学位論文要旨



No 117496
著者(漢字) ミッシェル,ゴチエ
著者(英字) Michel,Gauthier
著者(カナ) ミッシェル,ゴチエ
標題(和) 非接触原子間力顕微鏡の理論 : 探針制御の動力学から原子スケール散逸まで
標題(洋) Theoretical Study of Noncontact Atomic Force Microscopy : From Operation to Atomic Scale Dissipation
報告番号 117496
報告番号 甲17496
学位授与日 2002.05.31
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4234号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 長谷川,修司
 東京大学 教授 青木,秀夫
 東京大学 助教授 常行,真司
 東京大学 助教授 福山,寛
 東京大学 教授 樽茶,清悟
 東京大学 教授 岩澤,康裕
内容要旨 要旨を表示する

 非接触原子間力顕微鏡(NC-AFM)は、金属から絶縁体まで多様な表面を原子分解能で画像化できるため、ここ数年来大きな注目を集めてきた。NC-AFMには、探針先端の原子と試料表面原子の間の共有結合力を、正確に測定する能力があることが実証されている。NC-AFMの探針は試料近傍で振動するカンチレバーに取り付けられており、最接近時の探針-試料間の典型的な距離は数オングストロームで、走査トンネル顕微鏡(STM)で使われる距離よりかなり近い。探針原子と試料原子との相互作用のために、カンチレバーの自然共鳴周波数はわずかにシフトし、この周波数シフトがちょうどSTMにおけるトンネル電流と同じように、調節信号として働く。さらに、カンチレバーの振幅を一定に保つために必要とされるエネルギーもまた、原子分解能で表面を画像化するのに用いることができる。

 探針が非線形な相互作用場の中で振動し、その振幅、周波数、探針-試料間の距離が互いに連携したフィードバック回路系ですべて動的に調整されるために、NC-AFMは一つの複雑系の様相を示す。探針と試料表面の相互作用の変化に応じて、振動を制御するパラメータを瞬間的に調節することはできない。また、探針の形状や組成は実験的にもわからないために、探針振動の解析はさらに困難である。そこでNC-AFMの基礎を理解するためには、回路系と連携したカンチレバーの運動方程式を解析し、観測量に直接関係するカンチレバーの運動を明確に理解することが重要である。しかし、摂動論を用いて周波数シフトと利得を単純な式で表現する従来のNC-AFMの理論では、複雑系としてNC-AFM振動の全貌を記述していない。申請者は本研究において、このような摂動論を越える理論を構築し、電子的フィードバック系と非線型力学系を同時に扱う数値シミュレーション法を開発し、その実行によりさまざまな重要な知見を得た。特に、これまで実験で観測されながらその起源が謎であった、像の反転、像の空間的なずれ、探針の構造の変化に対する減衰信号の異常なまでの敏感性を説明することに成功し、さらに、新しい原子散逸顕微鏡の可能性を提示した。

 今日までに提唱されているNC-AFMの制御についての解析は、次のような理由から満足のいくものでない。まず、相互作用が非線形であるにもかかわらず、どのような条件の下でカンチレバーの運動が線形化されるのかが明確でなく、もっとも顕著な非線形効果である不安定性についてすら、十分な議論がなされていない。また、何らかの自律的あるいは非自律的な遅延効果がフィードバック回路系とカンチレバー振動を複合した系に存在するのかどうかについても、検討されていない。電子回路系について注意深いモデル化を要する一定周波数シフト方式の数値シミュレーションはこれまでに報告がなく、走査速度と系の有限時間応答が与えるNC-AFMの観測量への影響は理解されていなかった。さらに、カンチレバーの共鳴周波数シフトが、カンチレバー振動の一周期の間の探針-試料間の相互作用のある種の荷重平均であることは広く受け入れられているが、減衰信号が原子分解能を持つ機構についてはほとんど理解されていない。そのため、真の原子スケール散逸、とくに、減衰信号が試料の局所的な性質の測定に使えるのかどうかを理解することが重要であり、本研究ではそのための理論的枠組みを提示した。

 本学位論文では、まず、カンチレバー運動の記述に用いられてきたいくつかの摂動的方法の限界について考察する。・これらの手法はすべて同じ仮定(以下、定常状態近似)に基づいている。すなわち、探針-試料間の相互作用が、カンチレバーの復元力に比べて弱く、カンチレバーの運動が厳密に単振動であると仮定している。カンチレバー運動方程式の解はいくつかの分枝を持つが、定常状態近似では振幅調整器の応答が厳密に瞬間的でない限り、一部の解が不安定であると予言される。このため、解の多価性がNC-AFMの測定量に、大きく影響すると想像される。そこで本研究では、これまでの摂動論的アプローチの限界を超えて、NC-AFMにおける相互作用の非線形性の果たす役割を理解し、上述の様々な問題を解明することを目指した。このため、電子回路系のモデル化に特段の注意を払って、弱い非線形相互作用場におけるカンチレバーの運動を数値シミュレーションし、以下に述べるようないくつかの新しい発見に至った。第一に、系全体の応答は、カンチレバーの運動を安定化させるのに十分高速であることが確認できた。よって、解の多価性はNC-AFMにおける測定量に影響を及ぼさないと考えられる。しかし、系の応答時間が有限であるために解は条件付きで安定であり、探針の衝突などの激しい不安定性がいくつかの事例で認められた。一方、カンチレバーの共鳴周波数のシフトは、摂動論で予言された値に十分近かった。さらに、探針-試料間の距離の精度が〜0.01Aより高くない限り、電子回路系と非線形な力場の微弱な結合のために、カンチレバー振動を制御するために必要なエネルギーが大きな影響を受ける。数値シミュレーションで見出した重要な事実は、系の有限時間での応答と走査速度のあいだの微妙な相互関係によって、定周波数シフト走査におけるトポグラフと減衰像の間のずれやコントラストの反転を簡潔明瞭に説明できるということである(図1)。この理論は探針の構造変化に対する減衰信号の鋭敏な依存性にたいしても、適切な説明を与えた。

 本論文の後半では、構造的には可逆な原子尺度の散逸機構を提案した。このような散逸の性質は実験で観測されているものである。まず、探針を表面原子と相互作用するブラウン運動粒子として扱う。そして表面原子の確率的な運動がその近くにある探針にランダムに小さな力を及ぼす。この描像は古典的なブラウン運動系、たとえば、液体中のコロイド粒子や希薄な気体の中にぶら下げられた小さな鏡と類似しており、マルコフ極限では揺動散逸定理の特殊な形式を回復する。散逸は低周波数極限でのフォノンの局所状態密度(LDOS)と関係し、距離xに依存する散逸係数は次のように表せることが示された。

 ここで、Fは力、κはカンチレバーのバネ定数、ω0はカンチレバーの自然共鳴周波数である。式(1)は散逸が周波数ωがゼロの極限でのフォノンのLDOSの曲率に比例し、試料原子の質量mに反比例することを表している。これはSTMに関するTersoff-Hamannの式と完全に対応している。この散逸機構に特徴的なことは、表面の質量に敏感な解析や表面第二層以下の画像化への応用の可能性があることである。この二つを実現することは走査プローブ顕微鏡において非常に期待されている課題である。

 この機構で散逸するエネルギーの大きさは、当初、実験と比較してかなり小さなものになると評価したが、最近の研究で、この効果は表面の局所モードにより大きくなり得ることが示されている。いずれにしても、この提案はNC-AFMの将来の発展において重要な役割を果たすことが期待される。

図1:ステップのある簡単な表面での散逸像とトポグラフ。

散逸像のコントラストは走査速度によってトポグラフとほぼ同じ(α=50.47A/sec)であったり、反転(α=55.93A/sec)したりする。走査速度は散逸の波形に影響を与えるが、距離の波形には本質的には影響を与えない。本文中で述べるように、波の大きさはいくつかの実験と良く一致する。

図2:表面の質量に敏感な解析。

(a)塩化ナトリウムの構造。この表面を画像化するのに距離を用いると全原子が同じように見える。(b)一方、確率的な散逸によると原子種を特定することができる(単位は×10-2)。この像は一定周波数シフト走査をおこなって、散逸の相対的変化�僊d/A0dを測定したものである。

図3:表面第二層の画像化。

(a)表面第二層に5つの欠陥をもつ単純立方格子の模型。距離を測定しても、埋め込まれた欠陥はほとんど検知できない。(b)しかし、散逸の信号はその位置を明らかにできる(単位は×10-2)。欠陥が近傍にあることが像のコントラストに影響を与えることに注目。この像は一定周波数シフト走査をおこなって、相対的な散逸�僊d/A0dを測定したものである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、非接触原子間力顕微鏡(Atomic Force Microscopy, AFM)の動作原理について理論的に明らかにした研究である。つまり、AFM探針と試料表面との間の相互作用および制御回路系全体を非線形動力学複雑系として捉え、従来の摂動論を越える理論を構築し、それによる数値シミュレーション法を開発して、従来理論では理解できなかったいくつかの現象を明らかにすることに成功した。また、AFM測定中に起こる構造的に可逆な原子尺度のエネルギー散逸機構を解明し、逆にこれを利用してAFM測定の新しい可能性を理論的に予言した。これらの研究成果によって、AFMの基本原理の理解が飛躍的に進み、原子尺度・ナノメータスケール科学の研究にとっても重要な知見を与える研究となっている。

 本論文は四つの章から構成されている。第1章では本研究の背景、特に、AFMの基礎的事項と従来の理論について概観し、その中から生まれた問題意識および本研究の目的が述べられている。第2章では、AFMの動作理論について、従来の摂動論の詳細及びその限界が記述され、その後、論文提出者が考案した新しい理論の定式化が詳述されている。さらに、その理論をもとに数値シミュレーションを行い、それによって実験で観測されている現象およびAFMの動作原理の詳細が明らかにされている。第3章では、AFM測定中に起こるエネルギー散逸について、探針をブラウン運動する粒子、試料表面原子をそれとランダムに相互作用する粒子と考えて新しいモデルを提出した。そのモデルから、試料表面のフォノンの局所状態密度の観測の可能性、およびそれを利用して、観察原子の質量の判別、最表面より内部に存在する欠陥の検出の可能性などを予言した。最後に、第4章において本論文で明らかにされた結果、その意義、および今後の研究の展望をまとめている。

 最近の表面物理の分野での研究の進展は目覚しく、それは原子スケールで観察・測定が可能な各種実験手法の進歩に負うところが大きい。その中で、本研究のテーマである原子間力顕微鏡(AFM)は、導電体だけでなく絶縁体試料の表面構造を原子レベルで観察・加工できる実験手法として、幅広い分野で利用されている。しかし、その動作原理は必ずしも十分明らかになっているとは言い難い状態であった。特に、何故、原子分解能が得られるのか、何故AFMが安定に動作するのか、というもっとも基本的なことさえ、理論的に十分解明されていなかった。本論文は、AFMに関し、そのような本質的な事項を極めて明快に説明する理論を構築したものである。

 本研究の成果は大きく分けて二つある。

(1)非接触AFMの非線形動力学的複雑系としての理解・記述

 従来は無視されていたAFM制御回路系のモデル化を注意深く行い、探針と試料表面との相互作用も取り入れたAFMシステム全体を記述するモデルを構築し、さらに、それに基づく数値シミュレーションを実際に行った。その結果、AFMが安定に動作する理由が解明されるとともに、系の応答時間が有限であることによって動作が不安定になる条件も見出された。また、実験で観測されながらその起源が謎だったいくつかの現象(トポグラフ像と散逸像との間のコントラストの反転やずれ、探針構造の変化に対して散逸像だけが敏感に変化することなど)に対して適切な説明を与えることができた。

(2)原子尺度のエネルギー散逸機構の解明

 AFM動作中でのエネルギー散逸機構および、何故原子尺度でエネルギー散逸が変化して原子分解能の散逸像が得られるのか、という基本的な問題に対して、従来提出されていた理論は不完全なものだった。そこで、申請者は、ブラウン運動のモデル化から新しい理論を提出した。つまり、AFM探針をブラウン運動する粒子とみたて、格子振動している試料表面の原子をそのブラウン運動粒子にランダムに相互作用する粒子と考える。そうすると観測される散逸像は、フォノンの局所状態密度の分布を表わしている、という極めて根本的で重要な結論に到達した。逆にこの事実を利用すれば、表面原子の質量に敏感な解析や表面第二原子層以下の画像化が可能になる、という事実を予言し、実際数値シミュレーションでそれらを示した。これらの予言はまだ実験で観測されていないが、AFMの新しい可能性を示唆する重要な結論であり、当該分野で高く評価されている。

 以上のように、論文提出者は、非接触原子間力顕微鏡について理論的に詳細に研究し、その動作の根本原理に関わる重要な知見を得た。このように本研究は、最先端の実験技術に関して様々な理論手法を駆使して初めてなされたものであり、その独創性が認められたため、博士(理学)の学位論文として十分の内容をもつものと認定し、審査員全員で合格と判定した。なお、本論文は、共同研究者らとの共同研究であるが、論文提出者が主体となって理論の構築、数値シミュレーションおよび解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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