学位論文要旨



No 117523
著者(漢字) 金,泰昊
著者(英字)
著者(カナ) キム,テホ
標題(和) 宣長の復原
標題(洋)
報告番号 117523
報告番号 甲17523
学位授与日 2002.07.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第366号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 黒住,真
 東京大学 教授 川原,秀城
 社会科学研究所 教授 平石,直昭
 社会科学研究所 教授 池田,知久
 東京大学 助教授 中島,隆博
内容要旨 要旨を表示する

 理想の実現と再現、あるいは回帰願望は、時代と地域を超えて、<復原>という人類共通の方法論を生み出した。その<原>の意味する内容は各々異なるとしても、豊かな帰属を願う思いに変わりはない。特に、18Cという時代は、このような特徴に満ちあふれていた世紀であったと言える。ヨーロッパロマン主義における「自然」の概念と、それに端を発する巨大な回帰現象は、ジャン=ジャック・ルソーという名前とともに、現代まで伝えられている。そして明清交替以降の中国大陸はといえば、ヨーロッパのそれではないが、「中華」という文化的自然の正統性への意識と運動が噴出した時期であった。そしてこのような文化的優越と憧憬をめぐる自己同一性の意識は、その成立から既に4Cも経た朝鮮王朝の版図においてもなお「東夏」「東學」などの理念として形作られていったのである。もちろん、日本の徳川幕府の江戸時代に始まった国学運動もまた「復古」という名称とともに、18C東アジアの大きな動きの一つとして知られている。

 本研究は、このように実質的内容[原]を異にしながらも、<復びする>[反る、帰す]といった意識・発想において共通性が見出せる一連の動きを、<復原>という言葉で捉えつつ、中でも日本国学の特殊性、とりわけ本居宣長(モトオリノリナガ)(1730-1801)の思想について考察することを目的としている。研究題名である「宣長の復原」とは、このような意図を表している。端的に言えば、宣長は何を、どのように、そして何故<復原>しようとしていたのかが、筆者の問いの原点である。丸山真男の指摘どおり、儒学を「否定的媒介」とする国学運動は、古典文学と神典研究を通じて、当時の幕府のイデオロギーに対抗する術と為していたのも事実である。しかし、このような「否定的媒介」としての様相自体が、すでに国学における儒学的<復原>を意味するのであり、国学運動を集大成したといわれる宣長においても、事情は変わらなかったのである。そして、宣長の弟子を自称する後期国学者平田篤胤(ヒラタアツタネ)(1776〜1843)に至っては、宣長よりもさらに一歩進めて、日本に伝わる記紀神話だけでなく、他の国の神話や伝説、宗教までをも取り入れてまったく新しい歴史、いわゆる正伝をつくることを志していたほどであった。言うなれば、このような後期国学の展開の様相は、もう一つの<宣長の復原>である。ここでわれわれはすでに、三通りの<復原>の様相を想定できるわけであるが、まず、もともとの儒学における<復原>がそのひとつであり、それを「否定的媒介」とする国学における、宣長の<復原>がその二つ目であり、最後は、師の所説を継承発展させようとする、弟子における<復原>である。そして、これらの<復原>に、本論で行われる考察によって、さらにもう一つ、<宣長の復原>がつけ加わることになる。

 最後の-といっても、決して完結した歴史であることを意味する訳ではないが-<復原>を加える際、われわれの視座をどこに据えるかについての説明が序論<宝暦13年(1763)から明和8年(1771)までの宣長>の部分である。すなわち、賀茂真淵(カモノマブチ)(1697〜1769)との対面以降、『古事記伝』の総論にあたる『直毘霊(なほびのみたま)』の浄書が終わるまでの8年間は、宣長の人生においても、学問においても、ちょうど真ん中当たりの時期であり、関心テーマが「古言」へと大きく変わっていく時期でもあった。従って、この時期に書かれた『直毘霊』を拠り所に、それまでの古典文学を中心とする前期思想と、以降『古事記伝』に集約される後期思想とに分けて、前期から後期への変遷を眺望したとき、われわれは「天皇尊(スメラミコト)の大御心を心とせずして、己々(オノオノ)がさかしらごゝろを心とするは、漢意(カラゴコロ)の移(ウツ)れるなり」という一文、より簡潔には、その「心とする」ところに宣長思想が集約されていることがわかるのである。本論の課題は、別言すれば<その「心とする」を訓む>ということになろう。

 まさしく「心」は<宣長の復原>を動機づけ、根拠づけ、理論づけた根因であったのである。この「心」とは、前期思想における日常性の「實情」から、「霊魂」によって代表される後期思想の超越性までをも網羅する概念である。のみならず、いわゆる「漢意」を取り払い、「大御心」を取り戻すという<宣長の復原>を根底から支えてくれる、起源であり、根源でもあったと言えよう。

 さて、「心とする」を踏まえて<宣長の復原>相について考えるには、前期から後期にかけて、その「心」の意味などがどのように使われ、あるいは変化していったかを、まず確認しなければならない。すなわち、「實情」「物のあはれを知る」「御霊」の「留まり」といった用例についての確認である。特に、前期思想における「實情」や「人情」といった「ありのまま」や「うまれつき」などは、人間を「善悪教誡」から「解放」させたものとしてもよく知られており、宣長思想の大きな特徴でもある。これは稿本『排蘆小船』に始まる概念だが、このテキストの作者及び成立年代をめぐっては、長い間、研究者の間で論争が繰り広げられ、現在でも結論は出ていない。従って、本論を始めるに際して、まずは稿本について行われてきたさまざまな議論を、その文献批評史とでも言うべき内容として、一つにまとめることにした。それが、第一章稿本『排蘆小船』諸相である。結論にいたる史料の提示は不可能であっても、その文献批評史をできるだけ詳細に追ってみることは、宣長思想を根底から理解するためにも、決して無益だとは思われないからである。

 第二章では、前期における「心」の世界を理解するために、「情」「意」「本情」といった概念もさることながら、これらを「ありのまま」として捉えたことやそれがさらに「うまれつき」の「聲音言辭」を主張する音声中心主義言語学と結びつき、最終的には「神州の開闢」といった起源によってその正統性を確保していくことに重点をおいて考察を進めていくことにする。言うまでもなく、宣長が「聲音言辭」を極めて大事なことと主張し続けたのは、「ウタ」「モノガタリ」といった口承文学の世界への愛着のみならず、「文字」の「漢意」を排除するがためであった。このような言語ナショナリズムに対する批判的研究としては、すでに酒井直樹『死産される日本語・日本人』などがあるが、本論では、特に宣長の言語観に的をしぼって、その特殊性の究明に取り組みたい(主な文献:『排蘆小船』『石上私淑言』など)。

 第三章は、「情」から発展してきた「物のあはれ」や「物のあはれを知る」ことを中心に考察を進める。これに関してはすでに数多くの研究がなされてきたが、本論では、第二章で提示された起源の問題に翻訳という視座を加えて、宣長における「言(コトハ)」の問題をさらに追究していきたい。主に「ミチ・道・御業」という三つの概念における「翻訳」問題を中心に考察を進める(主な文献:『紫文要領』『安波禮辨』など)。

 第四章復原される宣長では、特に「霊魂」観に即した「心」の問題を取り扱うことにする。宣長の死後観の大きな特徴でもあった「安心なき安心」と霊魂の「留まり」説との間に交錯する「心」の問題について考察する。と同時に、篤胤の死後観「静まり」と対比させながら、<宣長の復原>が復原される様相についても検討する(主な文献:『古事記伝』『答問録』、平田篤胤の『霊能真柱』など)。

 最後の第五章は、われわれにおける<宣長の復原>という観点から、現代、そして東アジアにおける<復原>の意義と課題についての試論としたい。地域的閉鎖性を選別的収容という名で美化することが、もはや聞にすることもなくなった理屈となってしまった現在、われわれは地球単位の文化移動・伝播をどのように受け入れ、さらなる共存を図っていくべきであろうか。絶え間なく未来への「意味」を再確認する場作りは、まだ終わっていない、あるいは始まってすらいないと言うべきかも知れない。純粋なる系譜への世界観から、逃避でもなく、なおさら盲目の隷従・隠蔽の放縦でもない世界への問いは、前世紀の始まりにおいて提示された、「この人間の生存全体に意味があるのか、それともないのかという問い」(Edmund Husserl『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』細谷恒夫・木田元訳、中央公論社、1974、p.17)への未来的反省でもある。

 以上、<宣長の復原>というスコープから考えられる、18C国学思想は、何よりもそれが完結した歴史ではないところに深刻さがあると思われる。のみならず、起源や根源といった、人間の固有性への着眼と願望がもたらしうる危険な衝動、すなわち、「私物」化の暴力を鑑みるとき、なお現実的で、生々しい問いであるに違いない。宣長は『直毘霊』のなかで、次のように警告している。

 「凡てよきことは、いかにもいかにも世に廣(ヒロ)まるこそよけれ、ひめかくして、あまねく人に知ラれず、己(オノ)が私物(ワタクシモノ)にせむとするは、いとこころぎたなきわざなりかし」

 結局、われわれはこれまでの考察を踏まえてさらに次のように問わざるを得ない。固有性を復原すること、しかも「私物」でない復原はどのように可能であるか、と。

審査要旨 要旨を表示する

 金泰昊氏の博士学位請求論文『宣長の復原』は、国学の大成者といわれる本居宣長(1730-1801)について、そのもとのものに帰ろうとする思想のあり方(金氏は「復原」とよぶ)がいかに成立し、どんな様相・ニュアンスをもったかを解明する研究である。氏のいう「復原」は、国学にとって根本的な動機づけであるが、本論文は、その微妙なあり方をテクストに即して形成史的に辿るとともに、宣長の対抗する朱子学等の言説との関連において詳しく明らかにした。

 本論文は、序論および5章からなっている。序論では、「復原」が宣長のみならず、中華文明・東アジア全体の課題であり、宣長は、中国におけるそのあり方を受け止めながら、これと差異づけし、また感情を強調しつつ、大御心へ随順する仕方で、固有性へと回帰する道を取っている、とする。以上の問題設定により、以下、形成過程に従って問題が追究される。第1章では、歌論・排蘆小舟稿本に「物のあはれ」論が姿を見せる過程を先行研究を参照しながら跡付け、歌論において、実情論が、詩や老荘など中国の言説とも対話しながら、風雅、さらにそのような空間(「国」)の定位を要請してくるとする。第2章では、宣長の実情論が、「ありのまま」さらに「うまれつき」を強調し、結局は「たちかへる」ものであること、その感動のあり方が中国の詩論と類似しながらも、作者の所属世界の自己同一性に回帰するもので、そのことによって、神に結びついていくものである、とする。第3章は、宣長の「物」が、認識主観を確保するよりは神道に結びつくもので、そのアオリスト的あり方が、翻訳不能性に逢着するものだと指摘する。第4章は、宣長の死後観に、「魂の留まり」の観念があり、これが無視し得ないものであること、篤胤にさらに展開されるものであることを述べる。第5章は、宣長の求めた「復原」、共存可能性が、現代にも問題提起するものである、とする。

 以上の議論は、宣長の神話化に至る過程に深く踏み込み大筋としてよく跡づけたものといえる。原資料によく取り組み、研究についても日中西にわたり広く渉猟・参照している。日本の古典文を読み込みながらなおかつ中国のテキストと対比して宣長および東アジア思想を問う視点から問題提起を行っている点、また宣長の自己同一性を求める思想過程をテクストと関連づけ、たんなるイデオロギー化ではなく苦悩を含んだ実存的な過程として複雑微妙な様相をよく描き出しており、その理論的な切り口も斬新である点、そして宣長の死後観についてこれまで顧みられない面を見出し篤胤との関連に貴重な解釈可能性を開いた点、これらは高く評価できる。他方、主軸となる「復原」概念が無規定に広く用いられ、研究史との位置づけが、個々の本文ではあるものの、基本となる最初の場面設定において乏しい。この結果、後の国学・近代や中国との違い等の側面も把握が不十分である。宣長の政治的側面が一方的に強調され、その学問や合理的な認識を開く面が見過ごされる傾向がある。これらは問題を残している。しかしにもかかわらず、全体としては宣長の政治化の過程を位置づける点で大きな成果をあげたものと認められ、審査委員会は、本論文を博士(文学)の学位にふさわしいと判断した。

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