学位論文要旨



No 117512
著者(漢字) 山口,博紀
著者(英字)
著者(カナ) ヤマグチ,ヒロノリ
標題(和) スフィンゴシン1-リン酸の癌転移抑制作用とその機序に関する検討
標題(洋)
報告番号 117512
報告番号 甲17512
学位授与日 2002.06.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2028号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 玉置,邦彦
 東京大学 教授 宮園,浩平
 東京大学 助教授 久保田,俊一郎
 東京大学 助教授 岩瀬,博太郎
 東京大学 講師 宮田,哲郎
内容要旨 要旨を表示する

 癌転移、特に血行性転移は、癌治療における克服すべき課題である。現在、これに対して化学療法や免疫療法が行われているが、いまだにその治療成績は不十分であるといわざるを得ない。このため、癌の転移メカニズムを分子生物学的アプローチにより解明し、これに基づいた全く新しい治療法や治療薬を開発することが必要とされている。癌血行性転移の分子機構解明は、1973年の肺選択的高転移能を持つメラノーマ細胞株B16 F10の樹立によってその端緒が開かれた、1990年代初頭から、このB16F10の運動・浸潤を抑制する作用を有する脂質として、スフィンゴシン1-リン酸(Sphingosine 1-phosphate、以下SIP)は着目されるようになった。SIPは、細胞膜の成分であるスフィンゴミエリンの代謝経路において、セラミドから生成されたスフィンゴシンがスフィンゴシンキナーゼによりリン酸化されることで生合成される。これまでに、SIPは細胞増殖促進作用および細胞運動制御機能を持ち、生体内においては血小板に多く含まれ、血漿には約0.2μM存在することが報告されてきた。1998年にはSIPは7回膜貫通型Gタンパク質共役型受容体の一種であるEdg1(Endothehal Differentiation Gene1)のリガンドであることが判明し、その後、Edgファミリーの中で、Edg3、Edg5、Eαg6、E償g8がSIPの受容体であることが次々に報告された。これ以降、細胞間情報伝達物質としてのSIPの生理作用とその細胞内シグナル伝達機構の解析が精力的にすすめられている。2000年には、SIPはEdg5を介して低分子量GTP結合タンパク質Racの活性を抑制し、細胞運動を抑制することが報告された、癌が転移する過程に細胞運動は不可欠の要素である。SIPはB16F10に対して運動抑制作用を持ち、また、SIPとN、N、N-trimethyl sphingosineの併用投与によってB16/BL6メラノーマ細胞の肺転移が抑制されたという報告があることから、SIPがB16F10の肺転移抑制作用を有する可能性が十分に考えられた。また、その転移抑制のメカニズムにEdg受容体とRacが関与することが予想された。本研究では、ユニークな生理活性作用を有するSIPという新しいリゾリン脂質メディエーターに注目し、SIPによる癌転移抑制作用とその機序を解明するために、以下の実験を行った。

 まず、SIP投与による肺転移抑制効果を検討した。C57BL/6マウス尾静脈内に、Hank's液に浮遊させたB16F10細胞を1×105個注入し、3週間後、肺表面に形成された肺転移結節数をカウントした。B16F10を静脈注入する直前にSIP10-7Mにて5分間前処理することにより、肺転移数は42%減少した。B16メラノーマ細胞をマウス静脈内に注入すると、癌細胞はその直後から肺微小血管内に捕捉され、管外への遊走を開始することが報告されている。本実験で観察されたように、低濃度かつ短時間のSIP処理によって肺転移が抑制されるためには、この微小血管内捕捉・管外遊走開始という、静脈内投与されてからごく早期の段階での抑制作用の出現が必要であることが推測された。これを確認するため、PKH26を用いて蛍光標識したB16F10を尾静脈内に注入してから一定時間後に肺を摘出、凍結切片を作製し、肺微小血管内に捕捉された癌細胞をレーザー蛍光顕微鏡で観察してカウントし、SIPによる影響を調べた。この結果、SIP前処理によって、静脈注入10分後にすでに、捕捉細胞数の32%の減少が認められた。これらSIP前処理による肺転移抑制の他に、SIP10μg/日、3週間腹腔内投与による肺転移数の45%の減少、および、SIP前処理と腹腔内投与の併用による64%の減少が観察され、持続的な抑制機序の存在が示唆された、次に、SIPがEdg1、Edg3、Edg5受容体を介し、肺転移、細胞遊走、細胞増殖にどのような影響を与えるかを検討した。B16F10に各受容体発現プラスミド(pCAGGS rat Edg1、pME18S human Edg3、pME18S rat Edg5)をリポフェクチンを用いて導入、G418にて選択維持し、各Edg受容体安定発現細胞を作製した。ノーザンブロッティングにより各受容体の発現状態を確認したところ、それぞれの受容体の過剰発現と内因性Edg5の発現が認められたが、内因性のEdg1、Edg3、Edg6、Edg8の発現は認められなかった。これらの細胞株とB16F10に空ベクターを導入したベクター細胞を実験に用いた。ベクター細胞の肺転移数はSIP107Mの前処理により、56%の減少が認められた。Edg5細胞は10-9Mの低濃度で53%の減少が、10-7Mで81%と著しい減少が認められた。このことから、SIPはEdg5を介して肺転移を抑制することが強く示唆された。一方、Edg1細胞は10-9Mで165%の増加が、Edg3細胞は10-9Mで110%の増加が認められたが、これより高濃度の10-8M、10-7Mにては有意な影響は認められなかった。これらの結果は、ごく低濃度のSIPによって過剰発現したEdg1、Edg3を介した転移亢進作用が観察され、高濃度のSIPによっては内因性Edg5を介した抑制作用がEdg1、Edg3を介した亢進作用をしのいだものと推測された。この傾向は細胞遊走実験においても再現された。細胞遊走の測定にはBoydenチャンバーおよび下面をフィブロネクチンでコートした径8μmポアサイズのフィルターを用い、上室に細胞浮遊液を、下室には各濃度のSIP溶液を入れ、SIPの接触走化性運動に与える影響を検討した。ベクター細胞の細胞遊走はSIP10-7Mにて56%抑制された。Edg5細胞は、これより低濃度の10-8Mにて74%と強く抑制された。また、Edg1細胞は10-8Mにて37%亢進する傾向を示したが、10-7Mにて14%抑制された。Edg3細胞は10-9Mでわずかに亢進し、10-7Mにて41%抑制された。

 以上より、SIPはEdg5を介し肺転移と細胞遊走を抑制し、Edg1、Edg3を介してそれらを逆に亢進することが明らかになった。細胞増殖能の測定には、MTS tetrazoliumcompoundを用いた。培養開始72時間後、培養液にMTSを加え4時間反応させた後、分光光度計により490nmの吸光度を測定して細胞数を定量した。SIPは10-6MにてEdg5細胞の細胞増殖を28%抑制した、また、10-7MにてEdg3細胞を14%亢進した。いずれも肺転移や細胞遊走に対する影響に比較すると軽度な変化であったが、Edg5を介した細胞増殖抑制が、持続的な転移抑制作用を生ずる可能性が示唆された。

 つづいて、Edg受容体とこれらの多彩な作用を結ぶメカニズムとして、低分子量G3タンパク質RacおよびRhoに焦点を当て検討した。活性型Racは(GST-p21activated kinase(PAK)を、活性型RhoはGST-Rhotekinを用いてGST融合タンパク質共沈降法にて回収し、それぞれの抗体を用いてウエスタンプロッティングにて定量した、Rac活性は、SIPにより、ベクター細胞において抑制され、Edg5細胞においてさらに強く抑制されたが、Edg1、Edg3細胞においては有意な変化は認められなかった。Rho活性はすべての細胞で増強したが、Edg3、Edg5細胞でさらに強く増強された。内因性Edg5を考慮すると、Rac活性はEdg5で抑制、Edg1、Edg3で増強され、Rho活性はEdg3、Edg5で増強されることが推測された。SIPによる肺転移、細胞遊走、細胞増殖の抑制作用はEdg5を介して観察されたので、これらの機序は、SIPのEdg5を介したRac活性の抑制であることが示唆された。そこで、Rac活性の抑制が各抑制作用を生ずるかを確認するため、優性不活性型RacをB16F10にアデノウイルスベクター(N17Rac)を用いて一過性に発現させ、肺転移、細胞遊走、細胞増殖に与える影響を観察した。この結果、優性不活性型Racの発現によって、肺転移は74%、細胞遊走は76%、細胞増殖は18%それぞれ抑制された。また、蛍光標識した癌細胞を用いて肺組織分布を検討したところ、静脈注入10分後に肺微小血管内に捕捉された細胞数は、優性不活性型Racの発現によって47%の減少が認められた。

 これとは逆に、B16F10においてRac活性が増強すると、肺転移が亢進することが予想された。SIPの類縁脂質であるLPA(lysophosphatidic acid)をB16F10に作用させるとRac活性の増強が認められた。そこで、B16F10をLPAにて10-7M前処理したところ、肺転移数の101%の増加が観察された。また、RT・PCRによってB16F10にLPA受容体Edg2とEdg4の発現が確認され、これらの受容体を介した作用であることが推測された。

 以上より以下の結論を得た。1)SIP前処理または腹腔内投与により、肺転移は抑制される、2)SIPはEdg5受容体を介して、肺転移・細胞遊走・細胞増殖を抑制する、3)これらの作用は、Rac活性を抑制することにより生じる、なお、SIPはEdg1、Edg3を介してRac活性を増強することにより、転移を亢進させる可能性がある。本研究が発端となり、癌転移におけるSIPとEdg受容体の作用とその機序が全て明らかとなり、これを武器として転移治療に新たな戦略が展開されることを期待する。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究においては、スフィンゴシン1-リン酸(以下SIP)のマウスメラノーマにおける肺転移抑制作用とその機序を解明するため、分子生物学的手法を用いた各実験を行い、以下の結果を得た。

 1.経静脈的肺転移モデルを用い、SIPがメラノーマ細胞の肺転移に与える影響を検討した、S1P 10-7Mの前処理により肺転移数は42%減少した。また、蛍光標識されたメラノーマ細胞を静脈注入し、癌細胞の肺組織分布を検討した。SIP前処理により、静脈注入10分後に、肺微小血管に捕捉された細胞数は32%減少した、

 2.B16F10を用い、Edg1、Edg3、Edg5受容体の各受容体安定発現細胞を作製し、SIPが、各受容体を介し肺転移、細胞遊走、細胞増殖にどのような影響を与えるかを検討した。この結果、SIPはEdg5を介して肺転移、細胞遊走、細胞増殖を抑制することが確認された。これとは逆にSIPはEdg1、Edg3を介して肺転移と細胞遊走を促進する可能性が示された。

 3.SIPはEdg1、Edg3を介して低分子量Gタンパク質Racの活性化を亢進し、Edg5を介して抑制することが確認された、優性不活性型RacをアデノウイルスによってB16F10に発現させると肺転移、細胞遊走、細胞増殖は有意に抑制された。したがってSIPのもつ肺転移、細胞遊走、細胞増殖の各抑制作用はEdg5を介してRac活性化を抑制することによるものであることが強く示唆された。

 以上、本論文はSIPのもつ癌転移抑制作用を明らかにし、さらにその機序としてEdg受容体とRac活性が深く関与することを示した。新たな分子生物学的なアプローチが必要とされている癌血行性転移の治療において、本研究は今後重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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