学位論文要旨



No 117491
著者(漢字) 川島,雪生
著者(英字)
著者(カナ) カワシマ,ユキオ
標題(和) 分子の励起状態の高精度計算 : 気相から液相へ
標題(洋) High Accurate Calculation for the Excited States Extending from Gas Phase to Solvent Phase
報告番号 117491
報告番号 甲17491
学位授与日 2002.05.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5293号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 教授 澤田,嗣郎
 東京大学 教授 尾嶋,正治
 東京大学 助教授 中野,晴之
内容要旨 要旨を表示する

 π共役分子には、レチナール、カロチン、ポルフィリンなど、光反応で重要な役割を果たす分子が多く、π→π*励起状態の研究は光反応機構を解明する上で不可欠である。そのため、π共役分子の基本型であるポリエン、ポリアセンは実験的にも理論的にも注目を集め、数多くの研究が行われてきた。しかし、理論的研究のほとんどは半経験的分子軌道法に基づくもので高精度のab initio分子軌道法による研究は少なく、まして、アントラセン以上の大きさの分子についての理論計算は、ほとんどなされていなかった。それは、大きい分子を高精度に取り扱うことが出来る理論が存在しなかったからである。

 我々の研究室で開発された多配置摂動法のMultireference Moller-Plesset(MRMP)法は大きい分子にも適用できる定量的なab initio分子軌道法であり、これを用いることによって鎖状ポリエンの中性分子、ベンゼン、ナフタレンなどのπ共役分子のπ→π*励起状態を正確に記述することに成功した。そして、本研究ではさらに、鎖状ポリエンのイオン分子、及び、アントラセン、ナフタセンに適用し、イオン分子、比較的大きい分子にもMRMP法が有用であることを示すと同時に、これらの励起状態の性質について調べる。更に、これまでの研究結果と併せてπ共役分子のπ→π*励起状態の性質についても調べる。

 また、これまでは気相中分子の励起状態について研究していたが、生体中の光反応は、レチナールなどの生体分子が溶媒中に存在することにより、溶媒の影響を受ける。しかし、溶媒効果を効果的に取り入れつつ、励起状態を高精度に扱うことが可能な計算手法は難しい。そこで、溶媒効果を効率よく取り込み、なおかつ励起状態を高精度に扱う新しい計算手法を開発した。本研究では、溶媒中の分子における励起状態の高精度計算に挑む。

 本論文は、気相中及び液相中分子における励起状態の高精度計算の実現を目的とし、以下のような題目で構成される。

1)気相中分子の励起状態

a)鎖状ポリエンのカチオン、ジカチオン分子におけるπ→π*励起状態の理論的研究

b)アントラセン、ナフタセンのポリアセン分子におけるπ→π*励起状態の理論的研究

2)液相中分子の励起状態

a)溶媒配置のスナップショット構造を用いた液相分子の励起状態における溶媒効果

b)モンテカルロ法を用いた様々な溶媒配置を用いた液相分子の励起状態における溶媒効果

1)気相中分子の励起状態

a)鎖状ポリエンのカチオン、ジカチオン分子におけるπ→π*励起状態の理論的研究

 カロチンは生体内で重要な役割を果たし、特にカロチンのイオンの励起状態は植物における光合成中心のまわりの光反応に重要な役割を果たすことが知られている。鎖状ポリエンはカロチンのモデル分子として広く使われている。そこで、本研究室で開発されたMultireference Moller-Plesset(MRMP)法を鎖状ポリエン(ブタジエン、ヘキサトリエン、オクタテトラエン、デカペンタエン)のカチオンとジカチオンのπ→π*励起状態に適用することにより、鎖状ポリエンの励起状態における電子状態を調べると同時にカロチンの電子状態を予測した。

 その結果、低励起状態を0.1eV以内の精度で見積もることが出来た。ポリエンにおける理論計算の結果は、ジカチオンの第一励起状態は、カチオンの吸光度の強いカロチンの励起状態よりは高エネルギー側に存在し、中性分子の遷移許容の第一励起状態より低エネルギー側に存在する、というカロチンの実験結果と傾向が一致した(右図)。

b)アントラセン、ナフタセンのポリアセン分子におけるπ→π*励起状態の理論的研究

 ポルフィリンは植物の光合成中心に存在し、またその励起状態は光合成の初期反応において非常に重要な役割を果たす事が知られている。そしてGoutermanモデルなど古くからポリアセンの励起状態はポルフィリンのモデルとして研究されてきた。アントラセンとナフタセンのπ→π*励起状態にMRMP法を適用し、励起状態の性質について調べた。本研究での励起エネルギーの計算結果と測定結果の誤差は、アントラセンのπ→π*励起状態では0.15eV以内、ナフタセンのπ→π*励起状態では0.25eV以内であった。また、アントラセンとナフタセンの励起状態の計算結果をこれまでに行ったベンゼンとナフタレンの計算結果と比較した(右図)。本研究の計算結果は、ポリアセンの第1、第2一重項励起状態はアントラセンとナフタセンの間で入れ替わるのに対して、三重項励起状態においては入れ替わりがない、という実験結果と一致した。また、ベンゼンからナフタセンまでの計算結果に基づいたポリアセン励起状態の一般的傾向について議論した。本研究結果は更に大きいポリアセン分子の励起状態について理解するための指針となることが期待される。

2)液相中分子の励起状態

a)溶媒配置のスナップショット構造を用いた液相分子の励起状態における溶媒効果

 気相においては、MRMP法は励起状態を正確に記述できるが、視覚初期反応において重要な役割を果たすレチナールなどの分子は生体条件にあり、溶媒分子が周りに存在するため、溶媒分子による効果を取り入れることが必要不可欠である。しかし、溶媒効果を取り入れつつ、励起状態を高精度に扱うことが可能な計算手法は存在しない。そのため、溶媒中の分子の励起状態を高精度に計算できるような新しい計算手法の開発を求め、研究を進めてきた。

 溶媒効果を取り入れる手法として、Quantum Mechanics/Moleular Mechanics(QM/MM)法という、基質を量子力学的手法で取り扱いつつ、溶媒分子を計算量の少ない分子力場的手法で取り扱う方法を用いる。QM/MM法は、高精度のab-initio分子軌道法を用いつつ、溶媒効果を取り入れる方法であり、従来の方法ではうまく記述できなかった結合の形成及び切断をよく記述することができる。また、QM/MM法は、すべての分子に量子力学的手法で取り扱うよりも計算量が少なく、より大きい系に適用が可能であり、多くの溶媒分子を計算に加えることが出来る上、精度も十分に保持する。そこで、我々は溶媒中の分子の励起状態を高精度に扱うために、分極の効果を取り入れることが出来る、ThompsonとSchenterによって開発されたQM/MMpol法とComplete Active space Self-consistent Field法(CASSCF)法及びMRMP法を組み合わせた新しい計算手法、及び、プログラムを開発した。

 励起状態の計算で重要な双極子モーメント等の影響を取り込むことが可能なQM/MMpol法と、これまでに気相中における分子の励起エネルギーの高精度計算を実現してきたMRMP法を組み合わせることによって、液相中の分子における励起エネルギーの高精度計算の実現を目指す。

 分子力場的手法にMolecular Dynamics法を用いることにより、系全体の構造を最適化する。そして、この得られた構造を用いて励起エネルギーの計算を行い、溶媒効果を見積もる。新しく開発した計算手法の精度を確認するため、溶媒効果が大きく、計算精度を評価しやすい極性分子のホルムアルデヒドの第一励起状態11A2状態について計算した。溶媒には水分子を用いた(右上図)。そして、55個程度の比較的小さい溶媒モデルを用いても、励起エネルギーにおける溶媒シフト推定値の1900cm-1に近い値を再現でき、新しく開発した手法の有用性を示すことが出来た。

b)モンテカルロ法を用いた様々な溶媒配置を用いた液相分子の励起状態における溶媒効果

 a)では、溶媒分子の配置を最適化してきたが、系が大きくなると、エネルギー勾配の計算など計算量が多大になる。また、溶媒分子の配置は無数に考えられ、最適化した構造はとりうる溶媒配置の可能性の一つに過ぎない。少ない計算量で様々な溶媒配置を考慮し、なおかつ、励起状態を高精度に記述する計算手法の開発が望まれている。そこで、分子力場的手法にMonte Carlo samplingを応用することにより、様々な溶媒配置における励起エネルギーを計算し、その平均値を算出する、新しい手法を開発した。この新しい計算手法を用いることによって、これまで多大な計算量を要した配置の最適化を行う必要がなくなった上、様々な溶媒配置を考慮するため、より信頼できる結果を得ることが可能となった。さらに、それぞれの溶媒配置から得られた結果より、様々な溶媒配置における、溶媒効果の傾向をも調べることができ、溶媒シフトの要因の解明が期待できる。

 本論文では、気相中及び液相中分子における励起状態の高精度計算が実現できた。気相中分子の励起状態を高精度に記述し、さらに、これまでの結果と併せて、π共役分子のπ→π*励起状態の性質について理解を深めることができた。また、液相中分子の励起状態を高精度に記述する新しい計算手法、及び、プログラムを開発し、その有効性を示した。これらは、今後、生体条件下における分子の励起状態を研究する上で、有用なツールとして期待できる。

参考文献

Excited States of the Bacteriochlorophyll b Dimer of Rhodopseudomonas viridis: A QM/MM Study of the Photosynthetic Reaction Center That Includes MM Polarization

fig. Excitation Energy of Polyenes (calculated) and β-Carotene(observed)

fig. The low-lying singlet excited states of polyacenes

fig. Formaldehyde with 55 water molecules

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「分子の励起状態の高精度計算気相から液相へ」と題し、気相、液相中の分子の励起状態を高精度に記述する理論的方法論の開発とその応用に関する研究をまとめたものであり、全4章から構成されている。

 第1章は序論であり、研究の背景および研究目的が述べられている。

 第2章は気相中のπ共役分子である鎖状ポリエンのカチオン、ジカチオン分子におけるπ→π*励起状態およびアントラセン、ナフタセンのポリアセン分子におけるπ→π*励起状態の理論的研究である。π共役分子にはレチナール、カロチン、ポルフィリンなど、光反応で重要な役割を果たす分子が多く、π→π*励起状態の研究は光反応機構を解明する上で不可欠である。このためπ共役分子の基本型であるポリエン、ポリアセンは実験的にも理論的にも注目を集め、数多くの研究が行われてきた。しかし理論的研究のほとんどは半経験的分子軌道法に基づくもので高精度のab initio分子軌道法による研究は少ない。アントラセン以上の大きさの分子についての理論計算はほとんどなされていないのが現状である。本研究では定量的な多配置摂動法、Multireference Moller Plesset(MRMP)法を利用して鎖状ポリエンやポリアセンなどのπ共役分子のπ→π*励起状態を高精度に記述することに成功している。鎖状ポリエン(ブタジエン、ヘキサトリエン、オクタテトラエン、デカペンタエン)のカチオンとジカチオンのπ→π・励起状態を約0.1eV以内の誤差で予測し、鎖状ポリエンの励起状態における電子状態、その性質を詳細に解析するとともにカロチンの電子状態を予測している。特にジカチオンの第一励起状態はカチオンの吸収強度の強い励起状態よりは高エネルギー側に存在し、中性分子の遷移許容の第一励起状態より低エネルギー側に存在するという実験結果を支持している。

 ポリアセンのπ→π*励起状態の研究ではベンゼンからナフタセンまでの計算結果を詳細に解析し、ポリアセン励起状態の一般的傾向について議論している。アントラセンのでは0.15eV以内、ナフタセンでは0.25eV以内の誤差で実験的に同定されている励起エネルギーを再現し、同時にこれまで不明であったスペクトルについても理論計算からその遷移を帰属している。また議論のあるポリアセンの第1、第2一重項励起状態はアントラセンとナフタセンの間で入れ替わるのに対して、三重項励起状態においては状態の逆転は起こらな、いと予測している。本研究は一般のポリアセン分子の励起状態を理解するための指針を与えたものである。

 第3章では溶液中の分子の励起状態の理論研究をまとめたものである。生体中の光反応はレチナールなどの生体分子が溶媒中に存在する。理論化学の課題の1つは溶液中での分子の励起状態を高精度に記述する計算手法の開発である。本研究では新しいQuantum Mechanics/Molecular Mechanics(QM/MM)法を開発し、この課題に挑戦している。QM/MM法は高精度のab initio分子軌道法を溶質分子に適用し、溶媒分子を計算量の少ない分子力場的手法で取り扱う方法である。これまでの連続体モデルなどよりははるかに高精度であり、結合の形成・切断などもよく記述することができる。本研究では溶媒中の分子の励起状態を高精度に扱うために、分極の効果を取り入れることが出来るQM/MMpol法とComplete Active Space Self-consistent Field法(CASSCF)法及びMRMP法を組み合わせた新しい計算手法とプログラムを開発している。この新しい手法を用いて、水溶媒中のホルムアルデヒドの第一励起状態11A2状態のBlue Shift(溶媒による長波長シフト)を計算している。まず系全体の最安定構造を計算し、この最適構造による励起エネルギーの計算から溶媒効果、Blue Shiftを見積もっている。55個程度の比較的小さい溶媒モデルを用いても、励起エネルギーにおける溶媒シフト推定値の1900cm-1に近い値を再現でき、新しく開発した手法の有用性を示している。また水溶液中では基底状態が励起状態よりも安定化し、これがBlue Shiftの要因であることを明らかにしている。次にモンテカルロ法を用いてさまざまな溶媒配置における溶質分子の励起状態を計算し、その平均値を算出する方法で溶媒効果を見積もっている。溶媒である水クラスターのサイズを変更しても第1水和圏の形成には大きな差が無く、水溶液中のホルムアルデヒドの第1水和圏はO(ホルムアルデヒド)-O(水)間距、2.65Åに2.6個の水分子があること、励起エネルギーのBlue Shiftはほとんど第1水和圏に水分子の影響によるものであることを明らかにしている。この新しい計算手法を用いることによって、これまで多大な計算量を要した配置の最適化を行う必要がなくなり、より信頼できる結果を得ることが可能となった。さらにさまざまな溶媒配置における、溶媒効果の傾向をも調べることができ、溶媒シフトの要因の解明が期待できる。

 以上のように、本論文は気相、液相中の分子の励起状態に対する新しい方法論の開発と応用研究を通じ、励起状態の化学に新しい知見を提供したものであり、高く評価される。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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