学位論文要旨



No 117557
著者(漢字) 東郷,史治
著者(英字)
著者(カナ) トウゴウ,フミハル
標題(和) 日中の身体活動と夜間の睡眠状態に関する実験的研究
標題(洋)
報告番号 117557
報告番号 甲17557
学位授与日 2002.09.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第86号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武藤,芳照
 東京大学 教授 衞藤,隆
 東京大学 教授 山本,義春
 東京大学 教授 市川,伸一
 東京大学 教授 中田,基昭
内容要旨 要旨を表示する

 睡眠の重要なはたらきの一つは,活動-休息の恒常性維持(ホメオスタシス)である。例えば,エネルギー保存,身体・精神の疲労回復のはたらきが睡眠に備わっていると考えられているように,睡眠は単なる休息ではなく,覚醒時の活動によって生じる,疲労・消耗からの回復を促す積極的な休息の期間と捉えられている。とりわけ,ノンレム睡眠に属する深睡眠(Stage IIIまたはStage IV)は,脳波が大振幅の低周波で占められることから,大脳皮質の神経活動が非常に低下する時期であり,また,心拍数や血圧が他の睡眠段階と比較して最も低いことから,心臓血管系機能の活動水準も低下する時期であるので,恒常性維持のはたらきとの関連が示唆されている。日中の身体運動による夜間の睡眠状態への影響に関する研究は,このような睡眠の恒常性維持のはたらきを明らかにするためのアプローチの一つとして重要である。しかしながら,これまでの研究報告では,睡眠構造への影響を検討するにとどまっている。

 これらを背景に,本論文では,睡眠障害を持たない若年健常成人を対象に日中の身体運動実施が深睡眠時の脳波および心臓血管系の動態に及ぼす影響について,実験的に明らかにすることを目的とした。

 具体的には,まず,深睡眠時における1拍ごとの心電図のR波の時間間隔(RR interval;RRI)および血圧(systolic blood pressure;SBP)の動態について検討することから始めた。

 睡眠時の大脳皮質の活動水準は睡眠段階の移行にともないダイナミックに変動する。つまり,心臓血管系の自律神経中枢の活動に影響を及ぼす大脳皮質,視床,辺縁系等の神経活動が睡眠段階によって異なることから,これらの活動性を反映すると考えられるRRI時系列データ(心拍変動)に含まれる広帯域・低周波で時間相関を持つフラクタル(非周期性)成分の性質が睡眠段階によって異なるとの仮説が立てられた。そこで,睡眠時に得られた心拍変動のフラクタル成分について,近年提示された数学的手法(coarse graining spectral analysis;CGSA法)を用いて検討した。

 その結果,データ長が約10分程度の短期心拍変動に含まれるフラクタル成分の割合(%Fractal)が,他の睡眠段階と比較して深睡眠時に有意に減少することが明らかとなった(図1)。また,深睡眠時では,心拍変動のフラクタル成分を周波数(f)-パワーの2次元平面に両対数軸で表示(1/fβプロット)した際のスペクトルの傾き(-β)も有意に低下し,心拍変動のフラクタル成分は,よりホワイトノイズ様になることが示唆された。したがって,短期心拍変動に含まれるフラクタル成分は,主に,中枢性の非反射性自律神経調節によって生じるのではないかと考えられた。つまり,心拍変動のスペクトルを用いて心臓血管系の自律神経活動を推測する際には,そのフラクタル成分の性質が各睡眠段階で異なることに注意する必要があると考えられた。

 続いて,深睡眠時の心臓血管系の動態についてさらに検討した。深睡眠時では,大脳皮質,視床,辺縁系等の神経活動が非常に低下し,さらには体動も消失する。したがって,心拍変動あるいは血圧変動には,脳幹の自律神経活動そのものが相対的に強調されて現れることになると考えられる。こうした活動を反映する可能性を持つ相動的な変動が,睡眠障害を持たない,よく眠ることができる健常成人において,深睡眠時の心拍変動と血圧変動に存在するとの仮説を検証した。

 本論文の実験において,夜間睡眠時の睡眠構造に特に異常が認められなかった健常成人を対象に深睡眠時の1拍ごとのRRIとSBPの動態について調べたところ,一部の被検者で,前脛骨筋電図(tibialis anterior electromyogram;EMGTA)の周期的な一過性の活動増加に同期するRRIの相動的な減少・増加(phasic tachycardia and bradycardia;PTB)およびSBPの相動的な増加(phasic hypertension;PHT)が認められた。そこで,本論文では,そのPTB/PHTを,脳波の覚醒反応をともなわないような心臓血管中枢の相動的な活動増加によって生じるRRIとSBPそれぞれの相動的変動のプローブとして用い,EMGTAに周期的な活動増加が認められなかった残りの被検者においても,深睡眠時のRRI,SBP各時系列データに同様のPTB/PHTが存在するか,テンプレートマッチングの手法を用いて確認した。

その結果,EMGTAに周期的な活動増加が認められなかった全ての被検者で,EMGTAの相動的な活動増加をともなうPTB/PHTの動的特性と同様のエピソードが,他の睡眠段階と比較して深睡眠時で最も多く検出された(表1)。したがって,それらの動的特性は深睡眠時で特徴的であると考えられた。また,この場合,EMGTAの相動的な活動増加による外的影響はないことから,内因性の心臓血管中枢の活動増加によってそれらの変動が生じた可能性があると考えられた。

 以上のことを踏まえ,本論文では,深睡眠時の心臓血管系の動的特性の指標として,心臓副交感神経の持続性活動と関連する心拍変動の周期性成分の高周波成分(>0.15Hz),およびPTB/PHTの振幅とその出現間隔を用いるとともに,脳波から判定される睡眠構造および深睡眠時の脳波の動態について,日中の身体運動の実施による影響を調べた。

 その結果,身体運動実施後の睡眠では,日中に身体運動を特におこなわないコントロール時と比較して,深睡眠の累積時間が有意に延長,消灯してから初めて深睡眠が出現するまでの時間が有意に短縮,消灯してから初めてレム睡眠が出現するまでの時間が有意に短縮,との変化が認められた。つまり,第一睡眠周期で睡眠構造が質的に向上した。ただし,そのときの脳波の徐波成分(0.75-4.5Hz)の振幅を定量化した徐波活動には有意な影響は認められなかったことから,深睡眠の深度あるいは質は向上しなかったと考えられた。

 一方,身体運動の実施によって,第一睡眠周期における深睡眠時の平均RRI(心拍数)が有意に減少(増加)した。また,そのときのPTB/PHTの出現頻度は変わらなかったが,それらの振幅が身体運動実施後の深睡眠時に有意に増加した。このことから,心臓血管系交感神経系の活動水準,あるいは脳幹での覚醒レベルが,身体運動実施後の第一睡眠周期における深睡眠時に一過性に高まったと推測できた。さらに,深睡眠時における心拍変動の周期性成分のみから算出した呼吸性不整脈の大きさには,身体運動の実施による影響は認められなかったことから,副交感神経活動は増加するのではないと考えられた。

 以上の結果より,身体運動の実施によって,睡眠構造の質的改善が促された一方で,心臓血管系においては,深睡眠時で積極的に機能低下が促されるのではないことが示唆された。これらの結果は,身体運動の実施を不眠の改善策として用いる際の新たな資料となりうるものであるとも考えられた。

図1:睡眠前仰臥位安静覚醒(A),軽睡眠(Stage IまたはStage II;L),深睡眠(Stage IIIまたはStage IV;D),そしてレム睡眠(Stage REM;R)時における心電図のR波の時間間隔(RRI),収縮期血圧(SBP),瞬時呼吸曲線(IW)各時系列データの総パワーに対するフラクタル成分の割合(%Fractal)。

値は9名の平均値±標準誤差。*,Aの値と有意(P<0.05)に異なる;†,AおよびRの値と有意(P<0.05)に異なる;‡,A,LおよびRの値と有意(P<0.05)に異なる。

表1:各テンプレート群(TPE,TPI)を用いて検出されたPTB/PHTエピソードの時間領域での計測値

値は前脛骨筋電図(EMGTA)に周期的な活動増加が認められなかった被検者(n=7)の平均値±標準偏差。括弧内はEMGTAに周期的な活動増加が認められた被検者(順にsubj.E,subj,I)の値。テンプレートマッチングによって検出された相動的な頻脈と徐脈および相動的な昇圧(PTB/PHT)のエピソードの10分間あたりの平均総数(the number of PTB/PHT),およびその出現間隔の平均時間(mean IT;s)と標準偏差(SDIT;s)への睡眠段階(覚醒,入眠前仰臥位安静覚醒;軽睡眠,Stage IまたはStage II;深睡眠,Stage IIIまたはStage IV;レム睡眠,Stage REM)の影響を示した。†,他の睡眠段階時の値と比較して有意(P<0.05)に異なる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、日中の身体活動が夜間の睡眠の構造並びに深睡眠時の心臓血管系の動態に及ぼす影響に関する実験的研究をまとめたものである。全体は、6章で構成されている。まず、「ヒトの睡眠とその恒常性維持機能」(第1章)、「ヒトの心拍変動と血圧変動」(第2章)について論考し、本研究の位置づけと意義を明確にした後、3つの実験の内容と結果を示し(第3章、第4章、第5章)、総括論議を行っている(第6章)。

 睡眠、とりわけ、ノンレム睡眠に属する深睡眠(Stage IIIまたはStage IV)は、大脳皮質の神経活動が非常に低下するとともに、心拍数や血圧が他の睡眠段階と比較して最も低くなることから、「休養の神経系」とされる副交感神経活動が亢進する時期であると考えられてきた。そして、深睡眠の出現時間は、日中の身体運動実施後に延長することが先行研究で示されている。また、近年、副交感神経の活動水準は、一般的に心電図R波の時間間隔時系列データ(心拍変動)をスペクトル解析して推定されているが、先行研究では睡眠時の検討はなされていない。これらを背景に、本論文では、健常若年成人を対象に、日中の身体運動実施が深睡眠時の脳波及び心臓血管系の動態に及ぼす影響について、実験的に明らかにすることを目的としている。

 第1の実験では、心拍変動に含まれるべき型の時間相関をもつ成分(フラクタル成分)の割合並びにその指数が、覚醒時及び他の睡眠段階と比較して深睡眠時に減少することを明らかにし、心拍変動のスペクトル解析を用いて自律神経活動を推測する際には、こうした特性を考慮する必要があることを示している。

 第2の実験では、深睡眠時には、一過性の脳波覚醒や筋活動(前脛骨筋)が生じない場合でも,筋活動を伴う心拍と血圧の相動的な変動と同様の変動が、覚醒時及び他の睡眠段階と比較して数多く存在することを明らかにし、これは深睡眠時の動的特性の一つであることを示している。

 これらの知見を踏まえ、第3の実験で、有酸素性運動の実施が睡眠構造及び深睡眠時の大脳皮質の活動並びに心臓血管系の動態に及ぼす影響について検討している。その結果、低強度の自転車駆動を入床(消灯)6時間前から4時間前まで2時間実施することによって、消灯から入眠までの時間が短縮する、深睡眠の出現時間が延長する等、第1睡眠周期で睡眠構造は質的に向上するが、深睡眠時の副交感神経活動は亢進することはなく、むしろ交感神経活動が一過性に亢進することを示している。すなわち、日中の身体運動後、夜間の深睡眠時に副交感神経活動は、必ずしも亢進するわけではないとの新たな知見を得ている。

 以上のように、本論文は、ヒトの身体活動と睡眠との関係並びに深睡眠時の生体変化の解明を一歩進める信頼性のある知見を提示し、身体教育学の研究の発展に寄与し得ると考えられ、博士(教育学)の学位論文として十分に優れたものであると判断された。

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