学位論文要旨



No 117520
著者(漢字) 鈴木,直子
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,ナオコ
標題(和) 島尾敏雄論 : 「意味」の闘争
標題(洋)
報告番号 117520
報告番号 甲17520
学位授与日 2002.07.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第363号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 長島,弘明
 東京大学 助教授 渡部,泰明
 東京大学 助教授 安藤,宏
 東京大学 助教授 井島,正博
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は島尾敏雄(一九一七〜一九八六年)の文学について、初期「夢もの」(『夢の中での日常』現代社、一九五六年)、『死の棘』(初版新潮社、一九七七年)、それに沖縄・奄美と本土の関係を問題にした「南島エッセイ」(ヤポネシア論)の三領域を中心に考察する。

 本稿の考察全体を導く最も重要な観点は、島尾の文学の核心が「意味」をめぐる問題にあるということである。とりわけ初期作品では「文字」が主要な関心事となっており、ことばと現実の関係、書かれた文字の意味が書き手の意図を裏切っていくことへの焦燥、虚構の世界の創造主となるか単なる享受者に甘んじるかの闘い、等々を読みとることができる。また『死の棘』ないし「南島エッセイ」は、本土と沖縄・奄美との間の帝国主義的支配と従属化といった政治のただ中において、その関係が規定され、意味づけされてきたという事実への省察であると考えられる。

 以上の点をふまえ、第一部では初期作品を、第二部では『死の棘』・「南島エッセイ」を分析する。

 第一章では、島尾の文学的志向が虚構への憧憬と記録性へのこだわりという一見対立的な二点に集約されることをふまえ、そうした傾向が、文学的出発期である一九三〇年代に映画・漫画・探偵小説等さまざまなジャンルに関心を向けるなか、とりわけ映画と映画についての言説を介して形成された可能性について論じる(第二節)。虚構の物語がまさに映像の写実性に伴われているという点で、映画は虚構の真実性を保証しうるジャンルとして島尾に印象づけられたものと考えうる。また太宰治の饒舌文体にも多大な関心を示しており、初期「夢もの」・「贋学生」・『死の棘』それぞれにみられる自己言及的な構造にその影響が現れているといえる(第三節)。

 第二章では、シュールレアリスティックな作風といわれる初期「夢もの」作品群、具体的には最初期の作品「摩天楼」「石像歩き出す」、代表作「夢の中での日常」、「大鋏」を分析する。その際、内容のディテールではなく文字とことばについての思考を抽出することで、書くことと意味の統制をめぐる欲望ないし挫折の物語として読み替える。「摩天楼」における夢の世界へのモダニスト的憧憬は、意味と記号との通常の象徴体系を乗り越え、記号を巧みに操って虚構の世界(「バベルの塔」)を建設する創造者=作家の欲望として読みうる。「石像歩き出す」では、そうした欲望が具体的に戦後という文脈におかれたとき、その現実の悲惨を虚構の世界に押し込めることで戦争責任をも乗り越えようとする試みであることが暴露される(第一節)。

 「夢の中での日常」は、前二作のような記号との戯れ・遊びが、書きとめられ外化された文字そのものによって阻害され、中絶させられる物語である。語り手である小説家は自分の作品を活字化したいと願うが、その願いが叶えられるや否や、活字化され流通した文字は書き手の意図・統制を離れ、「かゆみ」(掻きたさ=書きたさ)となって小説家自身に逆襲してくる物語として解釈しうる(第二節)。

 「大鋏」は、虚構の創造者=作家となるためにファウストさながら悪魔の「秘法」を授かるが、文字と記号を自由に操る主体に成り変わる「魔力」と引き替えに、悪魔に犯され、女性化する-すなわち、虚構世界の主体ではなく、たんに受動的享受者の地位に甘んじるという物語として解釈できる(第三節)。

 第三章では、唯一の書き下ろし長編「贋学生」を分析する。ここでは、語り手を翻弄する贋学生「木乃」を、映画、太宰の饒舌文体、そして創造の魔力を握る悪魔のイメージが混在化したキャラクターとして考える。語り手「私」は、(偽物を偽物として)正しく書き留め・裁く主体になることを願いながら、結局は木乃(の繰り出す虚構の世界)に魅入られ、享受する立場に移行してしまう。木乃から受けるホモセクシャルな行為も、まさにそうした語り手「私」の享受者としての立場・受動性を際立たせる効果として考えうる。 第二部の課題は、『死の棘』をたんなる私小説とする解釈・読解から距離をとりながら、まずは、第一部で明らかにしたような、「書くこと」あるいは意味の統御(不)可能性をめぐる小説と捉える観点から考察する(第四章)。次に、トシオとミホの関係に織り込まれた本土と「南島」という歴史的・政治的な関係から考察する(第五章)。またそうした解釈と密接に関わる「南島エッセイ」の意義を探る(第六章)。

 第四章では、聖書の「律法」のアナロジーというべきミホの細々とした「律法」が、トシオのことばからの「嘘」の排除、という点に集約されることに着目する。このミホの要求は、「真実」を書くべき者としての小説家トシオのアイデンティティを一面では補強・補完しながら、他方では、トシオを相互行為的・相互応答的な場に引きずりだすことで、一方的に記述し、(正しい)意味を規定・制御する書き手の立場を不可能にするものである。

 第五章では、『死の棘』のミホとトシオが暗示する「南の島」と本土との関係に焦点をあてる。最も影響力を持った『死の棘』解釈は吉本隆明のそれであるが、吉本の描き出したマレビト-巫女という図式は、トシオとミホの関係を、日本と南島の関係と重ねて併せ読む可能性を開いた。しかしその場合、関係の権力性・政治性は、「対幻想」という概念に引き込まれることによって曖昧化され、無力化されてしまう。ミホがトシオに「愛」ゆえに従うように、「南島」もまた自発的に本土に服従する、といった解釈を成立させうるわけである。吉本の解釈枠組みでは、ジェンダーの権力関係、本土と植民地との間の帝国主義的な権力関係が、ともに見損なわれてしまう(第一、二節)。

 そこで問題になるのは、作中のミホの積極的従属性をいかに解釈すべきかという点である。とりわけ、モデル「島尾ミホ」自身が書いた一連のテクストまでもが、小説言説の外部から、吉本の解釈を補強・立証しているように見える、ということである(第四節)。その点に関して、女性のマゾヒズム現象についての、フーコーの主体-従属論を援用した諸議論を参照し、ミホ(以下作中人物)の従属行為とその反動としての「狂騒」とに一貫して働いている主体化の秘された欲望を抽出する(第五節)。

 そのうえミホの「狂騒」の原因は、たんに「南島」と「女性」という二重の客体性・被害者性を引き受けてきたことのみにあるのではない。まさにミホ自身が「南島」(父)を切り捨て、本土(トシオ)を選び取ってきたという事実に気づくことで、「狂騒」は一層深刻なものとなっている。ミホの「狂騒」は、「南島」から引き裂かれた「巫女」のルーツヘの回帰願望ではなく、本土から切り離された「南島」を代表するかのような痛み・叫びですらなく、ミホ自身の(秘された)主体化の欲望と挫折の徴であると考えられる(第六節)。

 第六章では「南島エッセイ」を、「ヤポネシア」「琉球弧」なる標語の意図するところに焦点化して考察する。島尾はたんなる南島の風物の愛好者としてこれらのエッセイを書き連ねたのではなく、島尾自身の戦争体験における本土と「南島」の帝国主義的な政治・歴史関係の意識化の過程であったといえる(第二節)。にもかかわらず、あるいはそれゆえに、島尾の言説はそうした個人的事情を超える広がりも持っている。沖縄周辺の島々は琉球、日本、中国、アメリカなどの力学の相互性のなかで、さまざまに分断統治され、その都度の「中心」からの距離に応じて、沖縄周辺の島々の問で相互に差別意識すら生じてきた。「琉球弧」という語は、こうした問題を超えて、統一的なアイデンティティを戦略的に確立する必要性を提起したいがために選択されたものと考えられる(第三節)。一九六〇年代に本土「復帰」が自明なものとして要求されていくなか、新川明や大城立裕らはそうした「復帰」運動のあり方に日帝時代の暴力の忘却をみてとり、不満を高めていたが、島尾の「琉球弧」も、それら沖縄の知識人たちの思想と呼応して発想されたものといえる(第四節)。

 他方「ヤポネシア」は、沖縄と本土のゆるやかな共同性を目指すべく造語されたが、かつて沖縄の皇民化を支えた日琉同祖論的なイデオロギーへと変質する可能性を内包しており、明らかに限界をもつ標語であった(第五節)。しかし島尾の「南島エッセイ」のアクチュアリティは、他者を語る困難を引き受けながら、まさに対話的現場において、琉球弧の代弁を避けようとしてきたことにある(第六節)。「南島エッセイ」は、歴史を語ることに内在する琉球弧と本土との間の政治を意識化し、あらたな歴史=意味を創造する願いとして読むことができる。

 以上を概括すれば、本稿は島尾敏雄の言説を、書くことと読まれることのあいだの「意味」の闘争の現場として捉え、その軌跡を、映画・太宰・探偵小説といったモダニスト的世界から、『夢の中での日常』における文字との葛藤をへて、『死の棘』と「南島エッセイ」におけるポストモダニズムヘ、という流れとして描き出そうとしたものである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は島尾敏雄の初期作品を取り上げた第一部と、代表作「死の棘」および「南島エッセイ」と呼ばれる一連の作品群を取り上げた第二部からなる。第一部では、島尾敏雄の文学的形成期に影響を与えた要因として、映画、太宰治、探偵小説の三点が挙げられている。すなわち、虚構への憧憬と写実性への関心に引き裂かれた島尾は、その一致への夢を映画的な手法に託すと共に、言語化に当たって太宰治の文体が大きな影響を与えたのであるという。従来注目されることのなかった映画との関係に着目し、映像と言語との二律背反、「書くこと」の自己統御への懐疑に苦しむ島尾の様態を、「夢もの」と言われる一連の作品の分析を通して明らかにし得た点に高い独創性が認められる。

 第二部はこうした島尾の課題が代表的長編「死の棘」に結実する過程が分析されている。「死の棘」を実生活の事実に固着させる従来の読みを注意深く退けた上で、対象を記述することの絶対性が語り手=小説家の中で崩壊していく様相と、主人公の言語観が作中の妻ミホによって変革され、あらたな関係性へ開かれていく過程が具体的に明らかにされている。次に「マレビト-巫女」の物語としてこの小説を解釈する従来の論点が、ミホの古代性、辺境性を過大評価することによって逆に美的ロマンスに回収されてきた陥穽が指摘されている。ミホ自身が近代国家の論理に自らを同調させていこうとする主体性を持ち、その主体性が挫折していく物語として読みかえるべきであるという主張は、本土と奄美との権力関係を「対幻想」によって美化してきた従来の研究に修正をせまる提言として傾聴に値しよう。さらに沖縄の本土復帰が政治的な日程に上る1960年代に島尾がヤポネシア構想を展開していく事実に着目し、ゆたかな「原日本」として本土の側から沖縄を語ることへの躊躇が、初期の「孤島夢」から「島へ」に至る過程で次第に強まっていく過程があらたに導き出されている。

 総じて特攻隊体験を扱った一連の作品との関係の分析が手薄になっている傾向も認められるが、マイノリティや女性が「被害者」として美化されてしまう陥穽をよく見すえつつ、島尾のヤポネシア構想を的確に評価していくその論旨は、単に島尾敏雄の文学を再評価するにとどまらず、文学における国家論的な枠組みに再検討をせまるものとして高く評価される。以上の点から、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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