学位論文要旨



No 117518
著者(漢字) 山口,裕之
著者(英字)
著者(カナ) ヤマグチ,ヒロユキ
標題(和) コンディヤックの分析的方法に対する批判的解釈の試み
標題(洋)
報告番号 117518
報告番号 甲17518
学位授与日 2002.07.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第361号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松永,澄夫
 東京大学 教授 天野,正幸
 東京大学 教授 高山,守
 東京大学 助教授 一ノ瀬,正樹
 一橋大学 教授 古茂田,宏
内容要旨 要旨を表示する

 本論では、コンディヤックの思想の核心はその分析的方法にあるとの見通しに立ち、彼の言う分析を巡る様々な問題を取り上げ、その解決を図ってきた。彼の言うところの「分析」とは基本的に、対象をその構成要素まで分解し、そこから再構成することで、その対象について理解しようとする方法である。そして、ここで言われる「構成要素」とは一体何であるのかという点が、本論全体を通じての最大の解釈上の問題であったと言えよう。彼は一方で唯名論的な立場に立ち、観念は記号によってのみ成立すると主張するのであるが、他方で知覚を「単純観念」と見なし、知覚はあらかじめ分節された単純観念の束であるかのように論じるからである。もしも知覚が単純観念の束であるなら、分析はそうした単純観念を単に拾い集めるだけの作業になってしまう。一方観念が名前にほかならないとするなら、分析はいかにして要素的な観念を見出しうるのか、また記号はいかにして観念を形成するのかが問題になる。

 かくして本論の第3章は、「単純観念」を巡るコンディヤックの混乱した記述を整合的に理解するために当てられた。結論を言えば、観念とはすべからく抽象観念なのであり、コンディヤックが「単純観念」という言葉で表現したかったものとは、現前する知覚において、何らかの抽象観念の名前で名指される部分であると解釈するのが整合的である。コンディヤックの説明によると、抽象観念とは複数の知覚的対象の間で共通点として見出された部分であるが、これは知覚に現れた対象を操作し、その結果生じる変化を観察するという能動的な仕方で、すなわち実験的な手続きによって設定されるものである。それゆえに抽象観念は対象の本質を捉えるものではなく、人間と対象の間の関係によって設定されるものなのである。

 ここで分析について言うなら、対象を構成要素に分解するという、分析の前半段階は、あらかじめ分節された「単純観念」を単に拾い集める作業なのではなく、実験的な手続きによって抽象観念を形成することで為されるということになる。化学における単体の分離にこうした作業の具体的な例を見ることができる。なお、観念がこのように能動的な仕方で形成されるという解釈は、コンディヤックの基本的な認識観、すなわち認識とは対象に対して適切な行動を取りうることであるという見方とも整合的である。

 次いで第4章は、観念は記号によってのみ成立するというコンディヤックの主張について、それが為されるのはいかにしてか、またいかなる場面かを検討した。とはいえ、記号と観念の関係についての議論では、コンディヤックはあたかもあらかじめ成立している観念に記号をあてがうかのように論じる。こうした点において、彼は「あらかじめ分節された単純観念」という発想を脱し切れていないと言える。そこで我々は観点を変えて、記号が成立する場面を検討することにした。

 コンディヤックの発想としては、記号は、複数の人間が共同作業をする中で発生するのであるが、具体的なそのプロセスについての彼の議論は不十分なものであった。そこで我々は松永と共に彼の議論を補って考察を進め、記号は、行動を通じて相手を理解し、また自分を理解させることで成立する「理解の地盤」から発生することを論じた。すなわち、相手に対して何か行動をしてみてその結果を観察するという、第3章での実験的手続きと同様の仕方で、ちょうど抽象観念が人間と対象との相互関係から成立してくるように、行動による記号とその記号が指示する対象とが共に輪郭づけられ、成立してくるのである。ここにおいて、記号が観念を成立させる(というよりむしろ記号と観念とが共に立ち現れてくる)場面が見出される。なお、第3章では観念を形成するのは操作と観察であると論じたが、行動がまずは記号となるという解釈によって、第3章での議論との整合性は保たれる。

 ただしここで論じたような枠組みでは、他人の行動が単なる物理的な運動ではなく行動であることの理解がそもそもいかにして成立するのか、記号が行動から切り離されて単独で、まさしく記号としてのみ使われることがいかにして達成されるのかという二点が必ずしも明らかではない。そこで我々が指摘したことは、記号の発生ならぬ習得の場面においてはこの二点が共に容易に達成されることであった。そして実のところ、記号の習得と改良という場面こそが、記号の獲得や新たな記号の発生について現実に観察される事態にほかならないのである。しかも習得の場面においては、大部分の観念は、記号を習得することを通じて、記号を契機として形成される。すなわち、記号が観念を形成する第二の(そしてかなり一般的な)場面が見出されるのである。

 第5章では、記号は観念を自由に扱う手段であるというコンディヤックの主張を取り上げ、そもそも彼の言う「自由」とはいかなる状態かということにまでさかのぼって検討した。コンディヤックの議論の枠組みでは、人間精神に超越論的主観性といったものは認められず、精神とは機械的に形成され作動する観念連合のメカニズムにほかならない。そして、こうした枠組みに基づく限り状況への従属状態と自由との間に本質的な差異を設けることができず、両者の差異は、状況が与えられたときに行動が導かれるまでの間に「計算」される観念の量の差異だということになるのである。それゆえ、コンディヤックが「記号は人間を自由にする」と主張するにせよ、それは記号が人間を何か自由ならざる状態から自由へと本質的に変化させると主張しているわけではないと解釈すべきなのである。

 そして、彼が「記号の自由な扱い」と言うときに念頭に置いていた具体的な事態とは、記号に慣れ親しむことでそれを使い慣れた道具のように易々と使用することであり、「記号による観念の自由な扱い」とは、かくして「自由に」扱えるようになった記号によって、対象が不在のときにも観念を操作し、自在に分析することにほかならない。

 コンディヤックの言うところの「うまく作られた言語」とは、こうした記号使用法に適した言語である。これは、構成要素の記号の組み合わせによって複雑なものの記号をうまく形成するようにデザインされた言語であり、記号の組み合わせ規則は実験を反映するように作られる。かくして記号は実験の代理として働くことができるようになり、自在に分析を遂行するための手段になるのである。ラヴォワジェの化学記号は、こうしたコンディヤックの言語観を化学の分野で実践したものなのである。

 第6章は、分析の結果形成されるという体系的な認識において、観念が形成されあるいは配列される順序が一体何の順序であるかを検討した。二つの解釈の可能性がある。その第一は、具体的な知覚の場面から抽象観念を形成する順序を示すという解釈である。この順序は、我々が実際に観念を形成してきた順序であるというよりは、経験論の原理に基づいて観念を形成すべき順序、ないし観念を理解すべき順序を示すものである。経験論者であるコンディヤックにとって、知覚が全ての認識の最終的な参照項であり、また共通認識を成立させるための参照項でもあることは「原理」なのである。

 第二に、体系における順序は、抽象観念を組み合わせで具体的な現象を再現するための順序であるとも解釈できる。これはすなわち具体的な現象をある側面から再現するモデルを形成する順序である。こうした解釈に従うと、コンディヤックの「心理学」は、人間精神をあるがままに描写しようとしたものではなく、人間精神の機械論的なモデルを形成しようとするものであると解釈できる。人間精神をモデルによって理解しようとする発想は、心理学に対する科学的なアプローチを開くものであり、実のところ現代の認知科学につながる発想であると思われる。

 コンディヤックの体系を巡る議論を整理すると、以上のような二つの異なる体系にまとめられるのであるが、両者は共に何らかの物事を理解するための順序である点に関しては同じである。すなわち第一の体系は抽象観念について理解するためにそれを分析した結果形成されたものであるし、第二の体系は具体的な現象を分析した結果形成されたものである。そしてコンディヤックは両体系を区別せず、それらにおける順序は共に「既知から未知へ」と向かう順序であると説明する。すなわち、体系の出発点に立つものは、両体系の場合共に「既知」であるというのである。我々は、こうした彼の主張は、彼の認識論ないし「理解の理論」の特徴を表すものであると考え検討した。

 その結果明らかになったことは、説明する側に立つものと説明される側に立つものとの間には本質的な差異を設けることはできず、説明する側は単に人々の間で共通理解が成立しているものであり、説明される側はそれが成立していないものであるという点においてのみ非対称性があるということである。それゆえ今は説明する側に回っているものも、それが疑われるや説明される側に回り、何か他の、共通理解が成立していると思われるものによって説明されることになる。

 結局のところ、彼の言う「分析」が働くのは、既にいくつもの共通理解が成立しており、それを元に共通理解できる事柄を増やしていく場面、共通理解が成立していると思われていたものが疑われたときにはそれを検証する場面なのである。これは我々が言語を習得しそれを改良していく場面であり、我々が為しうる全ての思考が展開する地平でもある。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、コンディヤックの仕事を、ニュートン物理学の方法を他の分野に拡張することで諸科学が近代科学として成立してくるという科学史の流れの中に位置づけ、分析という方法の重要性とその内実、それが含む諸問題を、つぶさに検討した労作である。コンディヤックの伝統的解釈は、それをフランススピリチュアリズムの展開と関連づけ、分析を重視し汎論理主義に傾く点で批判されるべき心理学と位置づけるものであったが、当論文は、その対蹠に立つものである。

 第1章はコンディヤック思想を論ずるに当たって取るべき視角を論じ、第2章は、論じられるべき諸問題を概観する。第3章は、知覚と観念との関係、単純観念と複合観念との区別、そして抽象観念、一般観念といった近代哲学の道具立てが、コンディヤックにおいてはどのように考えられているかを、その混乱をも含めて解明する。新鮮な論点は、知覚に即した観念の成立における欲求という契機の働きと実験的手法の介入という二つの事柄を適切に摘出し、これを分析という方法の内実を示す第一歩としたことである。

 第4章、第5章は、知覚との関係に焦点を当てて観念の位置を論じた第3章に対し、記憶との関係で観念を取り上げ、そこで働く記号の役割をコンディヤックがどのように考えているか、検討している。そのうち第4章は、記号が観念を成立させるというコンディヤックの主張を取り上げ、まず、記号を操作することで記憶作用が成立し、対象そのものではなく観念を扱うことが可能になることを示した。次いで記号の発生に関するコンディヤックの議論を精査して、それを通じ、記号による観念の形成という問題に一定の展望を与えつつ、その困難をも指摘し、そこで、記号の習得という場面に目を転じて、そもそも記号の発生の議論とは何を論ずるものであるかを検討することが課題となることを示し、かつ、一般に何かの発生や生成を論ずることがもつ構造を明らかにするという作業の地盤を切り開いた。続く第5章は、記号の自由な呼び戻しと記号による観念の自由な呼び戻しという論点を扱い、諸観念の秩序だった認識と操作とは諸記号をつくる秩序によって保証されること、諸記号の秩序は、習得され、かつ改良される体系として考えるほかないこと、諸記号と諸観念との明晰な体系性は分析という方法と不可分であることを、コンディヤックの影響を受けたラヴォアジェの化学理論の検討をも援用しつつ、示した。なお、コンディヤックの枠組みにおける自由というものの内実を、第3章での欲求の議論につなげて、一方では実践的認識と理論的認識との区分の生成と関連づけて、他方では、認識の拡大につれて隷属から自由へと連続的に移行するような仕方で作用する精神として思い描かれたコンディヤックの人間像を炙り出す仕方で、説得的に浮かび上がらせたのも、本章の功績である。

 最後の第6章は、記号のおかげで可能になる諸観念の分析が、当然に再構成の手続きを引き連れて諸観念それぞれの形成順序を明らかにしつつ体系をつくってゆき、そのことでもって認識が進展してゆくという、前章までの議論が示したことを踏まえ、しかしながら、その場合の諸観念の形成順序の意味とは何なのか、という、科学の方法のみならず内容の内実にも関わる大問題が残ることを指摘し、それに答えることを目指す。それは、コンディヤックの心理学自身を体系的認識の一例として俎上に載せ、もう一度、彼の人間像がどのようなものであったかを抉りだしつつ、一般に、構成要素の組み合わせによって対象を再構成するという体系の順序は、具体的な対象そのものの生成順序なのではなく、対象について或る観点から見たときの一般的なモデルを形成するための順序であることを示す。

 以上のように、本論文は、近代諸科学の進展に際して、当時、最良の方法論を示したと目されたコンディヤックの思想を多岐にわたって考察し、一見した単純さの背後に豊かな問題群を見いだし、それらの解決に努力し、大きな成果をあげたものである。そこには、終章での体系の原理に関する議論、すなわち、説明するものと説明されるものとの関係についての議論に、それまでの実験的手法の意味についての考察を活かし切れない甘さが残るという欠点はあるものの、全体として、コンディヤックの仕事の意義を明確に描き切り、かつ、近代科学が前提する方法論についての理解を深めるという観点から見て現代的な意義をも有する、内容の濃いものである。よって、本論文は博士(文学)の学位を授与するに値すると判断する。

UTokyo Repositoryリンク