学位論文要旨



No 117493
著者(漢字) 芳賀,京子
著者(英字)
著者(カナ) ハガ,キョウコ
標題(和) ロドス島の古代彫刻に関する研究
標題(洋)
報告番号 117493
報告番号 甲17493
学位授与日 2002.05.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第357号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 青柳,正規
 東京大学 教授 片山,英男
 東京大学 教授 小佐野,重利
 東京大学 教授 本村,凌二
 宝塚造形芸術大学 教授 関,隆志
内容要旨 要旨を表示する

 古代ローマ時代の古文献史料には、口ドス島の彫刻および彫刻家の名がしばしば言及されている。紀元前4世紀後半にはリュシッポスが、彼の最も素晴らしい作品である『太陽神の四頭立て馬車』をロドス人たちのために制作した。リュシッポスの弟子であるロドス島リンドス出身のカレスは、後に世界七不思議のひとつにも数えられることになる雲を突くような巨像『コロッソス』を建設した。そのほかにも数多くの大彫刻がこの島には満ちており、紀元後1世紀においてもなお、3000体以上の彫像が都市ロドスを飾っていたという。またプリニウスは、3人のロドス人彫刻家の手になる『ラオコーン群像』を「絵画であろうがブロンズ彫刻であろうが、ほかのどのような作品よりも勝っている」と絶賛し、特にその「ひとつの石から」像を彫り出す技術に驚嘆している。こうしてロドスは、たぐいまれな技術を有した彫刻制作の中心地として、後世の人々の脳裏に刻み込まれる。

 古文献の中でのロドス彫刻があまりに輝かしい扱いを受けているがゆえに、研究者たちの中にはロドスがヘレニズムの彫刻の発展において指導的役割を果たしたと考える者もいた。ロドス島の出身者であるカレスは、当時ギリシア世界で最も優れた彫刻家であったリュシッポスを師とし、紀元前4世紀の末に世界的に有名な作品を制作した。それゆえ、リュシッポスのロドスにおける活動によって彫刻制作技術が島に導入され、ここに「ロドス派」と呼ぶべき彫刻流派が形成された、そう彼らは考える。ある者は、紀元前4世紀末の『アレクサンドロスの石棺』をロドス派彫刻家に帰した。彼らによれば、ヘレニズム時代にロドスは周辺諸国に先駆けて高い彫刻技術を獲得し、「ロドス派」と呼ぶべき彫刻家の流派を形成していたことになる。

 この「ロドス派」の彫刻の様式上の特徴を明らかにしようと、ラウレンツィは幾つもの彫刻作品を採り上げて検討を加える(Luciano Laurenzi,《Sculture di scuola rodia dell'ellenismo tardo.》In:Studi in onore di Aristide Calderini e Roberto Paribeni,Bd.3,Milano 1956,pp.183-189:id.《Problemi della scultura ellenistica.La scultura rodia.》Rivista del R.Istituto d'Archeologia e Storia dell'Arte 8(1940)pp.25-44)。だがその際彼は、ロドス島と同じドデカネソス諸島に属しているコス島の彫刻、さらにはイタリア国内にあってロドス島やコス島からの出土品と類似する彫刻をも、同列に「ロドス派」の彫刻作品として扱った。しかし実際は、ヘレニズム時代、コス島はロドス島に政治的に従属してはおらず、ニシュロス、テロス、シュメ、カルケ、カルパトスなどの古代においてロドス領であった島々、あるいは大陸のロドス領であったペライアと呼ばれる地域と同じように考えるわけにはいかない。ラウレンツィが無批判にロドスとコスの彫刻を同列に扱ったのは、古代の政治状況ではなく、彼の時代の政治地図が原因である。第二次世界大戦前、ドデカネソス諸島はイタリアの支配下にあり、ラウレンツィはロドスおよびコスの発掘責任者を兼ねていた。かくしていつの間にか、マニエリズム様式、真実主義の熟達した技術、古典主義への回帰、という特色のうちのいずれかを満たしているヘレニズム後期の作品には、無秩序に「ロドス派」のレッテルが張られるに到る。

 その一方で、近年の考古学資料を最重視するアメリカやデンマークの研究者たちは、まったく異なるロドスの姿を提示する。ロドスは小アジア沿岸一帯を含む文化圏の中に位置しているが、その彫刻は同じ文化圏内の彫刻から特に傑出しているわけではない。ロドスを特別視する根拠は何もない。ロドスの彫刻工房は、小アジア沿岸文化圏の中の一工房にすぎない。イサゲルは、ロドス派という彫刻流派はそもそも存在しなかった、と断言する(Jacob Isager,《The Lack of Evidence for a Rhodian School.》RM102(1995)pp.115-131)。またマトゥッシュは、ロドスに存在していたのはひとつの流派でも様式でもなく、むしろ彫刻製造業であった、と述べる(Carol C.Mattusch,《Rhodian Sculpture:A School,A Style,or Many Workshops?》In:Regional Schools,pp.149-156,esp.p.156)。どちらも、ロドスにおける彫刻活動の一側面を言い当ててはいる。しかし、すべてではない。

 極端に走ったこうした意見に対し、マケーラはロドスが生み出したとする彫像タイプ、あるいは彫像カテゴリーを幾つか挙げ、「ロドス派」の根拠としようとする。だが彼女が挙げたアフロディテやニンフは、ロドスで生み出されたタイプでもなければ、ロドスでのみ制作されたわけでもない。

 ここでまずはっきりさせておかねばならないのは、ヘレニズムという国際化された社会における「流派」という言葉の意味である。もしこれが、ひとつの国あるいは地域の中にのみ特別に認められる技術的、様式的、あるいは彫像タイプ上の特徴を意味するというのならば、ヘレニズム世界にそもそも独立した流派など存在し得ない。

 「ロドス派」という単語にためらいを覚える研究者も、「ペルガモン派」という語は用いることが多い。通常「ペルガモン派」という呼称は、ペルガモン人の彫刻家ではなく、紀元前3世紀末から2世紀にペルガモンでモニュメントの制作に携わった彫刻家たちを指す。だが彼らは、ギリシア世界の様々な地域出身の彫刻家たちの寄せ集めであり、ひとつの流派を形成していたとは言い難い。なるほどこの時期のペルガモン出土の作品群は、激しい動感に満ち、筋肉表現は誇張され、大胆でモニュメンタルな構成を示す、というわかりやすい特徴を有する。だがそれらは、ひとつには注文主の嗜好、もうひとつには盛期ヘレニズムという時代によって規定されている部分が大きく、彫刻家たち自身の流派がどれほど関係していたかは疑問である。

 また「ネオ・アッティカ派」という用語は、ヘレニズム後期において生産された擬アルカイック、擬クラシック様式の作品を指すのに用いられるが、こうした過去の様式の模倣はアッティカ以外の地でもおこなわれている。このジャンルの彫刻、特に浮彫においては、モチーフは固定化し、限られたレパートリーが繰り返された。そのため、どのような彫刻家にとっても「ネオ・アッティカ様式」の浮彫の制作は容易であった。ならば、「ネオ・アッティカ」とは様式名ではなく、ヘレニズム末期にアッティカで生産された、という事実によってのみ、他の地域の擬アルカイックや擬クラシックから区別されることになる。

 ならば、ロドス島から出土する彫刻群が周辺地域と異なる様式上の特徴を有していながらたからといって、ロドスが芸術上の中心地であったことを否定するイザゲルの論法は、いささか乱暴にすぎる。

 現代世界を例にとって考えてみよう。個々の芸術家たちは国外で修養を積むこともあり、国外で活動を続けることもある。国としての様式などはもはや存在しない。それでも、いくつかの都市、いくつかの国は、芸術の中心地として人々を集め、そこには画商、顧客、芸術家を含めて、ひとつの「美術界」とでも呼ぶべきサークルが形成されている。たとえ様式上の接点は無くとも、そこにはひとつの共通した興味、共通した嗜好、共通した美意識といったものが存在し、集まる人々はそうした目に見えない枠組みの中にはまりこんでいる。

 もし、ロドスの彫刻を他の国、他の地方の彫刻から区別できるならば、その枠組みを定義していたものは何だったのか。ロドスの彫刻は一体どのような総体を形成していたのであろうか。

 当博士論文の目的は、ロドス島の彫刻に共通する様式を追求することでもなければ、小アジア沿岸部と近隣諸島という地域の様式の中にロドスの彫刻を埋没させることでもない。彫刻の復元や様式論にばかり拘泥することなく、ロドスの彫刻がどのような要因によってどのようなまとまりを形成し、それが古代の人々によってどのように捉えられていたか、これを探ることにある。そのためには、ロドス出土の彫刻、ロドス外から出土したがロドスにおいて制作されたと確定できる彫刻群の調査のほかに、ロドスの彫刻について記した古文献の記述およびロドス人彫刻家の名を刻んだ一連の碑文、これらのすべて局面における検討が必要となる。よって本論では、第1章から第3章で彫刻作品の研究を、第4章と第5章で彫刻家を研究する。

 まず第1章で古文献がしるすロドス島に存在していた名高い彫刻を扱い、第2章では碑文や古文献などによって作者の名前が知られているロドス人彫刻家の作品に考察を加える。第3章は、作者の名が知られていない、ロドス島からの出土作品の検討である。このように多方面から「ロドス島の彫刻」に光をあて、ロドス島での外国人の作品、ロドス島でのロドス人の作品、島外でのロドス人の作品の区別を試みることで、ロドス島に形成されていた彫刻工房の特色とその変遷を追う。

 彫刻作品から推定されるこうしたロドス島の彫刻活動状況は、碑文に残された有名、無名の彫刻家たちの制作活動の跡によって確認することが出来る。第4章ではロドスで活躍した外国人彫刻家を、第5章ではロドス人彫刻家を扱うが、それを通して、外国人とロドス人という区分の流動性を示す。

 そして最後に、ロドスの歴史を概観し、その中に論文によって得られた事実を位置づけ、ロドスの彫刻という総体がどのように形成され、発展し、衰退したか、その変遷をたどる。これにより、ロドスの彫刻というひとつのまとまりをつくりあげた様々な要因が明らかとなろう。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、プリニウスをはじめとする古代の著作家がしばしば言及するロドス島の彫刻および彫刻家に関して、文献、碑文、彫刻などの資料に基づいてその実像を解明することを目的としている。ことに19世紀以来、『ラオコーン群像』などの考察からロドス派と称すべき彫刻流派の存在を主張する研究者に対して、そのような特質を有する彫刻流派をロドス島の彫刻および彫刻家には認められないとする近年の説との顕著な対比を、一次資料の網羅的な調査から再検討することにある。

 このため、第1章<固文献のしるすロドス島に存在していた彫刻作品>でリュシッポス作『太陽神』、カレス作『コロッソス』等を精査し、第2章<ロドス人彫刻家の作品>ではピュトクリトスらの彫刻家の活動を詳細にたどる。第3章<ロドス島から出士した彫刻>ではブロンズ、大理石、石灰岩など異なる材質ごとの彫刻を検討すると同時に、肖像や擬アルカイック様式の彫刻に検討を加える。第4章の<ロドス島で活躍した外国人芸術家>ではロドス島の経済的繁栄に魅せられて渡来した彫刻家をクラシック時代からヘレニズム時代まで、碑文を中心に新たな研究成果を提示している。第5章の<ロドス島彫刻家>では島に代々続いたアリストニダス一族やローマに移住したロドス人彫刻家の変遷を解明している。

 以上の考察によって著者は、ロドス島におけるきわめて複雑な彫刻活動の推移を解明し、ロドス派と呼ぶべき彫刻流派が存在したことを否定すると同時に、紀元前4世紀から始まる経済的繁栄のなかでリュシッポスをはじめとする巨匠が渡来し、彼らの影響を受けながら紀元前200年頃から良質の彫刻が多数制作されたことを証明することに成功している。このきわめて困難な課題を研究するに当たり、碑文等の資料を徹底的に収集しており、そのような網羅的資料収集が困難な課題を解明する基礎となっている。

 膨大な資料を用いるため論文全体としての論旨に明快さを欠くきらいはあるが、研究対象が内包する複雑さの故であることを考慮すれば、ヘレニズム彫刻史研究に新たな貢献を果たす論文と位置づけることが可能である。よって、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位を授与するに値すると判定する。

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