学位論文要旨



No 117528
著者(漢字) 加隈,良枝
著者(英字)
著者(カナ) カクマ,ヨシエ
標題(和) 家畜におけるグルーミング行動の発現と制御機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 117528
報告番号 甲17528
学位授与日 2002.07.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2467号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 教授 西原,真杉
 東京大学 助教授 山内,啓太郎
 東京大学 助教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

 グルーミング(身づくろい)行動は哺乳類全般を通じてみられる普遍的行動である。病原体や寄生虫の感染を防御するための重要な適応的戦略として、免疫系の賦活化や発熱反応などの生理的戦略とともに進化してきた行動であり、外部寄生虫の除去のほか体温調節や社会的行動における緊張緩和などの役割を果たすことが示唆されてきた。

 哺乳類におけるグルーミングの発現様式や調節機構に関するこれまでの研究の殆どは齧歯類や霊長類等を対象としており、家畜や他の動物種においてグルーミング行動の発現を調節する要因については殆どわかっていないが、グルーミング行動の発現はしばしば飼育動物のストレス状態を示す行動的指標とみなされている。産業動物の行動の特性や行動を司る生理的機構に関する知見を広めることは適正な飼育を推進するにあたって重要であり、種特有の行動パターンの表出が妨げられたり、心理的ストレス状態に陥ることは、動物の繁殖や生産、健康状態に悪影響を及ぼし、畜産効率の低下にもつながる。動物福祉の推進といった社会的要求の高まりに対応するためにも、グルーミングのような自己維持活動の一つとして日常的にみられる行動の発現制御機構に関して解明を進めることは急務となっている。

 グルーミングには大別して個体自身による自己グルーミングと、個体間で行われる相互グルーミングがあるが、本研究ではグルーミング行動の発現制御機構について検討するために、一個体の中で完結する自己グルーミングのみを研究対象とした。グルーミングの生態学的・生理的な適応的意義を裏付けるためには、自然状態でのグルーミングの発生について調べるとともに、様々な状態における体内外からの情報入力に対し、適切な行動を出力するに至るまでの神経系・免疫系・内分泌系の3者の機能連関を含めて、グルーミングの発現制御機構について多角的に分析することが有効であると考えられる。本研究では家畜におけるグルーミング行動の様々な局面での適応的意義について詳しく検討していくために必要となる基礎的なデータを集めることと、性別や年齢等の動物の属性や、ホルモンやサイトカインといった内因性調節因子のグルーミングヘの関与について広く検討することを目的として、一連の観察及び実験を行った。特に中型家畜のシバヤギを対象とすることにより実験的な制御要因の検討が可能となり、同時に飼育下の反芻家畜のモデルとして応用的場面へも反映しうる知見が得られることを期待した。

 本論文は全5章により構成される。第1章において過去の研究について概観した後、第2章では主要な産業家畜におけるグルーミング行動の発現様式に関して種ごとの特徴を把握し、種差について検討するために、ウマ、ウシ、ブタ、ヤギの4種を対象として自由行動下でグルーミング行動の観察を行った。個体追跡法により口吻を用いるオーラルグルーミングと、後肢で掻くスクラッチグルーミングを観察し、グルーミングの生起回数(バウト)と、バウトを構成するひと続きの動作(エピソード)の回数、及び1バウトあたりのエピソード数を算出した。

 その結果、オーラルグルーミングのバウト数はウシ、ヤギで高く、ウマ、ブタで低かった。一方、スクラッチグルーミングのバウト数は4種間であまり差がなかった。ヤギのグルーミングは2種類とも他の家畜種に比べて著しく多く、明瞭であり、グルーミング研究の対象として好適であることが示唆されたため、以下の実験ではヤギを用いた。

 第3章では、グルーミングの自然状態における発現様式とその制御要因について概観する目的で、性別や大きさ、年令の異なる多数のシバヤギを対象としてグルーミング行動の観察を行った。野生動物で観察されたグルーミング行動の性的二型性が家畜種のヤギでもみられるか検討し、その原因としてテストステロン分泌とグルーミング頻度の間に関連があるのではないかという仮説を立て、この仮説を検証するために行動観察と同時に採血を行って血中テストステロン濃度を測定した。農学部付属牧場において飼育されているシバヤギ計46頭(雌25頭、雄21頭)について夏(7月)と秋(10月)に各個体80分間ずつグルーミング行動の観察を行った。この結果、夏にはオーラルグルーミング及びスクラッチグルーミングのいずれについても雌雄間で差はみられなかったが、秋には雄のグルーミング頻度が減少しており、雌雄間で差が認められた。血中テストステロン濃度が高い個体ほどオーラルグルーミングが少ない傾向が認められ、テストステロンは縄張り行動や性行動といった生殖行動だけでなく、グルーミングの発現にも影響を与えている可能性が推察された。また、体サイズや月齢が大きいほどグルーミング頻度が低いという傾向も見出され、これらの結果は野生の有蹄類で得られている結果と一致した。

 そこで、テストステロンにグルーミングの抑制作用があるかどうかを検討するため、去勢した成熟雄シバヤギ5頭を用いてテストステロン長期投与を行い、グルーミング行動の頻度変化を調べた。前節の観察結果から成熟個体のみの結果を抽出して正常雌雄のグルーミング頻度と比較すると、28日間のテストステロン投与期間中の去勢雄のグルーミング頻度は低くなり、正常雄の頻度及び正常雌の夏の頻度と差がなかった。一方、テストステロン投与前と投与終了後の去勢雄のグルーミング頻度は同程度であり、正常雌の秋の頻度と差がない高頻度であった。以上の結果から、生殖関連ホルモンであるテストステロンがグルーミング行動の抑制作用を持っている可能性が強く示された。

 一方、動物が病気になったり慢性的なストレス状態から抑欝や無気力といった状態に陥った場合、グルーミング行動が減少したり、全く行われなくなることは経験的に知られている。第4章では、病態時におけるグルーミング行動の変化について解析し、発現制御に関わる内的因子について検討することを目的として、シバヤギを供試してグラム陰性菌由来のエンドトキシンであるリポポリサッカライド(LPS)投与により急性感染症罹患時にみられる病態反応を惹起し、感染ストレス状態下におけるグルーミング行動と他の行動学的・生理的指標の推移とを比較検討した。卵巣摘除シバヤギ(n=4)を用い、実験区には200ng/kgのLPSを、対照区には生理食塩水を静脈内に単回投与し、その前後11時間にわたり行動観察を行った。観察項目はグルーミングのほか、動物の活動状態を反映する立位/座位変化及び歩行、摂食と反芻であった。その結果、対照区では観察期間を通じてみられたグルーミング行動が、LPS投与区では投与後全く起こらない期間があり、その後回復しても投与前に比べて低頻度のまま推移した。摂食・反芻行動もグルーミングの停止とほぼ同期して消失し、歩行も同じ時間帯に著しく減少した。同様のLPS投与実験から得られた生理的指標の変化に照らすと、このグルーミング行動の停止時間は血中ACTH及びコルチゾール濃度の上昇期間、あるいは体温の上昇開始からピークまでの期間とほぼ一致していた。

 この結果をふまえ、病態反応の一部を抑制するため前節と同様のLPS投与実験において合成コルチコステロイドのデキサメタゾンと非ステロイド系抗炎症剤のフルニキシンという作用機序の異なる2種の薬物を前もって投与した場合の、グルーミング及びその他の行動の発現パターンの差違について分析した。また同時に体温や血中コルチゾール濃度、血中グルコース濃度、白血球数等の生理的指標についても測定し、関連する内的因子について検討した。その結果、投与薬物により各行動指標及び生理的指標に個別の変化がみられ、各行動の発現は別個に調節されていることが推察された。なかでも血中コルチゾール濃度の上昇とグルーミング行動の抑制に関連性がみられ、コルチゾールやその分泌を制御する脳内のCRF及びAVPニューロンが病態時やストレス状態においてグルーミング行動の抑制に関わっている可能性が示された。

 以上の研究結果を通じて得られた結論及び今後検討すべき課題について第5章にまとめ、グルーミング行動の発現制御に関わる要因及び神経内分泌機構について考察した。本研究における観察結果から、グルーミング行動が皮膚への刺激に対する反射によって起こるだけでなく、特にオーラルグルーミングはおそらく内因性の中枢リズム機構によって駆動されているという仮説が支持され、グルーミング行動の発現は少なくともテストステロンや、LPS投与により産生されるサイトカイン及びストレスによる視床下部CRFやAVPニューロンの反応や末梢で分泌されるコルチゾールといった因子の向中枢作用によって、動物の特性や状態に合わせた発現調節を受けていることが示された。一般にストレスにより起こるとされるグルーミングは、ストレス状態の持続中に一時的抑制を受けた反動としてストレス状態の終了後に集中して観察されると解釈できるだろう。

 グルーミングは必要不可欠な行動であるが、例えば繁殖期や病態におかれたときには一時的に性行動や休息を増やしグルーミングを減らすことが、ひいては生涯を通じての適応度を高めることにつながると考えられ、本研究で示されたようなテストステロンやコルチゾールあるいはCRF等の内因性因子による抑制が機能的であるといえる。グルーミングは顕著で明瞭な行動であり客観性及び定量性に優れた指標であるため、その観察により動物の内的状態をモニタリングできれば応用的価値も高く、制御機構のさらなる解明が望まれる。

審査要旨 要旨を表示する

 グルーミング(身づくろい)行動は哺乳類全般にみられる普遍的行動であり、外部寄生虫や汚れの除去のほか体温調節や社会的行動における緊張緩和などの役割を果たすことが示されている。家畜でのグルーミングの発現様式や調節機構については殆どわかっていないが、産業動物の行動の特権や行動を司る生理的機構に関する知見を深めることは適正な飼育を推進するにあたっても重要である。本研究は、家畜におけるグルーミング行動研究の基礎となるデータを集めること、そして性別や年齢といった動物の属性、あるいはホルモンやサイトカインといった内因性調節因子の関与について検討することを目的に行われたものである。

 本論文は以下のように全5章から構成されている。

 第1章は総合緒言であり、過去の研究成果が概観され、本論文の目的が述べられている。

 第2章では、主な産業家畜であるウマ、ウシ、ブタ、ヤギの4種を対象として自由行動下でグルーミング行動の観察が行われた。口吻を用いるオーラルグルーミングと、後肢で掻くスクラッチグルーミングについて生起回数が比較検討された結果、オーラルグルーミングの生起数はウシ、ヤギで多く、一方、スクラッチグルーミングには種間で明らかな差はなかった。ヤギではいずれのグルーミングも他の動物種に比べて著しく多く、かつ明瞭であり、研究対象として好適であることが示されたため、以下の章の実験ではヤギが用いられることとなった。

 第3章では、属性の異なる多数のシバヤギを対象にグルーミング行動の観察が行われ、発現様式とその制御要因についてとくに性的二型性の存在や雄性ホルモンであるテストステロンの影響が調べられた。夏と秋にグルーミング行動の観察と血中テストステロン濃度の測定が行われた結果、夏にはオーラル及びスクラッチグルーミングのいずれについても雌雄間で差はみられなかったが、秋には雄のグルーミング頻度が減少し、雌雄間で差の生ずることが示された。また血中テストステロン濃度が高い個体ほどオーラルグルーミング頻度が低い傾向が見出された。この観察結果をもとに、テストステロンにはグルーミングの抑制作用があるという仮説を立て、これを検証する目的で去勢雄シバヤギにテストステロンの長期投与が行われた結果、グルーミング頻度は有意に低下し、テストステロンのグルーミング抑制作用が確かめられた。

 第4章では、病態時におけるグルーミング行動の変化と、その発現制御に関わる内的因子についての検討が行われた。これは、動物が病気になったり慢性的なストレス状態から抑欝や無気力といった状態に陥った場合、グルーミング行動が減少したり消失することが知られているからである。卵巣摘除シバヤギにリポポリサッカライド(LPS,200ng/kg)を投与して一時的な病態反応を惹起し、グルーミング行動と他の行動指標の変化が調べられた。LPS投与によりグルーミングは一時的に消失し、また摂食や反芻、歩行なども同じ時間帯に著しく減少した。同様なLPS投与実験から得られた生理的指標の変化に照らし合わすと、このグルーミングの停止時間は血中コルチゾール濃度の上昇期間、あるいは体温の上昇開始からピークまでの期間とほぼ一致しており、これらの現象間の関連が示唆された。

 次に、LPSに先立って合成コルチコステロイド(デキサメタゾン)と非ステロイド系抗炎症剤(フルニキシン)という作用機序の異なる2種の薬物を投与した場合の変化が検討された。その結果、投与薬物によって各行動指標及び生理的指標に異なるパターン変化がみられ、ことに血中コルチゾール濃度の上昇とグルーミング行動の抑制に関連性が認められたことから、脳内のCRFやAVPといった神経ペプチドが病態時やストレス状態においてグルーミング行動の抑制に関わる可能性が考察されている。

 第5章は総合考察であり、グルーミング行動の発現制御に関わる要因及び神経内分泌機構に関する考察が展開されている。

 以上、要するに本研究は、グルーミング行動の発現様式とその調節機構に関して行動生理学的な観点から検討を行ったものであるが、グルーミングが中枢リズム機構によって駆動されており、さらに性ホルモンやサイトカイン類、あるいは神経ペプチドといった様々な内的因子によって調節されていることを明らかにし、さらに客観性及び定量性に優れたグルーミング行動の観察により動物の内的状態をモニタリングしうることを示唆するなど、得られた研究成果は今後の応用行動学研究に新たな基礎的情報となりうるものであり、学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は申請者に対して博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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