学位論文要旨



No 117558
著者(漢字) 福崎,千穂
著者(英字)
著者(カナ) フクサキ,チホ
標題(和) 心拍変動の複雑さの成長および加齢による変化
標題(洋)
報告番号 117558
報告番号 甲17558
学位授与日 2002.09.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第87号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山本,義春
 東京大学 教授 武藤,芳照
 東京大学 講師 多賀,厳太郎
 東京大学 教授 佐々木,正人
 東京大学 教授 金森,修
内容要旨 要旨を表示する

 心臓の1分間あたりの拍動回数を、一般に心拍数と呼んでいる。この心臓の拍動間隔を連続して測定し記録してみると、1拍ごとに長くなったり短くなったりと微妙に変動していることが観察される。この時系列を心拍変動と呼んでいる。

 健康な状態では拍動間隔は規則的で、不整脈などなんらかの欠陥があるときにリズムが乱れると仮定すると、規則的な心拍変動は正常な状態を反映し七おり、変動が不規則になるほど異常であると予想される。ところが、実際に健康な人や心疾患のある人の心拍変動を測定してみると、健康な人ほど変動は不規則で複雑であり、疾患がある人では、変動が規則的になったり、ほとんど変動がみられないことが知られている。つまり心拍変動の複雑さの様相は、心拍変動を生み出す生理的メカニズムの状態を反映するものであるととらえることができる。

 一方、疾患だけでなく、誕生から死に至るまでの物理的な時間経過によっても、心臓の拍動間隔を調節する生理的メカニズムは変化することが予想される。そこで本論文では、心拍変動の複雑さに、成長、老化の過程がどのような形で現れるのかを調査することを目的とした。

 上記の目的のために、次の3つの研究を行った。

 研究1

 ここでは、生後1年間の心拍変動の複雑さの変化を調べた。生後1年間には、からだのサイズをはじめ、身体諸機能が劇的に変化していることが予想される。そのため、本論文では特に生後1年間に着目し、心拍変動の複雑さを縦断的に検討することとした。

 対象者は9名の健康な乳児で、2週に1度の割合で、生後1歳ころまで可能な限り測定を行った。測定にあたっては、乳児の保護者から同意を得た。乳児が安静状態を維持していると検者が判断した間、仰臥位の心拍変動(RRI)を記録した。記録は少なくとも拍動間隔が600点記録されるまで行い、それ以上長いデータに対しては、600点を一区切りとして解析を行い、10点ずつデータをずらして移動平均した値を求めた。

 心拍変動の複雑さの指標として、RRIをCGSA法でスペクトル解析して得られたスペクトル指数βと、DFA解析して得られた指数αを用いた。βもαも時系列相関にもとづく複雑さを評価することができる。両者とも値が大きいほど時系列は複雑さを失う。

 また本研究では、拍動間隔の1拍ごとの差分(〓RRIn=RRIn+1-RRIn)の時系列からその符号(sign)と絶対値(magnitude)の時系列を作成し、それぞれに対しDFA解析を行いαを算出した。

 その結果、個人間によりばらつきはあるものの、複雑さの指標であるβやαは生後日数にともない低下する傾向がみられた。すなわち、生後日数にともない心拍変動の複雑さが増す傾向が観察された。

 一方、sign時系列のαは、生後日数にともない減少する傾向が認められたが、magnitude時系列にはそのような変化は認められなかった。Sign時系列のαの低下は、時系列の相関から考えると、弱いcorrelateからuncorrelateを経て、anticorrelateへの変化であった。そして、magnitude時系列の相関(correlate)の性質と考え合わせると、生後1年間に、大きな(小さな)正の値の次にはまた大きな(小さな)正の値が現れやすい時系列から、大きな正(負)の値の次には大きな負(正)の値が現れ、小さな正(負)の値の次には小さな負(正)の値が現れやすい時系列へと変化したことがわかった。

 これらをまとめると、生後1年間には心拍変動の複雑さが増し、また時系列のもつ相関関係が変化することで、心拍変動は複雑にゆらぎながらもある平均的なレベルを保つのに優れた変動へと変化したことがわかった。

 研究2

 ここでは、乳児、若年者、高齢者の心拍変動の複雑さを比較した。人間の一生の初期の段階、一通り身体諸機能の成長が完成した段階、そして老化が進んだ段階での心拍変動の複雑さを調べることで、一生にわたる心拍変動の複雑さの変化を概観することとした。

 対象は、乳児群として研究1で対象とした生後330-400日のデータを用いた(n=10)。また27.62±3.75歳(mean±SD)の若年者13名と71.88±5.30歳(mean±SD)の高齢者8名を対象に心拍変動の測定を行った。対象者に対し、研究に関する説明をし、同意を得てから測定を行った。対象者が仰臥位安静状態を保持している間、600点のRRIが記録されるまで測定を行った。

 心拍変動の複雑さの指標として、スペクトル指数βと、DFA解析して得られた指数αを用いた。また、sign時系列とmagnitude時系列に対してもDFA解析を行い、それぞれの指数αを算出した。

 その結果、βやαからみた心拍変動の複雑さは若年者で最も高くなっていた。つまり、心拍変動の複雑さは、成長にともない獲得され、老化とともに失われていくものであることがわかった(図1)。また、sign時系列やmagnitude時系列の相関も年齢によって異なり、結果として心拍変動の性質に影響を与えていることがわかった。

 研究3

 ここでは、心拍変動の複雑さにもたらす年齢の関与の程度について検討を行った。何らかの事象が年齢と相関をもって変化していても、年齢の直接的な影響がその変化を生じさせているとは限らない。例えば、実際にその事象に変化をもたらしているある要素が、年齢との間に相関関係をもっていると、年齢と事象との間にも相関が生じるのである。そこで研究3では、年齢が心拍変動の複雑さに直接影響を及ぼしているかどうかについて因子分析を用いて検討した。

 対象は健康な男性124名(年齢層16-69歳;45.4±13.2歳)、女性249名(年齢層16-69歳;44.8±12.1歳)とした。対象者に対し、研究に関する説明をし、同意を得てから測定を行った。彼らに対し、安静時心拍変動、形態(身長、体重、%fat)、血液性状(トリグリセロール値、総コレステロール値、HDLコレステロール値、血糖値)、有酸素性の体力の測定を行った。安静時心拍変動に対しては、CGSA法でスペクトル解析を行い、周波数成分からは低周波域(0.0-0.15Hz)のパワーと高周波域(<0.15Hz)のパワーを求め、フラクタル成分からはスペクトル指数βとフラクタル成分全体のパワーを求めた。

 これらの指標に年齢を加えた変数群に対し、因子分析を行った。その結果固有値が1以上であった共通因子に対し、バリマックス回転を施した。

 その結果、心拍変動の複雑さの指標βと高周波域パワー、そして年齢が、ある共通因子に強い相関をもつ変数として抽出された。またこの共通因子に対し、男女ともに高い相関を示した指標は他になかったことから、心拍変動指標のうち副交感神経のみの影響を反映するβや高周波域パワーの加齢変化は、他の指標を介さない年齢そのものの影響によるものであることがわかった。

 まとめ

 これらの研究により、心拍変動の複雑さは誕生時にすでに獲得されているものではなく、成長にともなって獲得され、老化とともに失われていくことが明らかとなった。心拍変動は、その時系列の統計的な性質から考えると、複雑であるほどある一定のレベルを保つのに優れた変動であるといえる。したがって、心拍変動の複雑さの年齢による変化は、このような安定性維持能力の変化であるともいえる。

図1心拍変動の年齢による違い

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、心臓拍動間隔の時系列(心拍変動)を「複雑さ」という視点から解析し、その成長や加齢にともなう変化を調べたものである。論文は、「心拍変動の複雑さの生後1年間の縦断的変化」、「乳児、若年者、高齢者の心拍変動の複雑さの比較」、「心拍変動の複雑さへの年齢関与の検討」という3つの研究を含む全6章から構成されている。

 第1章では、心拍変動の自律神経生理学的機序について説明し、続く第2章では、本論文で指標とした心拍変動の複雑さとは、べき型の時間相関をもつ時系列として心拍変動を解析した際の「指数」であること、このような時系列の複雑さが近年生体の動的安定性調節能力の指標として注目されていることを説明し、研究の意義について確認している。

 第3章では、乳児に対し生後1年まで縦断的な測定を行い、生後日数にともない心拍変動の複雑さが増大していくこと、特に起立性循環調節の重要性が増す直立姿勢獲得期前後(生後約1年)に劇的な増大がみられることを明らかにしている。また、心拍変動を構成する増分過程の絶対値と符号の時系列についても解析を加え、乳児心拍変動の複雑さの変化の背後には、符号時系列の変化があることを明らかにしている。そして、ここでみられた複雑さの増大は、符号時系列の性質から考えて、過去の増加(減少)が未来の減少(増加)によって補われ、結果としてより安定した状態を保つ能力が向上したことを反映するとしている。

 第4章では、生後1年前後の乳児、若年者、高齢者の心拍変動の複雑さを第3章と同じ解析手法を用いて比較し、若年者で最も心拍変動が複雑であることを明らかにし、心拍変動は成長とともに複雑になり、加齢にともない複雑さが失われていくことを示唆している。

 第5章では、約400例の成人の横断的データを用い、年齢を含め、心拍変動に影響を及ぼす可能性のある複数の指標について因子分析を行った。その結果、心拍変動の複雑さは年齢との相関が最も高く、他の指標を介さない年齢そのものの影響によって加齢変化(低下)が生じている可能性を示している。

 第6章では、心拍変動のべき型時間相関から推察される生体の動的安定性調節能力に関して、その概念に関するこれまでの研究について概観し、本論文の結果は、「複雑性が動的安定性をもたらす」という近年のホメオダイナミクス論の枠組みと合致するものであったと論じている。

 このように本論文は、心拍変動の複雑さは年齢によって異なることを明らかにし、その変化が生体の動的安定性調節能力の変化と関連があること示唆したもので、ヒトの一生に渡る自律神経調節機能の変容に関して新しい知見をもたらしたものであるといえる。未だ萌芽的段階にあるホメオダイナミクス論に関する理解度の甘さも指摘されたが、それにより本論文の学術的価値が損なわれるものではないと判断された。よって、本論文は博士(教育学)の学位論文として優れたものであると判断された。

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