学位論文要旨



No 117525
著者(漢字) 矢向,謙太郎
著者(英字)
著者(カナ) ヤコウ,ケンタロウ
標題(和) 293MeVにおける90Zr(n,p)反応測定によるガモフ・テラー抑制係数の精密決定
標題(洋) Precise determination of the Gamow-Teller quenching factor via the 90Zr(n,p) reaction at 293MeV
報告番号 117525
報告番号 甲17525
学位授与日 2002.07.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4238号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 櫻井,博儀
 東京大学 教授 太田,浩一
 東京大学 教授 片山,一郎
 東京大学 教授 久保野,茂
 東京大学 助教授 宮武,宇也
内容要旨 要旨を表示する

1序

 原子核のスピン空間での集団運動は、最近の原子核物理の主要なテーマの1つであり、そのなかでも、空間成分は変化せず(角運動量移行ΔL=0)、スピン・アイソスピン空間成分が反転した(スピン移行ΔS=1、アイソスピン移行ΔT=1)ガモフ・テラー(GT)型巨大共鳴は最も重要なものである。このGT遷移にはGT型β崩壊と同様、β--GT遷移とβ+-GT遷移とがあるが、それぞれの遷移強度和、Sβ-とSβ+にはSβ--Sβ+=3(N-Z)(1)なる関係が成り立ち、池田の和則と呼ばれる。Sβ-は(P,n)反応(β-型)、Sβ+は(n,P)反応(β+型)からそれぞれ実験的に求められるが、GT巨大共鳴の領域までに和則値の約50%しか認められない。この問題はGT遷移強度の抑制問題とよばれており、その機構として、

●クォークスピンの反転状態であるΔ粒子を考慮し、1粒子-1空孔(1p1h)状態と1Δ粒子-1空孔(ΔN-1)状態の結合により、GT遷移強度が励起エネルギー300MeVのΔ励起領域に移動している。

●1p1h状態のGT状態が、2p2h状態のような複雑な状態と配位混合し、GT遷移強度がGT巨大共鳴より高い励起エネルギー(20-50MeV)に分散・分布している。

 の2つのモデルが提唱されている。これらの抑制機構について、理論・実験両面から精力的に研究が行われてきたが、最終的な結論は未だ得られていない。抑制の度合を表す指標にガモフテラー抑制定数Qがあり、β-側反応の遷移強度とβ+側反応の遷移強度の差(Sβ--Sβ+)を和則値で割ったものとして定義される。GT遷移強度を励起エネルギー〜50MeVまでに渡って精度良く求めることでこのガモフテラー抑制定数を実験的に決定し、核内におけるデルタ粒子の関与を定量的に明らかにすることが本研究の目的である。

 抑制係数Qへの�剽ア子の寄与は、ランダウ・ミグダル相互作用を用いて記述できる。ランダウ・ミグダル相互作用は3つの係数g'NN、g'NΔ、g'ΔΔを持ち、それぞれ、1p1h状態間、1p1h状態-Δ-1状態間、Δ-1状態間の相互作用の強さを表し、特に、'gNΔは抑制係数Qの値に密接に関係する。これらの係数はパイオン相関の振る舞いを決める鍵となる係数であるが、g'NΔ、g'ΔΔが実験的に未決定なため、理論計算においてはuniversality ansatzと呼ばれる関係、g'NN=g'NΔ=g'ΔΔ(≡g')がしばしば仮定され、Q〜0,5を良く説明するg'=0.6〜0.8が用いられきた。今回、抑制係数Qが実験的に求められれば、g'NΔの値に対して制限を与えることができる。

 本研究では、未発見のGT遷移強度を高励起の連続状態において正確に同定しなくてはならない。種々のΔLをもつ高励起状態から実験的にGT遷移(ΔL=0)を抽出するには多重極展開の手法が有効である。歪曲波インパルス近似(DWIA)の計算によると、微分散乱断面積はΔLに特徴的な角度分布を持つ。異なるΔLをもつ遷移の微分散乱断面積が1次独立であることを利用して、測定で得られた断面積を種々のΔLをもつ成分の1次結合で分解するのが多重極展開である。この手法の適用には、

1.歪曲波の影響を最小にし、反応機構の不確定さを小さくする。

2.スピン反転励起のGT励起を最も強く引き出すエネルギーを選択する。

3.散乱過程が1回散乱が支配的であるエネルギーを選択する。

 などを考慮する必要があるが、300MeVでは、上記3つの条件が同時に満たされる。

 最近、若狭らは300MeVにおける90Zr(p,n)反応の2階微分散乱断面積を0°から12°に渡って測定し、多重極展開の手法で解析を行った。その結果、GT遷移強度の分布が励起エネルギー50MeVの連続状態にまで分散していることが明らかになった。得られたΔL=0の成分には、GT遷移強度の寄与以外に、GT遷移と同じスピン・パリティを持ち、演算子r2σt_で励起される、アイソベクトル型スピン単極子(IVSM)励起の寄与が含まれる。そこで、断面積のΔL=0の成分(σ�儉=0)からIVSMの寄与をDWIA計算で見積もって差し引き、式、σΔL=0=σGTF(q,ω)B(GT)により、GT遷移強度B(GT)を求めた。ここで、σGTはGT単位断面積であり、F(q,ω)は運動量移行qとエネルギー移行ωに依存する補正項である。その結果、娘核90Nb励起エネルギー50MeVまでに、総遷移強度Sβ-=28.0±1.6±5.4が得られた。ここで、示した誤差は順に、多重極展開による不定性とGT単位断面積に起因する不定性である。一方、Sβ+は、200MeVにおける90Zr(n,p)反応測定の結果を多重極展開の方法で解析することにより、Sβ+=1.0±0.3と得られている。従って、GT抑制係数は、Q=0.90と求まる。これは従来の値Q〜0.5と比べて非常に大きく、核内でのΔ粒子の寄与が10%程度と小さいことを示している。

 しかしながら、200MeVの90Zr(n,p)反応データの解析はGT遷移強度が励起エネルギー7.8MeVまでしか考慮されていないなどの点で上記(p,n)反応データの扱いと異なるため、GT抑制係数を精確に求めたとは言えない。高精度でGT抑制係数を決定するには高励起連続状態に渡って精密な(n,p)反応の二回微分散乱断面積を求めなければならない。そこで、我々は大阪大学核物理研究センターに新しく(n,p)実験施設を建設し、大アクセプタンス(立体角11msr、運動量アクセプタンス35%)を得た。この施設を用い、293MeVにおいて90Zr(n,p)反応の測定を行った。

2(n,p)実験施設

 図1は、(n,p)実験施設の概略図である。ほぼエネルギーの揃った偏極中性子ビームを7Li(p,n)反応によって生成する。1次陽子ビームは、7Li標的を通過したあと、クリアリング磁石の磁場によって曲げられ、ビームダンプヘと移送される。一方、7Li標的上で生成した中性子ビームは95cm下流の(n,p)標的に入射される。標的は、多線式ドリフトチェンバー(MWDC)箱内に設置されている。標的中の出射陽子のエネルギー損失によるエネルギー分解能の悪化を防ぐため、標的は4層に分けられ、各層はMWDC面で隔てられている。どのMWDC面が荷電粒子を検出したか調べることにより(n,p)反応がどの標的層で起きたかを決定できる。出射陽子は標的直下流にある6面のMWDCを通過し、更に25cm下流のMWDC2を通過する。これら2つのMWDCの情報から(n,p)反応の反応位置と散乱角を求める。さらに、陽子は大口径スペクトログラフ(LAS)と焦点面検出器とで運動量解析される。ターゲットMWDCの外で生じた荷電粒子に起因するイベントは、上流に設置された1mm厚のプラスチックシンチレータからの信号により排除される。中性子-陽子散乱を用いたテスト実験により、この(n,p)実験施設は、3w×2H(cm2)の標的について、運動量アクセプタンス±7%、立体角11msrをもつことが確かめられた。

 90Zr(n,p)測定では強度300-450nAの偏極陽子ビームを300mg/cm2厚の7Li標的に入射し、(n,p)標的上に毎秒2×106個の中性子を入射させた。中性子ビームの偏極度は0.2であった。標的は、上流側3枚に200-400mg/cm2の90Zr板を、最下流標的に50mg/cm2のポリエチレン(CH2)を用い、CH2標的起源の中性子-陽子散乱イベントをZr標的起源のデータと同時に取得した。既に良く知られている中性子-陽子散乱の微分散乱断面積を用いて、ポリエチレン標的起源の中性子-陽子散乱イベント数からZr標的に入射した中性子ビームの量を求めた。また、MWDCガスや(n,p)標的系に起因するバックグラウンドイベントを差し引くために上流側3枚の標的を除いた状態での測定も行った。

 角度範囲0°から12°において、70MeVの励起エネルギーに渡って二回微分散乱断面積と偏極分解能のスペクトルを取得した。1°-2°のスペクトル中、励起エネルギー20MeVにおける統計精度は二回微分散乱断面積が0.5MeVビンあたり±3.4%である。偏極分解能は3°、5MeVビンで解析を行い、統計精度±0.2を得た。

3解析

 得られた二回微分散乱断面積データを多重極展開の手法で解析した。結果を図2に示す。娘核90Yの励起エネルギー35MeVの連続状態までΔL=0が分布していることが明らかになった。(p,n)反応の解析から求めたSβ-の値と比べるには、GT遷移強度の積分領域を対応させる必要がある。(p,n)、(n,p)両チャンネルについて、T=6のGT遷移の励起エネルギー差を考慮し、励起エネルギー31.4MeVまでを積分する。その結果、ΔL=0の成分からGT遷移強度を求めると、その和は5.4±0.3(誤差は多重極展開の誤差)が得られた。

 次にIVSMの寄与を見積もるため、全てのIVSM遷移強度が励起エネルギー31.4MeV以下に存在すると仮定してDWIA計算を行った。IVSMの寄与は光学ポテンシャルの選び方に強く依存し、2.3±0.8であった。この値を多重極展開で得られた値から引き去り、Sβ+=3.0±0.3±0.8±0.5(多重極展開の誤差、IVSMの見積もり誤差、単位断面積の誤差の順)を得た。すでに得られているSβ-と合わせて、抑制係数はQ=0.83±0.06(多重極展開の誤差)と求まった。

4.考察

 得られたβ+遷移強度と200MeVにおける先行データとの比較を行うため、8MeVまでの遷移強度を求めるとSβ+=0.5±0.2と200MeV測定で得られた遷移強度の半分であった。200MeVでは300MeVより歪曲波の影響が大きいために0°におけるΔL≥1の成分の寄与が大きく、ΔL=0の成分の抽出に困難を生じている可能性がある。

 次に理論計算との比較を行った。Bloomらの殻模型計算とKuz'minらの乱雑位相近似(RPA)計算結果と比べて、得られたSβ+の値は約2倍程度大きいが、Rijsdijkらによる着物を着た乱雑位相近似(DRPA)結果とは一致する。

 また、90Zr核のβ+-GT遷移は独立粒子運動模型ではパウリ律により禁止されるため、芯偏極の効果と関連づけられる。(e,e'p)反応データの解析から得た芯偏極から1g9/2陽子の軌道の占有確率を見積もり、GT遷移強度に直すとSβ+=2.0±0.4と実験値より小さな値が得られるが、この差は、2hω励起に含まれるGT遷移強度で説明される。

 最後に抑制係数Qを用いてランダウ・ミグダル変数g'NN、g'NΔを求めた。チュー・ロー模型において、g'ΔΔ=0.6と仮定すると、Q=0.83±0.06からg'NN≈0.6、0.16

 今後の展望としては、次のものが挙げられる。まず、上記のデータ解析においては、IVSM遷移とGT遷移がインコヒーレントに扱われているため、最終的な結論を導くには、より現実的な波動関数を用いた理論的な解析が必要である。実験的には、300MeVにおける精確な(p,n)データがすでに存在する27Al、208Pb標的についても(n,p)測定を行い、同様の結論が導かれるかどうかは興味深い。

5.まとめ

 我々は、GT抑制係数を精確に求めるために90Zr(n,p)反応を293MeVにて測定し、終状態90Yの励起エネルギー31.4MeVまでにSβ+=3.0±0.3±0.8±0.5を得た。これより、抑制係数はQ=0.83±0.06と求まり、従来の値Q〜0.5と比べて非常に大きく、核内でのΔ粒子の寄与が高々20%程度と小さいことがわかった。また、g'NΔは0.6よりも有意に小さく、ランダウ・ミグダル変数に関するuniversality ansatzが成り立たないことが明らかになった。

図1:(n,p)実験施設の概略図

図2:多重極展開の手法による解析結果

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、7章からなり、第1章の序文に続き、第2章では本研究で用いた大阪大学・核物理研究センターの(n,p)施設の概要と検出器群・回路系の詳細が述べられ、具体的な実験条件も示されている。第3章ではデータ解析の詳しい記述があり、最終的な測定量である二階微分散乱断面積を導出する方法と検出効率について定量的な議論を展開している。第4章では散乱断面積の実験結果とこれに伴なう系統誤差を示している。散乱断面積からガモフ・テラー遷移強度を導出する方法とその結果が第5章に詳述されている。これら第3章から第5章の3章が本論文の中心である。第6章では、本研究で得られた実験値と従来の実験値・理論値との比較、ならびに今後の実験手法に対する展望が議論・考察され、第7章では結論が述べられている。この他、付録としてガモフ・テラー和則、偏極分解能、他の施設で得られたデータとの詳細な比較が収録されている。

 本論文では、原子核物理学で長い間問題となっているガモフ・テラー遷移強度の抑制問題に挑戦した実験研究である。原子核のスピン空間での集団運動のうち、ガモフ・テラー(GT)型巨大共鳴は、空間成分の変化はせず(角運動量移行ΔL=0)、スピン・アイソスピン空間成分が反転する(スピン移行ΔS=1、アイソスピン移行ΔT=1)励起モードとして特徴付けられる。このGT遷移にはβ--GT遷移とβ+-GT遷移とがあり、それぞれの遷移強度S(β-)とS(β+)との和にはS(β-)-S(β+)=3(N-Z)なる関係が成り立っている。S(β-)は(p,n)反応(β-型)、S(β+)は(n,p)反応(β+型)からそれぞれ実験的に求められるが、GT巨大共鳴の領域までに和則値の約50%しか認められていない。この問題はGT遷移強度の抑制問題とよばれている。抑制機構としては、(1)クォークスピンの反転状態であるΔ粒子が関与し、1粒子-1空孔状態と1Δ粒子-1空孔状態の結合により、GT遷移強度が励起エネルギー300MeVのΔ励起領域に移動している、という解釈と、(2)1粒子-1空孔状態のGT状態が、2粒子-2空孔状態と配位混合し、GT遷移強度がGT巨大共鳴より高い励起エネルギー(20-50MeV)に分散・分布している、という解釈の2通りが提唱されている。本研究は、20-50MeVの連続状態において未発見のGT遷移強度を実験的に同定することで、抑制問題の決着を目指している。

 励起エネルギースペクトルの角度分布から精度良くGT遷移(�儉=0)を抽出するには多重極展開の手法が有効で、この多重極展開が最も信頼できるのは入射粒子の加速エネルギーが300MeV前後のときである。すでに、300MeVにおける90Zr(p,n)反応スペクトルの多重極展開から、励起エネルギー50MeV以下の領域で総遷移強度S(β-)=28.0±1.6が得られている。本論文においては90Zr(n,p)反応の精密測定からS(β+)を導出し、GT遷移強度の抑制係数Q=(S(β-)-S(β+))/3(N-Z)の決定を試みた。

 多重極展開には、90Zr(n,p)反応スペクトルの角度分布が高励起エネルギー領域に渡り必要である。そのため、提出者らはまず大阪大学・核物理研究センターに(n/p)実験施設を建設した。中性子ビームを7Li(p,n)反応によって生成し、多重標的システム内の(n,p)標的に照射した。標的直下流に設置された多芯線位置検出器と大口径磁気分析器LASを用いて出射陽子の測定を行った。次に293MeVにおいて90Zr(n,p)反応の測定を行い、角度範囲0度から12度において、励起エネルギー0-70MeVの二階微分散乱断面積を取得した。

 得られた二階微分散乱断面積データを多重極展開の手法で解析し、娘核90Yの励起エネルギー31.4MeVの連続状態までにGT遷移強度5.3±0.4に相当する量のΔL=0成分を得た。次にもう一つのΔL=0成分である、スピン単極子共鳴状態(IVSM)の寄与を歪曲波インパルス近似計算で見積もって引き去り、S(β+)=3.0±0.4±0.8±0.5(多重極展開の誤差、IVSMの見積もり誤差、単位断面積の誤差の順)を得た。抑制係数はQ=0.83±0.06(多重極展開の誤差)と求まった。従って、Δ粒子の寄与は高々17%程度である。さらに、この抑制係数Qを用いてランダウ・ミグダル相互作用の係数g'NN、g'NΔを求めた。チュー・ロー模型において、g'ΔΔ=0.6と仮定すると、Q=0.83±0.06からg'NN〜0.6、0.16

 本研究は、GT抑制問題に対して実験的解答を提示すると同時に、ランダウ・ミグダル係数g'NΔに実験的に直接制限を与えた最初の仕事である。g'NΔは中性子星等に於けるパイオン凝縮相の臨界密度の現実的な評価等に必要な量であり、核内パイオン相関に関する今後の研究への貢献度は大きい。

 なお、本論文は共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験施設の建設、実験の遂行、及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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