂病症状の中で自生記憶想起に次いで出現頻度の高い症状(56.9%)であり、この症状を併せ持っている患者の頻度が相対的に高いことがその理由の一つではあろうが、今一つの理由はこの体験は半信半疑ではあっても患者にとっては実際の事実とあい異なることのない事実的体験、しかも不快な事実的体験であるがゆえに、後述する、実際の<不快事>がより多く想起されるのと同じ理由によって、自生記憶想起の対象になりやすいものと思われた。

2)<不快事>の自生記憶想起

 <不快事>は<些事>に次いで多く、これは自生記憶想起の体験内容には<不快事>が多いのではないかという、本研究の出発点となった印象を実証するものとなった。また新たな症状形成が認められた症例は全例がその想起内容として<不快事>を有しており、またその殆どが<不快事>を素材として新たな症状を形成していたという点も<不快事>の記憶想起に特別の位置を与えるものとなろう。加えて<不快事>の記憶想起を有する症例の方が有さない症例よりも分裂病の遺伝負因や顕在発症率が高かったということも、この体験が臨床上重視されるべき理由となろう。<不快事>はその体験内容の性状ゆえに、患者が体験内容の不快性に注目し、もっぱらそうした側面を訴えることが多く、それを聞いている診察者の側でも、ともするとその内容を安易に了解してしまい、よってこの症状を見逃さないために改めて体験形式の自生性に着目することの重要性が指摘された。<不快事>の自生記憶想起と類似した体験として、PTSDのフラッシュバックがあるが、体験内容と体験形式ともに初期分裂病の自生記憶想起のそれとは異なっていた。自閉症のおけるtime slip現象に関しては、その体験形式は初期分裂病の自生記憶想起と極めて似かよっていると判断され、またその体験内容は、呈示されていた症例の殆どが患者にとって不快な体験でありその後の反応は、縦断的諸相で考察した<不快事>の自生記憶想起の反応と類似していた。

2.自生記憶想起の縦断的諸相一新たな症状形成一

1)不快気分・自他に対する攻撃性亢進と神経症様症状

 この症状形成はもっぱら<不快事>の自生記憶想起に基づくものであり、まずは感情面への影響として現れ、過去に体験したときの不快感情がそのまま随伴していたり、想起された内容が不快なものであるがゆえに新たに不快な気分におそわれ、時には自もしくは他への攻撃性を示すようになるのであった。またさらにヒステリー様症状や強迫症状などの神経症様症状を呈することも時には起こりうる。このように二次的な反応が激しい場合は、表面化しているこれらの症状に目を奪われてしまい、実際にはそれらを引き起こしている一次症状である自生記憶想起を見逃してしまう可能性はさらに大きくなるものと思われ、表面化している二次的な反応によって診断をしてしまうことで誤診につながるおそれも高くなるものと思われる。

2)空笑や独語(自生笑と自生発話)

 これは自生記憶想起として現れた過去の情景的場面に没入して、思わず知らず笑いが、あるいはまた言葉が勝手に口をついて出てしまったものであり、体験の内実を正しく表現するならば自生笑、自生発話と呼ぶのが適切であろう。空笑や独語は主観的体験ではなく客観的表出であって、その臨床的評価は本来そうした行為の背後にある内的体験の聴取をまって行うものであるが、ともすると外的表出のみで、往々病期がより進んだもの(例えば、極期である幻覚妄想状態とか)と理解されがちである。しかし、いまだ初期段階の症状である自生記憶想起に随伴して、その情景的場面に没入するがゆえに現れることもあるのであり、これは安易な解釈は戒められるべき好個の実例となっている。

3)自生空想表象

 <不快事>の想起から、同じ自生体験という形式を取りながらその内容が過去に実際にあったこと(自生記憶想起)から空想的なもの(自生空想表象)へと発展している例が認められた。その空想表象の内容は二つに大別でき、その一つは、自らの自殺の具体的な様子が浮かぶという自傷に向かう内容であり、他の一つは、想起された相手に対して暴行を加えるという他害に向かう内容である。これは前項で示した自他に対する攻撃性亢進が、自生空想表象という新たな病的体験として表現されたものであるといえる。

4)自己所属感の希薄化

 自生記憶想起の体験形式は自生性であって、つまり<営為に対する自己能動感>は失われているものの(内容の自己所属感)保たれているのが通常であるのであるが、ここでは自生記憶想起の自己所属感が希薄化し、本来の自分の心のほかにもう一人の自分の心を感知するという二重心を思わせる訴えがみてとれた。《背景思考の聴覚化》の症状進展図式から見て、自己所属感の希薄化〜二重心の感知は純然たる初期分裂病症状と極期症状の中間に位置している症状であり、自生記憶想起の自己所属感の希薄化は病期としては初期よりもやや進展したものであると判断される。

5)関係念慮

 <近事>を素材とし、実際にその出来事があった時には何も感じていなかったにもかかわらず、自生的に想起されることによって自責的な方向への新たな意味づけが生じていた。筆者は以前、気付き亢進から妄想知覚へ症状進展の形成過程を考察した際に、妄想知覚の病識欠如を体験形式と体験内容にわけて各々定義し(前者は偶然性の誤判断、後者は蓋然性の誤判断)、その両者の病識欠如がないものが気付き亢進であり、両者とも病識欠如があるものが妄想知覚であって、その中間にあたる症状が念慮であると述べた。本症状はこの観点からすると自責的あるいは自罰的な関係念慮であるといえる。またこのような体験が繰り返し生じることによっては念慮を超えて妄想といってもいいほどの、より強固な関係づけが形成されるに至ると推察される。また<近事>は患者自身の現在の生活とより密接に関わっている出来事であるからこそ患者自身が固着しやすいのであり、このような体験に関して自責的・自罰的な意味づけが生じるために、社会生活の不適応が生じる可能性があると思われた。

6)被害妄想・妄想追想などの極期症状

 <不快事>が繰り返し想起されることによって、自生記憶想起に基づく症状形成が、はじめは不快気分・自他に対する攻撃性亢進だったがものが、やがて新たな自生空想表象に発展しそれに反撃すべく独語(自生発話)がみとめられ、さらに自生空想表象の内容が具体的な他者からの迫害という自生空想表象の被害妄想化と呼べるものに進展し、ついには妄想追想を形成するに至っているさまがみてとれた。ここに本症例でみられた妄想追想は、もともとはさほど意味を持っていなかった記憶どうしが、想起を繰り返すうちに新たに関係づけられて妄想追想を形成しており、この事実は、いままで記述されたことのなかった妄想追想の形成機序についてその成因の1つを明らかにしたものとなろう。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は初期分裂病において最も高頻度に認められる自生記憶想起について、87例の陳述例を対象として、想起される過去の体験にはどのような内容があるのかという横断的諸相と、新たな症状形成という縦断的諸相に分けて症候学的検討を行い、下記の結果を得たものである。

1.想起される過去の体験にはどのような内容があるかという横断的諸相については、<些事>(66.7%)、<テレビ・新聞・マンガ>(12.6%)、<夢>(5.7%)、<病的体験>(6.9%)、<不快事>(48.3%)の5種が抽出された。このなかでもとりわけ重要な点は<不快事>の記憶想起が<些事>に次いで多く、症例の半数近くが有しており、もっぱら<些事>に注目してきた旧来の定義の不十分性が指摘されたことである。

2.新たな症状形成という縦断的諸相に関しては、もっぱら先の、新しく見い出された<不快事>の記憶想起を原基として、不快気分・自他に対する攻撃性亢進と神経症様症状、空笑や独語、自生空想表象、自己所属感の希薄化、関係念慮、被害妄想・妄想追想などの極期症状の6種に及ぶ多彩な症状形成が指摘された。それらの6種の症状形成のうち自己所属感の希薄化、関係念慮、被害妄想・妄想追想などの極期症状の3種が分裂病の極期への進展を表わすものであり、これは自生記憶想起のうち<不快事>が想起されることは病期が初期から極期へと進展する可能性が高いことを示唆するもので、臨床上の注意を喚起するものとなった。

1)不快気分・自他に対する攻撃性亢進と神経症様症状は、まずは感情面への影響として現れ、過去に体験したときの不快感情がそのまま随伴していたり、想起された内容が不快なものであるがゆえに新たに不快な気分におそわれ、時には自もしくは他への攻撃性を示すようになる。またさらにヒステリー様症状や強迫症状などの神経症様症状を呈する症例も認められた。このような二次的な反応が激しい場合は、表面化している二次的な反応によって診断をしてしまうことで誤診につながるおそれも高くなるものと思われた。

2)空笑や独語(自生笑と自生発話)は自生記憶想起として現れた過去の情景的場面に没入して、思わず知らず笑いが、あるいはまた言葉が勝手に口をついて出てしまったものである。空笑や独語は、ともすると外的表出のみで往々病期がより進んだもの(例えば、極期である幻覚妄想状態とか)と理解されがちである。しかし、いまだ初期段階の症状である自生記憶想起に随伴して、その情景的場面に没入するがゆえに現れることもあるのであり、安易な解釈は戒められるべき好個の実例と思われた。

3)<不快事>の想起から、同じ自生体験という形式を取りながらその内容が過去に実際にあったこと(自生記憶想起)から空想的なもの(自生空想表象)へと発展している例が認められた。その空想表象の内容は二つに大別でき、その一つは自らの自殺の具体的な様子が浮かぶという自傷に向かう内容であり、他の一つは想起された相手に対して暴行を加えるという他害に向かう内容である。これは前項で示した自他に対する攻撃性亢進が、自生空想表象という新たな病的体験として表現されたものであると考えられた。

4)自生記憶想起の自己所属感が希薄化し、本来の自分の心のほかにもう一人の自分の心を感知するという二重心を思わせる訴えが認められた。自己所属感の希薄化〜二重心の感知は純然たる初期分裂病症状と極期症状の中間に位置している症状であり、自生記憶想起の自己所属感の希薄化は病期としては初期よりもやや進展したものであると判断された。

5)<近事>を素材とし、自生的に想起されることによって自責的な方向への新たな意味づけが生じている例が認められ、これは自責的あるいは自罰的な関係念慮であるといえた。<近事>は患者自身の現在の生活とより密接に関わっている出来事であるからこそ患者自身が固着しやすいのであり、このような体験に関して自責的・自罰的な意味づけが生じるために、社会生活の不適応が生じる可能性があると思われた。

6)<不快事>が繰り返し想起されることによって、自生記憶想起に基づく症状形成が、はじめは不快気分・自他に対する攻撃性亢進だったものが、やがて新たな自生空想表象に発展し、それに反撃すべく独語(自生発話)がみとめられ、さらに自生空想表象の内容が具体的な他者からの迫害という自生空想表象の被害妄想化と呼べるものに進展し、ついには妄想追想を形成するに至っているさまがみてとれる陳述が認められた。自生記憶想起が基となって記憶性妄想知覚が生じたことの指摘は、従来たんに静態的定義が与えられてきたにすぎない妄想追想の動態的定義ないし発現機序に光を与えることとなり、精神病理学上も重要な示唆を与えるものとなった。

 以上、本論文は初期分裂病に認められる自生記憶想起を、その陳述内容の解析から想起される体験内容は何か(横断的諸相)、また自生記憶想起を基にしていかなる新たな症状形成が生じるか(縦断的諸相)の2つの観点から分類し、その新たな症候学的特徴と臨床的意義を明らかにした。本研究はいまだ十分に知られていない自生記憶想起の症候学的理解と、さらには初期分裂病の診断ないし分裂病の早期発見に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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