学位論文要旨



No 117537
著者(漢字) 土屋,敬史
著者(英字)
著者(カナ) ツチヤ,タカシ
標題(和) 希土類錯体の電子状態に関する理論的研究
標題(洋)
報告番号 117537
報告番号 甲17537
学位授与日 2002.07.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5303号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 教授 水野,哲孝
 東京大学 教授 安井,至
 東京大学 助教授 中野,晴之
内容要旨 要旨を表示する

 希土類の最も大きな特徴は、原子番号とともに数を増していく4f電子にある。4f軌道は、強く内側に収縮し、擬縮退した軌道系を形成する。希土類に見られる数多くの特異性の多くは、これら4f軌道を開殻的に占有していく4f電子に起因する。この、s、p、d電子系とは著しく異なった4f電子系の新しい化学に対して現在、実験的にも理論的にも大きな関心が集まっている。しかしながら、4f電子を中心とした複雑な電子相関と、大きな相対論的効果は、ab initio理論化学計算を著しく困難にする。近年急速に注目を集めるようになった希土類系の理論化学の舞台には、それらを満足に扱うための道具すら揃えられておらず、希土類系に対する興味ある実験が精力的に行われている一方で、その理論的な取り組みはこれまで限られたものしか成されていない。

 本研究で、一連の希土類錯体LnX3(Ln=La-Lu;X=Cl、F)に対する理論化学計算をおこなった。その中で、これまでの化学的常識とは著しく異なった4f電子系の特異的な性質を明らかにした。この錯体系は、興味ある研究対象として古くから広範に実験が行われてきた。専らの関心はその基底状態の平衡構造に注がれており、平面構造(D3h)とピラミッド型(C3v)との間で、多くの議論が戦われてきた。本研究では、実験的手法のみでは困難なこれら錯体系の基底状態の平衡構造の決定を、ab initio量子化学計算によって行い、また、電子状態に対する理論的知見を与えた。

 基底状態は、D3hの構造で安定で、LnCl3(LnF3)の結合長は、2.2殻2.5Å(2.2〜2.0Å)と原子番号とともに単調に減少した。Ln上の電荷は、LnCl3では1.6〜1.2と単調減少したのに対し、LnF3では2.1〜2.2のほぼ一定の値を保った。4f電子数は原子番号とともに0〜14まで1つずつ増加し、high-spinの電子構造が最安定であった。結合様式は主にイオン性の結合であるが、5d軌道が関与する共有結合的な性格も強く見られた。4f軌道は結合にはほとんど関与していない。4f軌道の電子占有の方法について、これまでの化学的常識とは異なった特異的な傾向を発見した。Fig.1に示すように、前半(1〜7個)の電子はエネルギーの低い方から順に軌道を占有していくが、後半(8〜14個)の電子はエネルギーの高い方の軌道から順に占有していく。このs、p、d電子とは著しく異なった電子占有の方式は、強く収縮し、擬縮退系を成す4f軌道に特徴的な現象であり、同じ軌道を占有する2つの電子間の強い自己反発相互作用により、軌道のエネルギーが大きく不安定化するために起こることを理論的に解明した。

 LnCl3の各錯体において擬縮退した電子状態は2〜14kJ/molと極めて小さい幅で分裂する一方、spin-orbit相互作用の効果は30〜130kJ/molにもおよび、非常に重要な影響を持つことがわかった。そこで、LnCl3に対し、擬縮退およびspin-orbit相互作用の両方の効果を考慮した総合的な電子状態を取り扱うための理論を組み立て、それを計算した。CeCl3を例としてFig.2に示す。大きな2つの状態群への分裂はspin-orbit相互作用によるものであり、さらにその中で擬縮退系を形成する電子状態群が見られる。すなわちその描像は、spin-orbit相互作用によって30〜130kJ/molの幅で分裂した電子状態群のそれぞれが、2〜14kJ/molの幅で擬縮退系を形成するというものであり、希土類に対するspin-orbit相互作用の重要性が顕著であることを解明した。

 理論計算の精度は、使われる基底関数に大きく依存する。これまでの化学の対象であった軽元素に対しては、十分な精度と信頼性を持った基底関数が整備されている一方で、理論化学的には近年急速に興味の対象となってきた重原子に対しては、十分な信頼をおける基底関数はほとんどない。重原子系においては、相対論的な効果が著しく重要になり、これまでの非相対論的な方法で決められた基底関数では、もはや満足できる結果は得られない。益々対象を広げていくこれからの理論化学の発展のためにも、非常に高精度な相対論的基底関数が現在、必要不可欠である。本研究では、Third-order Douglas-Kroll(DK3)法により、高次の相対論的効果までを考慮した、高精度な相対論的基底関数を開発した。全ての元素に対して同じ精度での取り扱いを保証するため、原子番号1〜103までの全元素に対して基底関数を決定した。

 先ず、周期表の最も右端に位置する元素(希ガス、ローレンシウム)に対し、基底関数の大きさ、すなわち最少且十分なprimitive関数の数を決定した。その数を、同周期の元素に対して適用し、全元素に対してexponentの最適化を行なった。以上の手続きは、全元素に対する基底関数の等しい精度と品質を保証する。開発した基底関数を適用し、Cu、Ag、Auの分子系(CuH、AgH、AuH、Cu2、Ag2、Au2)の基底状態に対する計算を行い、分光学的定数を求めた。SCF、MP2、CCSD及びCCSD(T)の各レベルによる相対論的、非相対論的な計算を行った。Basis set superposition error(BSSE)を。counterpoise法によって見積もり、補正したが、いずれの計算においてもBSSEはほとんど見られなかった。

 CCSD(T)のレベルの計算では、どの分子に関しても実験値を非常に高精度で再現した。Table I(CuH、AgH、AuH)、Table II(Cu2、Ag2、Au2)に示すように、重原子になるほど相対論的効果が重要になるが、開発した相対論的基底関数は、重原子においては必要不可欠な相対論的効果を非常に精度良く考慮できることが示された。

 これまでの研究で、我々は相対論的効果を高精度に考慮するための方法を手に入れた。次の課題は、希土類の複雑な電子相関を取り扱う手段を獲得することである。内殻の多くの電子をポテンシャルで置き換えるEffective Core Potential(ECP)法は、多電子系の理論計算に有効な解決を与えてくれた。高度な電子相関が必要な4f電子系に対しては、その有用性は大きい。特に、ECPのひとつのグループであるModel potential(MP)法はvalence軌道のnode構造を正確に保ち、内側に強く収縮した4f軌道の理論計算においてより優れた威力を発揮する。本研究では、希土類に対し、DK3法により高次の相対論的効果を考慮したAb Initio Model Potential(DK3-AIMP)の開発を行った。

 DK3-AIMPは、クーロンポテンシャル、交換演算子、core shiftin演算子の3つの部分からなっている(1)。

 クーロンポテンシャルは、ガウス型関数の和にフィッティングされ(2)、交換演算子は、任意の基底関数系を用い(3)のように演算子の形で表わされる。core shifting演算子は、内殻軌道と軌道エネルギーからなる(4)。

 本研究では、希土類(Ce〜Lu)のvalence電子構造[(5s)2(5p)6(4f)n(5d)1(6s)2]を持つ状態に対し、AIMP及びvalence基底関数を決定した。クーロンポテンシャルは13項のガウス型関数にフィッティングし、(4)式中の内殻軌道と軌道エネルギーを記述するのに、先に開発した相対論的基底関数を用いた。開発したAIMPを用いた計算において、原子のValence軌道のエネルギー及び期待値(<r>)は、all electron計算によるものを非常に良い精度で再現した。開発したAIMPの分子計算に対する適用性を示すため、CeO(f=1)、EuO(f=7)、YbO(f=4)に対し、AIMP計算によって求めた基底状態の分光学的定数を、all electron(AE)計算による結果と比較してTable IIIに示す。SCF及び電子相関を考慮したCISD+Qのいずれの計算においても、AIMPの結果はall electronの結果を高い精度で再現した。

 希土類系に対する理論化学計算の難しさは、大きな相対論的効果と、擬縮退した4f軌道系の存在にある。これらは、数多くの興味ある性質が実験的には古くから調べられてきた希土類の化学に対するab initio理論計算の進出を強く妨げてきた。本研究の前半で行なった一連の希土類錯体に対する理論化学計算のなかで、これまでのs、p、d電子系の常識とは著しく異なった4f電子系の特徴が明らかになった。希土類の興味ある多くの特異性を明らかにするためには、これら4f電子の性質をより詳細に理解し、新しい4f電子の理論化学を創り上げることが必要であろう。ところが、希土類に対する理論計算は未だ成熱した分野ではなく、高精度な相対論的効果、高度の電子相関を考慮した計算はこれまで極めて困難であった。本研究で開発した相対論的基底関数は、希土類系に対する相対論的効果のより高精度な取り扱いを可能にした。そしてそれを応用して作られた相対論的AIMPは、高精度な相対論的効果をより高レベルの理論化学計算の中で考慮することを可能にした。それらはともに、今後益々盛んになるであろう新しい4f電子の理論化学の飛躍的な発展の端緒と成り得るものに違いない。

Figure 1. The 4f-electron configurations of the ground state for the respective LnCl3 calculated by the UHF method;

the first seven electrons occupy f-orbitals one by one from the lowest one upward; the following seven electrons from the highest one downward.

Figure 2. Energy levels of the spin-orbit coupled states, including 14 states for CeCl3.

Table I.

Bond lengths (Re), harmonic frequencles (ωe) and dissociation energies (De) for the ground states of CuH, AgH and AuH calculated by the relativistic (DK3) and nonrelativistic (NR) CCSD(T).

Table II.

Bond lengths (Re), harmonic frequencies (ωe) and dissociation energies (De) for the ground states of Cu2, Ag2 and Au2 calculated by the relativistic (DK3) and nonrelativistic (NR) CCSD(T).

Table III. Spectroscopic constants of ground states of CeO (3φ), EuO (8Σ-), YbO(1Σ+).

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、「希土類錯体の電子状態に関する理論的研究」と題し、全8章で構成されている。希土類化合物を理論的に取り扱う方法論を開発するとともに、希土類化合物の興味ある現象を理論的に解明し、理論化学の適用範囲を希土類化合物に拡張したものである。希土類化合物は古くからs、p、d電子系とは異なる数多くの興味ある性質が知られており、実験データも豊富であるが、理論的には極めて難しい系である。希土類の特徴は擬縮退した4f軌道の存在である。いわゆる電子相関効果が重要であり、また相対論効果も無視できない。希土類の興味ある多くの特異性を明らかにするには、これら4f電子の性質をより詳細に理解し、新しい4f電子の理論化学を創り上げることが必要である。そのためには高精度な相対論的効果、高度の電子相関を考慮した計算法の開発が求められていた。本研究で開発された相対論的基底関数は、希土類系に対する相対論的効果の高精度な取り扱いを可能にし、また、それを応用して開発された相対論的ab initio Model Potential(AIMP)は現実の希土類化合物の高精度理論計算に道を拓いたといえる。

 第1章の序論に続く第2章では希土類化合物の理論計算の問題点およびその解決法が述べられている。相対論効果と電子相関効果をいかに効率よく取り込むかを議論し、新しい相対論効果を含む基底関数の開発および原子価電子のみをあらわに扱うモデルポテンシャル法の開発の必要性が記述されている。

 第3章は一連の希土類錯体LnX3(Ln=La-Lu;X=Cl、F)に対する理論化学計算を詳細に解析し、これまでのs、p、dの化学とは著しく異なった4f電子系の特異的な性質を明らかにしている。この錯体は興味ある研究対象として古くから広範に実験が行われてきた。とくに平面構造(D3h)かあるいはピラミッド型(C3v)かで多くの議論があった。本研究ではab initio量子化学計算からこれら錯体の基底状態の平衡構造が平面D3h構造であると断定し、Lanthanide収縮、aufbau原理に従わない電子配置をとることなど希土類に特徴的なさまざま現象に理論化学から新しい知見を与えている。

 第4章は相対論的効果を含む基底関数の開発について述べてある。理論計算の精度は基底関数に大きく依存する。これまでの理論化学の対象であった軽い原子に対しては、十分な精度と信頼性を持った基底関数が整備されているが、重い原子に対しては、十分に信頼がおける基底関数はほとんどない。重い原子系においては、相対論的な効果が重要であり、これまでの非相対論的な方法で決められた基底関数は十分ではなく、相対論的基底関数の開発が強く求められていた。本研究では、原子番号1〜103までの全元素に対し、Third-order Douglas-Kroll(DK3)法により高次の相対論的効果を考慮した高精度な相対論的基底関数を開発している。開発した基底関数はCu、Ag、Auのdimer、hydrideに適用され、開発した基底関数が高精度計算を保証するものであることを数値計算から検証している。

 第5章は第4章で開発された相対論的効果を含む基底関数を使って希土類分子、CeOの定量的計算を実施し、CeOのさまざまな物性に対する相対論効果を明らかにしている。

 第6章では希土類化合物の理論計算を実用化するために、多くの内殻電子をポテンシャルで置き換えるEffective Core Potential(ECP)法を開発している。ECP法は多電子系の理論計算に有効であり、特に電子相関が重要な4f電子系に対してはその有用性は大きいと期待される。本章ではすべての希土類元素に対し、DK3法により高次の相対論的効果を考慮したAb Initio Model Potential(DK3-AIMP)の開発を行っている。

 第7章は第6章で開発したDk3-AIMP法を利用して、Yb0の物性、特に振動数と結合長に関する永年の議論に1つの解答を与えている。

 以上のように本論文では、希土類化合物に対するいくつかの興味ある現象を解明するとともに、複雑な電子構造をもつ希土類化合物を取り扱うための理論的方法論を開発したものである。今後ますます盛んになるであろう新しい4f電子の理論化学の飛躍的な発展の端緒を与えたものとして高く評価される。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク