学位論文要旨



No 117483
著者(漢字) 王,金枝
著者(英字) Ou,King Shi
著者(カナ) オウ,キンシ
標題(和) 過換気誘発性脊髄後角細胞抑制效果に対するAP5の効果
標題(洋) Effect of AP5 on Hyperventilation-induced Suppression of Spinal Dorsal Horn Neurons
報告番号 117483
報告番号 甲17483
学位授与日 2002.04.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2021号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,智幸
 東京大学 教授 宮下,保司
 東京大学 教授 加我,君孝
 東京大学 講師 井手,康雄
 東京大学 講師 五嶋,孝博
内容要旨 要旨を表示する

〔はじめに〕

 人体の組織には多くの受容体が存在し、受容体選択性の薬剤が開発されるにつれ臨床的にも重要性を増しつつある。L-グルタミン酸、L-アスパルギン酸等は哺乳類の中枢神経系において興奮性神経伝達物質として重要な役割を果たしていることが解明されつつある。グルタミン酸受容体は、N-methl-D-aspartate(NMDA)、kainite(Kain)、((S)-α-amino-3-kydroxy-5-methyl-4-isoxazolepropionic acid(AMPA)の3種の作動薬によって細分することができる。AMPAとKainの薬理学的特性ははっきりしていないが、NMDA受容体についてはD-2-amino-5-phosphonovalerate(AP5)等に対する感受性を用いて働きが解明されつつある。興奮性アミノ酸は脊髄後角での侵害情報伝達に関与し、脊髄レベルでの中枢性痛覚過敏はおそらくNMDA受容体に調節されていると考えられている。脊髄後角の侵害受容ニューロンは2種類に分類することができる。即ち、弱い刺激に反応し刺激が侵害的になるまで発射を増加させるものと、侵害刺激のみに反応するものの2種類に、である。前者のニューロンは様々な刺激に反応し、その反応は刺激の強さに依存しているため、広い範囲の刺激に反応する特性をもっているということで"Wide Dynamic Range cells(WDRcells)"と呼ばれている。臨床において、過換気により正常換気下より低い濃度の麻酔薬とより少ない量の筋弛緩薬で麻酔を維持することができた、あるいは鎮痛効果が見られたという報告がある。今回我々は過換気の鎮痛機構とNMDA受容体の関係について競合的拮抗薬であるAP5を用いて検討した。

〔方法〕

 300〜400gのSprague-Dawley系ラットを用いて実験を行った。ハロセン麻酔下に気管切開、動静脈のカニュレーションを行った。気管切開後、人工呼吸器にて呼吸を維持した。T12〜L2の椎弓切除術を行い、立体固定装置に固定した。ハロセン浅麻酔下に実験を行った。脊髄後角細胞活動の測定は、先端部1〜2μmの露出したタングステン微小電極を用いた細胞外微小電極誘導法により行った。WDRcellの確認は非侵害及び侵害刺激に対する反応により行い、電極先端の深さがマイクロドライバーを用いて脊髄表面から350〜850μmの深層の細胞を対象とした。実験刺激としては日本光電社製の定量ピンチ刺激装置を用いたピンチを用い、1秒の刺激を加え記録した。反応は、オシロスコープにて持続的に観察を行い、記録はアナ質グノデジタルインターフェイス(Power Lab、ADlnstmment社製)を介してパソコン(ThinkPad 380、日本IBM社製)に入力した。刺激開始後5秒間の反応を誘発発射数とした。正常換気下に刺激を行い3回の平均値を対照とした。刺激間隔は5分間とした。その後、前処置群と後処置群として以下のとおりに実験を行った。

(a)「過換気群」

 対照値測定後、Paco2が20〜25mmHgになるよう換気回数2倍、一回換気量15倍の過換気(以後過換気)とした過換気開始後5分、10分、以後10分間隔で60分間測定を行った。正常換気に戻し発射数が回復するまで測定を行った。

(b)「AP5群」

 対照値測定後、AP50.16μmolを生理的食塩水50μlに溶解し脊髄に直接投与し(以後AP5投与)た。投与後20分間は5分ごと、それ以後は10分間隔で90分間測定を続けた。

(C)「前処置群」

 対照値測定後、AP5投与を行った。5分、10分と測定を行ないその後過換気とした。過換気開始後5分、10分、以後10分間隔で60分間測定を行った。正常換気に戻し発射数が回復するまで測定を行った。

(d)「後処置群」

 対照値測定後、過換気とした。過換気開始後5分、10分、以後10分間隔で50分間測定を行った。AP5投与を行ない、5分、10分と測定を行なった。正常換気に戻し発射数が回復するまで測定を行った。また、AP5の有効時間を測定するため、一部の動物では、AP5投与後5分間隔で30分間測定を行った。

 結果の統計的検討は、まず群内変動について分散分析を行い、有意差が認められた場合に対照値との比較はダネットの多重比較を用いた。群間の比較についてはボンフェロー二の多重比較により検討を行った。統計的検討にはスタットビューver5.0(日本語版)を用いた。

〔結果〕

(a)「過換気群」

 分散分析により有意差が認められた。過換気と共に自発及び誘発発射数共に抑制され、40分で発射数は対照値の60%程度になり安定した。自発発射数は過換気後10分、誘発発射数は過換気後5分で有意差が生じた。正常換気後20分で発射数は対照値まで回復した。

(b)「AP5群」

 分散分析により有意差が認められなかった。

(C)「前処置群」

 分散分析により有意差が認められた。AP5投与では変化がみられなかった。過換気開始後10分で自発及び誘発発射数共に有意な抑制を示した。発射数は過換気開始後40分で対照値の60%で安定した。正常換気後20分で発射数は対照値まで回復した。

(d)「後処置群」

 分散分析により有意差が認められた。過換気開始後10分で自発及び誘発発射数共に有意な挿制が生じ、40分で対照値の60%で安定した。AP5投与後朝10分で発射数は対照値の約40%となり、AP5投与前後で有意な変化がみられた。

 なお、時間経過について言えば、有意な変化はAP5投与後15分で、投与後30分には投与前値に回復した。

〔考察〕

 AP5の髄腔内投与単独ではWDR細胞活動に変化はみられなかったが、過換気開始後のAP5投与は過換気の抑制効果を増強した。特異的NMDA受容体拮抗薬AP5が過換気の挿制効果を増強することが示された。過換気は臨床的にも鎮痛効果があることが知られている。過換気は、呼吸性の反射活動よりむしろ低炭酸ガス血症の脊髄反射弓への影響によって、ネコの脊髄反射を亢進することが報告されている。また、ネコの脊髄後角第V層細胞の自発活動を過換気が選択的に抑制することが報告されている。第V層細胞は深部知覚、体性侵害入力、内臓性入力情報を受けると考えられていた。体性及び内臓性侵害入力に反応する脊髄後角層の選択的抑制が脊髄レベルでの過換気の鎮痛効果に貢献しているのかもしれない。また、WDRニューロンは脊髄視床路の始まりの細胞と同定されていて、上記のような作用は求心性痛覚情報の中枢への伝達を阻害しているのかもしれない。過換気のWDRニューロン活動への抑制効果と、その抑制効果がそれぞれナロキソンとフェントラミンにより拮抗されたので過換気の挿制効果のメカニズムは内因性オピオイドによる疼痛制御機構とアドレナリン作動性疼痛制御機構と関連していると報告されている。

 今回の結果のとおりAP5が過換気の抑制効果を増強したことから、過換気による生理学的変化がNMDA受容体の活動に影響を及ぼしていると考えられる。今回我々は、過換気に関連した侵害性ピンチ刺激への反応における脊髄NMDA受容体の役割についてAP5を用いて検討した。AP5はin vivoの実験で視床腹側基底部のニューロンのNMDA誘発性興奮を50mMの量で拮抗したり、in vitroの実験では10〜250μMでNMDA誘発性の脊髄後角ニューロンの脱分極を抑制するなど、競合的拮抗薬と考えられている。AP5とケタミン溶液による脊髄の潅流は低濃度で虚血中の後角ニューロンの発射率を大幅に抑制した。AP5とケタミンの結果は、ラット脊髄のNMDA受容体が侵害刺激の求心性伝達に関与しこの受容体への拮抗薬は末梢への侵害刺激への後角広域作動性ニューロンの反応を抑制するという仮説を支持するものである。

 今回の結果であるAP5の脊髄への投与のみではWDRニューロンの濫動に有意な変化をもたらさなかったということは、AP5により後角神経細胞の受容野への侵害ピンチ刺激への反応に変化をもたらさなかったという報告や、条件付け刺激のない状態でAP5もケタミンも求心性入力に影響を及ぼさなかったという報告と一致している。今回のAP5の脊髄への投与実験において、過換気の後角細胞活動抑制効果は大幅に増強された。このことは過換気によりもたらされる生理学的変化がNMDA受容体の活動に影響を及ぼしていることを示している。低炭酸ガス血症がラットの脳におけるグルタミン酸濃度の上昇させたという報告がいくつかある。興奮性アミノ酸(EAA)であるL-グルタミン酸とL-アスパルギン酸も知覚求心路において神経伝達物質としてはたらいているかもしれない。脊髄後角において高濃度のEAA結合部位とL-グルタミン酸が発見されていて、EAA作動薬のクモ膜下投与は侵害刺激への反応と同様の特性の行動を容量依存的にもたらしたが、特異的NMDA受容体拮抗薬のクモ膜下投与は電気刺激からの回避反応を抑制したと報告されている。

 NMDA受容体拮抗薬のAP5は過換気後のグルタミン酸の増加効果を阻害したため、過換気の抑制効果を増強したと考えられるが、抑制効果そのものについてはまだ多くの研究すべき点がある。今回の結果は、低炭酸ガス血症がEAAの濃度の生理学的変化をもたらすと共に、NMDA受容体は病的状態のみならず、生理学的状況においても神経伝達でその役割を果たしていることを示していると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、過換気による中躯神経系の興奮性アミノ酸の濃度変化と、脊髄後角痛覚伝達系神経細胞活動の変化の関係を明らかにするためラットの脊髄後角神経細胞活動を細胞外微小電極誘導法にて観察しながら、過換気の効果及び興奮性アミノ酸であるGlutamate受容体のサブタイプの1つであるNMDA受容体拮抗薬の効果の相互関係を研究したものであり、下記の結果を得ている。

1.Paco220〜25mmHgの過換気はラットの脊髄後角神経細胞活動を抑制した。抑制効果は自発活動及びピンチ刺激による誘発活動ともに5〜10分で有意となった。過換気開始後40分で自発及び誘発活動は対照値の約60%で安定した。過換気開始後60分正常換気に戻し、約20分後に神経活動は対照値に回復した。

2.AP5単独の抑制効果ではなくそのNMDA拮抗効果のみを観察するため、AP50.16μmolを50μlに溶解して直接脊髄に投与して使用した。この量のAP5は、正常換気下の脊髄後角神経細胞活動に変化を及ぼさなかった。

3.同量のAP5を脊髄に投与したが、神経活動に変化は無く、投与10分後に開始した過換気による抑制効果はやはり40分後に約60%に抑制された。したがって過換気の抑制機構にAP5前処置は大きな関与はないものと考えられた。正常換気に戻し細胞活動の回復を確認した。

4.過換気開始後50分で同量のAP5を投与したところ脊髄後角神経細胞活動は対照値の45%以下まで抑制された。この結果は投与前と比較して有意な抑制であり、過換気により神経細胞活動の抑制が安定した段階ではNMDA受容体が活動していることが示唆された。なお神経活動が投与前値にまで完全に回復するのに約30分かかった。実験後正常換気とし神経細胞活動の回復を確認した。

 以上、本論文は、ラットの脊髄後角において、過換気下に実際にNMDA受容体の活動が関与、していることを明らかにした。本研究はこれまで検討の行なわれなかった、神経生化学と神経電気生理学を結ぶ研究であり、NMDA受容体の生理的過程での活動の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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