学位論文要旨



No 117498
著者(漢字) 金,秀姫
著者(英字)
著者(カナ) キム,スヒ
標題(和) 源氏物語論 : 「感覚」と「言葉」
標題(洋)
報告番号 117498
報告番号 甲17498
学位授与日 2002.06.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第358号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 助教授 藤原,克巳
 東京大学 助教授 渡部,泰明
 東京大学 助教授 月本,雅幸
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、大きく(I)と(II)に分けられ、(1)では、『万葉集』から『源氏物語』に至る嗅覚表現を検討し、(II)では、『源氏物語』における聴覚表現と視覚表現について考察した。まず、(I)の「嗅覚表現の文学史的展望」では、『万葉集』から『古今集』『源氏物語』に至る文学史の流れを射程に入れて、それぞれの作品において、嗅覚表現がどのような様相を見せているのかを検討した。

 第一章の「『万葉集』の嗅覚表現」では、「にほふ」「香」「かぐはし」「かをる」などの用例に検討し、『万葉集』の嗅覚表現、及び『万葉集』における「感覚」の問題について考えてみた。まず、『万葉集』の「にほふ」の場合は、従来、「色彩」を表わす視覚的な表現から嗅覚の意味へと転じて用いられた言葉と理解されてきたが、「紫のにほへる妹」などの表現や、大伴家持以前の比較的古い時代の用例から、視覚や嗅覚を越えた、全感覚的な言葉として出発した語であることが確認された。『万葉集』においては、視覚があらゆる感覚を統括し、それぞれの感覚が固有のものとして把握されていなかったのである。但し、万葉後期の歌人である大伴家持に至ると、純粋に視覚や嗅覚の意味として捉えられる用例が多く見られる。第二節の「『万葉集』の「香」「かぐはし」「かをる」」では、『万葉集』におけるそれぞれの用例、及び、場合によっては、その他の上代文献を参考にしながら、上代における芳香表現が、純粋な意味での嗅覚的用法というより、より精神的・全感覚的な用例が多かったことを確認してみた。「にほふ」の検討においても確認されたことであるが、上代においては、感覚そのものが、細分化されないまま機能していためである。これは一般的に言われているように、単に、古代においては嗅覚的な表現が貧弱であった、ということだけを意味するものではない。同じく視覚的な用法と言っても、あらゆる感覚を統括する視覚と、諸感覚からすくい上げられた形で機能する後世の視覚とは、明らかに位相を異にしているからである。従って、上代においては、嗅覚のみならず、視覚も、後世のそれとは異質的なものである生言わざるを得ないのである。

 以上のように、『万葉集』の嗅覚表現は、視覚表現と深く関わり、場合によっては、視覚表現に奉仕するものとして機能したが、『古今集』になると、視覚を切り捨てた形で、純粋に嗅覚的な意味として用いられるものが多くなる。第二章第一節の「『古今集』の「にほふ」と「香」」では、「にほふ」と「香」の用例を通して、『古今集』になって芳香表現が飛躍的に増加したこと、なおかつ、その内容においても、『万葉集』の場合とは違って、嗅覚が固有の表現として自立していることを確認した。『古今集』によってはじめて、五感が独立する、新たな「感覚」の世界が切り開かれたのである。これは、『万葉集』と『古今集』との歌風の変質を浮き彫りにしているのみならず、『古今集』以降の『後撰集』や『拾遺集』などとの比較検討からも明らかになったように、いわゆる『古今集』的な表現の特質とも深く関わるものである。第二章第二節の「『古今集』の「梅」の香」では、『古今集』の「梅の香」の用例に見られる様々な点から、嗅覚表現がいわゆる『古今集』的な表現の特質とどのように関わっているかを考察してみた。例えば、『古今集』によって達成された「非在の梅」、すなわち「不在の景物を歌う表現」は、「観念的な思考」を要とする『古今集』の典型的な表現であると言えようが、『古今集』の性格の一部をそこに認めるならば、ものの香を詠じることは、まさにそのような古今集的表現を成り立たせるための恰好の素材であったと思われる。ちなみに、このような嗅覚表現には「漢詩文の影響」が著しく窺えるが、それと同時に、平安初期以来発達した薫物の流行も視野に入れるべきで、第二章第三節では、「袖の香」をキーワードにして、『古今集』の嗅覚表現における「薫物」の影響を考えてみた。そして、「袖の香」を詠んだ歌には、人事的・情緒的・恋愛情調的な性格が濃厚な用例が多いこと、なお、『古今集』が開拓した「袖の香」の斬新性は、『後撰集』や『拾遺集』の和歌の世界ではなく、新しく誕生した物語というジャンル、特に『源氏物語』において有効に機能することから、『古今集』の芳香表現が持つ先端性・斬新性の真の継承者は、『源氏物語』に他ならないと捉えた。

 というのも、『源氏物語』には、実に様々な香りが登場し、なおかつ、奥行き深い表現として機能しているからである。まず、第三章第一節の「空蝉物語の「いとなつかしき人香」考-『古今集』との表現的関連について-」に見られる「香」は、人柄の表象として用いられたもので、上代文学に見られる古代的な発想の「香」と、『古今集』時代になって和歌の中に本格的に登場する純粋な意味での「香」が、両方から意識されている例である。一方、『源氏物語』の嗅覚表現は、光源氏没後の、「闇」の世界を語る続編において顕著に窺える。例えば、第三章第二節の「浮舟物語における嗅覚表現-『袖ふれし人」をめぐって-」は、回想の場面において嗅覚表現が如何に有効であったかを如実に見せている。言語化が困難な「身体的な感覚」としての嗅覚が、その独特な性質によって、尼になった浮舟の内面を掘り下げているのである。ちなみに、これは、もともと、古注以来見解が分かれていた「袖ふれし人」の問題について、嗅覚表現を手がかりに匂宮説の可能性を探ろうとしたものであった。第三章第三節の「「匂ふ兵部卿・薫る中将」考」も、「闇」の世界に漂う香りと関わっているが、というのも、「薫」と「匂宮」という、嗅覚的な名称の問題について考察したものだからである。そもそも、光源氏没後の世界を語り始める匂宮三帖には、新しい主人公として登場する薫と匂宮との対照的な設定が随所に見られるが、その端的な一例として、二人の芳香の問題が挙げられるのである。天性の体香を備えたと紹介される薫が、それに挑み、人工の「香」で対抗する匂宮とともに「匂ふ兵部卿、薫る中将」と讃えられているわけであるが、両者の芳香の違いがどうして「にほふ」と「かをる」という言葉によって象徴されているのかを、上代文献や『源氏物語』のその他の用例を通して考えてみた。そして、「にほふ」と「かをる」の様々な意味から、両者の対偶性を考えた上で、あえて図式化を試みるならば、その一つとして「今」と「過去」との対比が考えられるとし、そこから、薫・匂宮それぞれの人物像について考えてみた。これらの他にも、『源氏物語』には枚挙にいとまのないほど様々な香りが登場するが、第三章第四節「『源氏物語』の香りの諸相」では、それらの中でも、代表的なものとして、六条御息所における「芥子の香」と、薫の天性の「芳香」の問題など、二点について考えてみた。六条御息所を苦しめる「芥子の香」が、芳香ならぬ、「一種魔術的な形相を持っている」ものとするならば、「香のかうばしさぞ、この世の匂ひならず」(匂官(4)二六)とされる、薫の天性の「芳香」は、仏教的な意味合いが深くこめられた「神聖な香り」で、明らかに異質のものだからである。以上のように、『万葉集』から『古今集』『源氏物語』に至る芳香表現は、それぞれ異なる様相を見せつつ、それぞれが抱えている「感覚」の問題を浮き彫りにしながら、展開していく。

 『万葉集』『古今集』『源氏物語』の嗅覚表現を中心として感覚の問題を考えた(I)から視点を変え、(II)の「五感をめぐる『源氏物語論』」では『源氏物語』を中心に、「聴覚」と「視覚」の問題について考えてみた。まず、第一章の「『源氏物語』における聴覚表現」では、かつて石田穣二氏が『源氏物語』の文体の特質として提示した「聴覚的印象」という捉え方を踏まえ、聴覚的印象を通して、具体的・立体的に臨場感溢れる視覚的な世界が再現されることを確認してみた。そして、そのような場面描写が、登場人物・作者・読者の、それぞれの「感覚の共有」を前提にしている点に注目し、屏風歌の表現との関連性について考えてみたのである。というのは、画中人物に身を移して、創作・享受される「屏風歌」は、屏風歌が織りなす「小宇宙への参入感」が何よりも重要で、物語における「感覚の共有」の問題と相通じる面があると思われたからである。しかも、両方とも「視覚的なもの」を表現の起点にしていて、『源氏物語』の聴覚表現は「視覚表現を抜きにしては考えられない一面を持っていたのである。第二章の「『源氏物語』における視覚表現」では、源氏の「須磨」の住居が、漢詩の一句を絵画的な構図として文章化したものであったこと、なお、「東屋」の名高い場面から、『源氏物語』には、実際の様々な絵画が取りあげられる他、「絵画的なもの」の想像力に支えられる場面が多く存在することを確認した。そして東屋巻の場面が喚起する「絵を伴った物語の享受」という観点が、耳の感覚による「聴覚」の問題、絵を伴った「視覚」の問題と関わり、物語の世界を立体的・感覚的な次元に還元している点に注目し、但し、そこに見られた「視覚」というのは、『万葉集』の表現にしばしば見られるような、諸感覚を統合する意味での「視覚」ではなく、より純化された、五感の一つとしての個別的な感覚としてのそれであったことを、『万葉集』の「見れど飽かぬかも」と『源氏物語』の「目とまる」の間に見られる異質性を通して確認してみた。そして、『源氏物語』の感覚が、五感を統合的なものと捉える『万葉集』的な感覚とも、「心」と「言葉」の乖離を仲立ちし、自立する言語世界に身を捧げる『古今集』的な感覚とも位相を異にし、「心」に寄り添う「感覚」として展開されることを確認した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、嗅覚を中心に『源氏物語』における感覚表現の高度な達成を明らかにしたものである。論文の構成は、第I部「嗅覚表現の文学史的展望」、第II部「五感をめぐる『源氏物語』」の二部からなる。

 第I部第一章では、『万葉集』における嗅覚関連語彙の用例を検討し、「にほふ」が対象から発散するものを全感覚的に受容していることを表す語であるという説を支持するとともに、大伴家持の歌あたりから、純粋な視覚や嗅覚が特化された表現が見られることを指摘している。また、「香」「かぐはし」「かをる」といった語も、「にほふ」同様、本来対象の共感覚的な感受に関わる言葉であったが、「にほふ」と違って、人柄や精神性などをも含意する用例があることを指摘する。第二章では、『古今集』以下の三代集における嗅覚表現を検討し、『古今集』には、嗅覚特有の身体的・直接的な記憶の喚起力を詠んだ歌が見られることに注目し、しかもそうした表現が、その後の和歌よりもむしろ『源氏物語』に受け継がれて深化されている、として、第三章「『源氏物語』の芳香表現」につなげている。

 すなわち、「香」「かをり」には人柄や精神性などをも含意する用例があるという第一章の分析結果を生かした「空蝉物語の『いとなつかしき人香』考」「匂ふ兵部卿・薫中将考」、そして、非在の対象にまつわる嗅覚特有の記憶喚起力を詠んだ古今集歌に注目した第二章と関わらせて、手習巻における浮舟の歌に、官能的な記憶を対象化していとおしむまでに成熟した浮舟の心の軌跡を見届ける「浮舟物語における嗅覚表現」など、第三章の諸論考はいずれも論者の犀利な分析力と、粘り強く明晰な論理構築力をうかがわせるものである。とくに、「浮舟物語における嗅覚表現」は、「袖ふれし人」が薫か匂宮かという解釈上の論争に、ほとんど決定的とも言える新見をも併せて提示しており、すでに学界でも高い評価を得ている。

 また第II部は、『源氏物語』における聴覚と視覚の表現にまで分析をおしひろげて、物語を織りなす言葉のあわいから、物語世界の実在感が立ち上がってくる機微をとらえようとしている。

 第I部第二章は、分析する和歌の対象を私家集にまで広げるべきであったし、また第II部はなお今後に大きな課題を残すものと言わざるをえないのであるが、しかしながら、第I部の論考の充実は、そうした不満をも補ってあまりあるものである。よって審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するものとの結論に達した。

UTokyo Repositoryリンク