学位論文要旨



No 117559
著者(漢字) 趙,眞九
著者(英字)
著者(カナ) チョウ,ヂング
標題(和) 朴政権の登場と60年代の韓米関係 : 国家的自立追求と構造的脆弱性
標題(洋)
報告番号 117559
報告番号 甲17559
学位授与日 2002.09.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第169号
研究科 法学政治学研究科
専攻 政治専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五十嵐,武士
 東京大学 教授 北岡,伸一
 東京大学 教授 高橋,進
 東京大学 教授 藤原,帰一
 東京大学 助教授 木宮,正史
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は、朴正煕が政治の表舞台に登場する軍事クーデター(61年5月)前後から68年末までの時期を主たる考察対象として、60年代の韓米関係を総合的に理解するために、「構造的脆弱性」とも呼ぶべきものに焦点を当てて考察することを目的にしている。すなわち、ここで言う「構造的脆弱性」とは、軍事クーデターで登場した朴正煕が、自らの設定する課題を達成する上で克服していかねばならなかった、課題に内在する基本的な条件での基盤の弱さであり、経済発展、安全保障、韓米関係という三つの課題のいずれにも伴っていた。本稿では、そのような観点から、第1に朴政権の成立とその課題、第2に韓国軍のベトナム派兵問題、第3に北朝鮮との関係について、順を追って検討していくことにしている。

 まず第1章では、軍事クーデターから63年12月第3共和国がスタートするまでの軍政期を考察対象に、朴正煕政権がどのように誕生し、どのようにして政権の安定性を確保していったのか、また政権の安定性を確保するためにどのような課題を設定し、それをいかにして達成しようとしたのかを解明する。軍事政権は前政権の無為無能を厳しく批判しながら「祖国近代化」をキャッチフレーズに掲げたが、その祖国近代化とは、北朝鮮との緊張関係が続く中で、破綻に直面した経済を立て直して米国の援助に依存しなくてもすむ自立経済の達成を意味しており、経済のみならず安全保障面においても米国に全面的に依存していたことに鑑みれば、そのために友好的な対米関係を築くことができるかどうかが政権の存立そのものに関わる重大な問題であったといえよう。

 しかし、軍事政権に対して米国政府は、民主的な手続に基づいて選ばれた合憲政府を倒したことに対する当初の強い反感に加えて、革命公約に掲げた民政移管をめぐる朴正煕の二転三転する態度に不快感を露にしただけでなく、対韓援助の中止をほのめかしつつ、機会あるごとに早期民政移管を要求し続けた。また米国は、北朝鮮が軍事重視の政策に転換していた状況の中で従来の軍事重視の対韓政策を改めようとしたのみならず、経済的負担の軽減を理由に韓国軍の縮小の必要を韓国政府に要求していた。従って、韓国は、経済発展や安全保障という課題に内在するものに加えて、それらの課題と切り離して考えることのできない韓米関係にも内在する構造的脆弱性を抱えていた。そして、そうした構造的脆弱性を打開して、友好的な韓米関係をいかに再構築していくのかが、第3共和国政府の先決課題として浮上するようになったといえる。

 第2章では、ジョンソン政権による「より多くの旗」政策の提唱以来、米国政府がベトナムヘの介入を深めていく過程とそれと連動して韓国が非戦闘部隊と戦闘部隊を相次いで派兵する過程を跡付ける。事実、60年代の韓米関係は、韓国軍のベトナム派兵を抜きにして語ることはできない。米国外交文書の公開が進むにつれて、韓国軍のベトナム派兵に関する実証研究が進展を見せているものの、既存の研究は、派兵を通して韓国が得た経済的利益に焦点を当てて、それが韓国の経済発展に及ぼした影響を肯定的に捉えるものが多く、韓国軍のベトナム派兵が韓国の安全保障や南北関係にいかなる影響を与えたかは、必ずしも十分に論じられてこなかったように思われる。それに対して、本稿は、軍政期に味わわされた韓米関係に内在する構造的脆弱性を克服するために、韓国政府がどのような努力をしたのかに焦点を当てながら、特に経済面に焦点を当てた従来の研究とは異なって、安全保障や韓国の外交的イニシアチブを重視して扱う。つまり、米国政府の派兵要請に対して韓国政府はやむなく応じたのではなく、反共陣営の一員として南ベトナムの対共闘争に積極的に貢献することによってもたらされる経済的利益を韓国経済の建て直しに活用しながら、対米関係における韓国の立場をより対等なものにするとともに、国際社会における韓国の地位向上をはかることによって、国民の生活水準を高めて対内的な正統性を確保し、同時に対外的にも形の上でだけでなく実質的に韓国が自主独立国家として国際社会で独り立ちすることができるようにすることを目指していたように思われる。

 第3章では、従来の研究が殆んど注意を払わなかった北朝鮮要因に注目しつつ、韓米関係を再吟味することにする。つまり、66年秋頃から激しくなる北朝鮮の対韓攻勢の背景をなす「南朝鮮革命論」に注目しつつ、それが韓米関係にいかなる影響を及ぼしたのかを分析する。1個軍団規模まで膨らんだ韓国軍のベトナム派兵は、明らかに対北防衛力の弱体化を意味するものであり、韓国国会で派兵案が審議された際の最大の争点となった。それゆえ、韓国政府は米国の確固たる対韓防衛コミットメントの保証を求めながら、国内では代替部隊の創設や老朽化した装備と兵器の近代化をはかろうとしたのである。しかし、韓国側の要望に対する米国側の対応は冷たいものであり、ベトナム戦争の遂行を優先する米国は、66年10月以後北朝鮮が対韓挑発行為をエスカレートしていったにも拘らず、さらなる戦闘部隊の派兵を韓国政府に要求した。

 北朝鮮の対韓攻勢と米国の増派要請というジレンマに立たされた韓国は、対北防衛力の低下という問題を抱えながらも、同盟国である米国の対韓防衛コミットメントに期待しつつ、老朽化していた韓国軍の装備や兵器の近代化をはかるべく、新型装備や兵器の提供を受けるのと引き換えに、軽歩兵師団を増派することで米国と合意した。しかし、68年1月北朝鮮による韓国大統領官邸襲撃未遂事件と米海軍情報収集艦プエブロ号拿捕事件は、軽歩兵師団の派兵を事実上不可能なものにしただけでなく、韓米関係を極度の緊張関係に陥らせることになった。なぜならば、韓国政府が、北朝鮮の挑発行為に対しては消極的な態度を取りながら、プエブロ号乗組員の帰還のためには韓国政府の頭越しに北朝鮮と直接交渉を始める米国に不満を抱いていたのに対して、米国政府は北朝鮮の挑発行為に対する韓国の報復行動がさらなる北朝鮮の攻撃行動を呼び起こすかも知れないと懸念していたからである。その過程で韓米両国は互いに対する従来の政策を捉え直さざるを得なかった。韓国は米国のベトナム戦争遂行への協力より、郷土予備軍の武装や韓国軍の近代化を通じて自主防衛能力を強化して、安全保障面で米国に頼らない対米自主路線を歩もうとした。他方、米国はプエブロ号乗組員の帰還のための米朝直接交渉に対する韓国の理解と北朝鮮に対する韓国の報復行動の自制を説得するために、ヴァンス前国防副長官を大統領の特使として韓国に派遣し、1億ドルの追加軍事援助の提供を約束せざるを得なかった。そのヴァンス訪韓を機に、韓米間の意見の対立は一見解消したかのように見えたにも拘らず、それは表面的なものでしかなかった。ヴァンス勧告を受けて米国では対韓政策の全面的な見直し作業が開始され、韓国は「米国に依存しない防衛」をより前面に打ち出すようになったのである。

 以上のように、60年代の韓米関係を理解するためには、相互補完的な関係にあった経済発展と安全保障という二つの観点から総合的にみる必要があり、韓国軍のベトナム派兵は多くの経済的利益や政治的外交的成果をもたらしたものの、北朝鮮の対韓挑発行為を触発する要因ともなったと言ってよい。また北朝鮮の強硬な対韓政策はベトナム戦争に忙殺されていた米国の関心を再び韓国に引き付ける契機となったものの、韓米関係に亀裂を生み出し、朴政権は北朝鮮に対する敵対感とともに米国に対する不信感を一層強めるようになっていったのである。69年1月米国ではジョンソン政権に代わって共和党のニクソン政権が誕生し、2月にニクソン大統領は、1年以内に対韓政策に関する研究を完成するよう指示した。その結果70年3月には在韓米軍一部撤退計画が策定され、翌71年には実行に移されたが、ヴァンス訪韓以後米国内で進められていた、韓国軍の南ベトナムからの撤退と在韓米軍の段階的な撤退を視野にいれた対韓政策の見直し作業がその基礎となったのは言うまでもない。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、1960年代における米韓関係の展開を総合的に解明することを目的にしている。ここで総合的と言うのは、第一に考察する期間を、1961年から68年末までと60年代のほぼ全期間にわたらせている点である。また第二に、この時期の米韓関係の多岐にわたる問題とそれらの相互関係を取り扱っている点である。しかも、第三に米韓関係の陰の当事者ともいえる北朝鮮の動向も視野に置いている点である。本論文の構成は、まず第一章で朴政権の登場に伴い米韓関係にどのような問題が生じたのかを検討する。次いで第二章で韓国軍のヴェトナム派兵をめぐる問題を考察し、第三章ではプエブロ号事件によって米韓両国政府がいかなる事態に直面したかを解明している。

 60年代の米韓関係の性格が50年代のものから大きく変わったのは、韓国で1960年に学生革命が発生したのに次いで、翌年軍事クーデタが起こり朴正煕の率いる軍事政権が登場したからであった。第一章ではこのクーデタが米韓関係に及ぼした影響を考察し、アメリカ側はクーデタが決行されると現地当局者が韓国の大統領や軍部に鎮圧するよう働きかけたものの、韓国側が応じずクーデタが成功した経緯を明らかにしている。アメリカのケネディ政権は当初韓国軍に対する指揮権の回復を重視し、軍事政権がそれに応じた後も直ちに承認せずに民政移管を執拗に要求し続けていったのである。

 軍事政権の側でもアメリカの支援を不可欠とみなしており、民政移管についても8月に実施の日程を発表した。しかし、ケネディ政権はこの日程に満足せず朴正煕の側でも軍事政権の延長を画策したことから、両国政府の激しい駆け引きの末に民政移管が実現したのは1963年10月と11月に選挙が実施されてからであった。この闇米韓両国政府はともに米韓関係の再編成を推進していた。ケネディ政権は韓国の安全保障が確保されているという判断の下で経済発展を重視する方針に転換したが、連邦議会が対外援助を大幅に削減する方針を採り調整せざるをえなくなっていた。それゆえ、軍事政権が韓国の自立的経済の達成を目指して大規模な経済発展計画を立てたのに対しても、アメリカ自体の経済援助に関しては消極的で、日韓国交回復や国際コンソーシアムの結成、韓国通貨の平価切下げなどを促した。ケネディ政権では安全保障政策でも抑止力の強化を図るために経済発展を重視する方針が示唆されるようになり、ジョンソンが大統領に就任すると自ら兵力縮小の検討を指示するに至った。他方、北朝鮮はこの時期に経済発展と軍備増強を同時に推進する「並進政策」の方針を採り、韓国に対しても「対南革命路線」を追求していた。

 第二章では韓国軍のヴェトナム派兵問題を取り上げ多角的に検討している。特に注目すべきは、朴政権のヴェトナム派兵に関連させて韓国が国際的地位を向上させるために積極的な外交を展開したことを明らかにしている点である。軍事政権は国際的な支持を獲得するために早くもクーデタの2ヵ月後に76カ国に使節団を派遣し、反共陣営の一員としての韓国の国際的地位を確立することを目指した。1961年11月に訪米した朴がケネディと会談した際にも、韓国側から進んで韓国軍をヴェトナムに派兵する意思を表明したのである。朴がこのように積極的な姿勢を示したのは、ヴェトナムの事態を北朝鮮と対峙する韓国の第二戦線と捉え「全ての自由陣営諸国の安全に直結』すると認識していたからにほかならない。アメリカ側でもヴェトナム戦争の戦況が好転しないことを懸念するようになり、1964年には同盟諸国の貢献を求める「more flag(参戦国数の増加)」方針に転じて、7月に韓国にも正式に派兵を要請するに至った。韓国政府は直ちに応じて移動外科病院要員とテコンドーの教師を派遣した。

 朴政権が本格的にヴェトナムヘの派兵に踏み切り継続していく理由について、著者は従来の研究が強調してきた、その代償としてアメリカの経済援助を求める経済的動機よりも、朝鮮戦争での恩や在韓米軍の再配置および韓国軍の縮小などに対する安全保障上の懸念の方が強く働いていたと指摘している。他方、韓国軍の派兵に対しては北朝鮮が激しく非難し、北ヴェトナムや南ヴェトナム民族解放戦線を積極的に支援する方針を採るとともに、ソ連とも軍事協定を結んでミサイル等の近代兵器を供与されるに至ったのであった。ヴェトナム戦争は朝鮮半島での緊張とも連動していたのである。さらに1965年5月に南ヴェトナム政府が韓国に駐留軍の増強を要請し、ジョンソン大統領も訪米した朴大統領に戦闘部隊の派兵を要請した。朴政権はそれに応えて7月国会を召集し、日韓条約の批准と併せて戦闘部隊の派兵を決定するために野党の反対を封じる強行採決を敢行した。また国会外での反対運動を弾圧するために軍隊を治安出動させる衛戌令も施行したのである。

 朴政権は外交攻勢も強めていた。1966年にアジア太平洋地域閣僚会議をソウルで主催したのに次いで、ヴェトナム参戦国会議の開催を提案し、アメリカとの間で念願の行政協定も締結した。またジョンソン政権が韓国の提案を無視してフィリピンの提案をもとにヴェトナム参戦国会議を開催すると、激怒した朴政権は独自に日本の後援によるヴェトナム和平会議の開催などを提案した。他の点では韓国の提案を評価しなかったアメリカ側も、和平会談の構想についてだけは関心を示したのである。そのうえ、朴大統領はこの会議でヴェトナム戦争の勝利を鼓舞する演説を行ない、アメリカの増強方針を力づけたのであった。

 第3章ではこうして築かれた米韓両国の友好関係が、1968年1月に北朝鮮が惹き起こした一連の事件によって脆くも動揺し、米韓関係の再編成が再び課題として浮上してくる経緯を解明している。それ以前から北朝鮮はヴェトナム戦争を反帝国主義民族解放闘争の最前線と位置付け、北ヴェトナムヘの支援を強化するとともに韓国への浸透工作も深めていた。しかし、それを新たな戦争を仕掛けるものではないと評価していたジョンソン政権は、むしろヴェトナムヘの韓国軍の増派を重視し、朴政権が軍事力および民間防衛の強化のために支援を求めたのに対しても、1967年12月に朴大統領が軽歩兵師団の派兵を約束してはじめて応じたのである。

 翌68年1月に北朝鮮のゲリラによる青瓦台襲撃未遂事件、その2日後にアメリカ海軍の偵察船が北朝鮮によって拿捕されるプエブロ号事件が相次いで発生すると、情勢は一変した。青瓦台事件に関しては韓国軍に出動待機を求めておきながら、プエブロ事件が起きると航空母艦を送って迅速な対応を採るアメリカをみて、朴大統領は韓国側の感情を軽視すると憤り、北朝鮮に対する方針の違いを改めて思い知らされたのである。しかも、ジョンソン政権はプエブロ事件の平和的解決を求めて韓国の頭越しに北朝鮮と直接交渉する道を選び、12月には北朝鮮の主張に大幅に譲歩して妥結をみるに至った。この間朴政権は韓国単独でも北朝鮮に報復する強硬方針を打ち出し、アメリカによる防衛協力の履行には不信感を表明した。ジョンソン政権は特使を送って説得に努めたものの、報復措置に固執する朴政権の頑なな態度に直面して韓国の惹き起こす戦闘に巻き込まれることへの警戒心が生まれ、対韓政策の全般的な見直しが特使によって勧告されたのである。

 事実、朴政権は北朝鮮に対する軍事的な優位の確立を追求し、4月にジョンソン大統領と朴大統領が会談したときもヴェトナムヘの増派の要請には消極的にしか応えず、逆に北ヴェトナムヘの空爆を抑制するアメリカの方針を批判し韓国軍の増強への支援を要請した。その結果、この首脳会談は事実上決裂した。ジョンソン政権の側では、CIAが韓国の独自防衛路線は北朝鮮への奇襲攻撃も可能にすると判断していた中で6月に見直し作業を完了した。その報告は韓国の防衛に対するコミットメントを急激に縮小するのは好ましくないとしながらも、1972年から在韓米軍を部分的に段階的に撤退させる一方、韓国軍をアメリカ軍に依存させる体制を保持して北朝鮮への攻撃を阻止する方針を提案していた。この年の夏以降北朝鮮ゲリラの浸透が激化したことにより正式に決定されなかったとはいえ、この報告は11月の大統領選挙で当選したニクソンの率いる次期政権に基礎資料として引き継がれていったのである。著者はそれが、ニクソン政権がニクソン・ドクトリンの下で在韓米軍の部分的撤退を行なう伏線になった可能性が高いと、指摘している。

 本論文の長所は、第一にこれまでの実証的な研究が問題を個別的に取り上げてきたのに対して、1960年代の米韓関係の多岐にわたる問題とそれら相互の関係を考察している点である。とりわけケネディ政権以降のアメリカ政府が、経済発展を重視して在韓米軍の縮小と韓国軍の削減をワンセットに捉えていたことを実証的に解明したことの意義は大きい。それによって朴政権がヴェトナム派兵を行なった主たる動機がアメリカに対する交渉力を高めることにあったことが分かりやすくなり、また1969年以降在韓米軍の縮小に伴って韓国軍を増強しやすくなった理由も理解しうるからである。

 長所の第二は、従来の研究では1960年代の米韓関係と70年代のものが、ニクソン政権のニクソン・ドクトリンに基づく在韓米軍の部分的撤退方針によって性格が変わり断絶したと考えられてきたのに対して、ジョンソン政権期にすでに撤退方針がかなり本格的に検討されていたことを明らかにし、60年代と70年代との連続性を指摘している点である。特にここで重要なのは、アメリカ側の撤退理由が、ニクソン・ドクトリンの場合はアメリカ国内の反対を配慮したアジアへの介入の清算であるのに対して、ジョンソン政権の場合には朴政権の北朝鮮に対する強硬政策が惹き起こす戦闘に、アメリカが巻き込まれることへの警戒心も強く働いていたことを解明している点である。

 長所の第三は、ヴェトナム戦争に対する北朝鮮やソ連、中国等の諸国の動向もできる限り押さえることによって、東アジアの国際関係史の観点を部分的ながら導入している点である。またこの点も含め日本外交史の研究にとっても示唆的な叙述が随所にみられる。

 長所の第四は、日本語の表現がよく練られていてスムーズに読める点である。この点はとりわけ多岐にわたる論点が、しかも外交交渉の細部にわたって叙述されていることから特筆に価するといえよう。

 もとより、本論文にも短所がないわけではない。

 第一に副題の国家的自立や構造的脆弱性という用語が明確に説明されておらず、分析においても十分活かされていない嫌いがある点である。

 第二に1960年代の米韓関係を総合的に解明するとしながら、日韓国交回復の過程でアメリカが果たした役割について簡単にしか説明されていない点である。すでに本格的な研究があるとはいえ、独自の解釈を打ち出すような工夫が必要だったといえよう。

 第三にアメリカのアジア外交の中で対韓政策がいかなる位置を占めていたのかなど、関係当事国や当事者の方針および役割が明確に位置付けられていないところがあり、国際関係の構造が浮き彫りにされずに叙述が平板になっている面がある点である。

 しかしながら、これらの点はいずれも本論文の価値を大きく損なうものではない。1960年代の米韓関係を包括的に解明しようとした本論文は学界に貢献ずるところが大きく、博士(法学)の学位を授与するにふさわしいものと評価できる。

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