学位論文要旨



No 117560
著者(漢字) 平野,聡
著者(英字)
著者(カナ) ヒラノ,サトシ
標題(和) 「皇清の大一統」とチベット問題
標題(洋)
報告番号 117560
報告番号 甲17560
学位授与日 2002.09.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第170号
研究科 法学政治学研究科
専攻 政治専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡辺,浩
 東京大学 教授 鈴木,董
 東京大学 教授 塩川,伸明
 東京大学 教授 田中,明彦
 東京大学 助教授 村田,雄二郎
内容要旨 要旨を表示する

 近現代「中国」の国家統合をめぐる最大の問題点の一つは、何故儒学思想と漢字文化を共有してこなかった内陸アジアのモンゴル・チベット・トルコ系ムスリムが「漢民族とその文化を中心とする中華民族」の不可分の一体として組み入れられているのかという問題である。もし前近代において「東アジア儒教文化圏」が「中華世界」として表現される空間を形成し、地域統合の核となっていたならば、たとえその内部において日本・朝鮮・ヴェトナムが歴史的に「小中華」として自己主張をしたにせよ、そこで共有された文化的・社会的価値観を中心としたより強固な結合を模索し得たであろう。しかし実際には、東アジア各国が儒学と漢字(及び漢地仏教)の影響で結ばれている以上に独自の国家・社会・文化形成を進めてきた結果、各国は近代における曲折を経つつも個別に国民国家体系へと適応し、肝心の「中華帝国」本体は儒学と漢字が共有されない内陸アジアを「不可分」と位置づける近代国家へと転換していったのである。それにもかかわらず、内陸アジアを含む「中国」国家の前近代と近代の関係は、日本や欧米の歴史学の影響のもと、長らく基本的に儒学思想と漢字文化を中心とする「中華世界」「東アジア世界」論の延長において語られてきた結果、これら内陸アジア諸民族の「中国」国家における位置づけは単なる「周辺」「辺境」的存在として把握されるのみで、彼らが現在「中国」国家に組み入れられたことで生じている民族問題の構造的な原因が、歴史的連続性の視点から十分に説明されてきたわけではなかった。

 本論では、中華民国・中華人民共和国の領域支配と、その下での民族問題の遠因を、近代「中国」国家に先だって存在した清帝国における多民族統合の独自な性格に求め、特にチベット仏教文化を発展させたチベット・モンゴルとの関わりを中心に論じた。

 少なくとも、清帝国の最盛期におけるモンゴル・チベットの仏教徒と清帝国の関係は、朱子学的な朝鮮の知識人が到底それを「儒学思想を生んだ地」の現実とは信じられなかったほど密接であった。しかし清末になると、清帝国の官僚自身が仏教とモンゴル・チベット文化を圧迫・破壊した結果、ダライラマ政権のチベットと外モンゴルは危機感を募らせ、辛亥革命による清帝国の崩壊を機に、それぞれ英国・ロシアの援助を求めたのである。それは必ずしも、現代中国の体制言説がいう「中国各民族は清の圧制からともに脱し、さらに帝国主義との戦いを通じて一体となった」結果ではなく、清帝国の崩壊に伴い誕生したばかりの「中国」を正式な国号とする国家から離脱した結果であった。この過程は、清帝国を「中国歴代王朝」の一つとしてではなく、清帝国という存在から一旦「中華帝国」「中国」という概念を差し引いて考えることによってはじめて理解可能である。

 清帝国の王権思想は、その満洲族の出自ゆえに漢民族中心の民族差別・華夷思想に反対する立場をとった。そして、モンゴルの騎馬兵力を同盟者とする必要から、全モンゴルにおける覇権を西モンゴルのジュンガルと争った結果、モンゴル人が信仰するチベット仏教の擁護者としての地位と正統性をも獲得し、かつ自らの支配の論理を洗練させることにも成功した。特に、文化と政治統合の関係をめぐる稀にみる思考力を持った雍正帝と乾隆帝は、歴代「中華帝国」の「文弱」を厳しく批判し、あらゆる人間の基本的な価値はしばしば互いに対立する思想・文化に関係なく共通する「善」の価値を備え、安寧な秩序を営むことに貢献するか否かによって決まると論じた。彼らはその基準から儒学思想・チベット仏教・イスラームを公平に「教」として評価し、それ自体北東アジア固有文化・儒学・仏教を組み合わせて正統性を主張する王権であった清帝国の教化に資するものであると位置づけた。そのうえで、これら「教」を享受し、かつ武力によって拡大した清帝国の支配を受け容れる人々を、そうではない朝貢国、さらには清帝国に抵抗する「逆賊」とは切り離して、特定の文化的基準ではなく「順逆」を基準に認識した。こうして内陸アジアの各民族は、清帝国の強固な統合である「中外一体」「皇清の大一統」の内側にあると見なしたのである。

 以上の論理を通じて形成され、チベット・モンゴル・トルコ系ムスリムからも多かれ少なかれ正統性を獲得したものが清帝国の藩部統治である。そこに儒学思想と漢字の優越ないし共有という発想、及びそれに基づく秩序原理が介在する余地はなく、またその必要も存在しなかったのである。

 この「中外一体」「皇清の大一統」は、一面では文化的多元性の承認による多民族統合であったが、それは同時に「武力行使の偉大な歴史」によって明示された版図統合であり、近現代の領域主権国家を準備する事実上の排他的領域形成という別の一面を備えていた。この両面は、皇帝権力による絶えざる「教」への擁護・介入と、各宗教・文化主体による清帝国への正統性付与の両者が結合する限りでは、特にエリートを中心に統合の成果が広く享受された。しかし、一旦それを実体化させた清帝国の「武勇と実行」による公正な支配が揺らぐと、統合はただちに二極分化・瓦解しかねない危機が存在した。「皇清の大一統」における版図統合・領域統合の側面を重視するならば、多民族統合を可能ならしめた文化的多元性への尊重が弱くなる可能性があり、逆に「皇清の大一統」における多民族統合・文化的多元性の尊重と、その延長における藩部自治を重視するならば、領域統合の重視という発想だけに基づいた単なる上意下達の統治観とは相容れなくなる可能性が内包されたのである。

 こうした問題は、十九世紀における清帝国の弱体化に伴い次第に顕在化していった。それは第一に、「皇清の大一統」の最大の担い手であった満洲人とモンゴル人の凋落として現れた。清帝国の未曾有の繁栄は、これらの民族の経済・社会・文化面における漢民族への事実上の従属を惹起していたのである。その結果、必ずしも当初から多民族統合におけるチベット仏教やイスラームの存在意義を深く認識しない漢人官僚層、とりわけ経世儒学知識人の台頭を招いた。彼らは劣勢に陥った清帝国を立て直そうと試みたとき、何よりも乾隆帝までに達成された「皇清の大一統」の武力による領域統合の側面を重視し、具体的な帝国の再建策として決して異文化に対する尊重を含むとはいえない屯田策や統治強化策を実施しようとした。とりわけ新彊は、統治の混乱とそれへの反動であるムスリム反乱が発生していたので、いっそうそのような思考の対象となった。一方、清帝国が弱体化に伴って藩部に対して十分な統治を行い得なくなった結果、むしろ皇帝の恩恵のもとで着実に自治を展開するダライラマ政権のチベットは評価の対象となっていたのである。

 同治年間までに以上のような二極分化を著しくしていた「皇清の大一統」が、チベットにおいても危機を現出させたのは、陸路チベット経由による清帝国との通商を目指した英国のヒマラヤ経略を契機としていた。英国は、清帝国との通商の利益及びロシアとの角逐における緩衝地帯の確保を重視する立場から、「中国China=清帝国の宗主権」下にあるチベットを植民地化する意図は持たなかった。しかし、ヒマラヤ南面諸国における軍事行動の実態から「仏教徒の危機」という恐怖心を抱いたチベット人が対英強硬姿勢を強めた結果、次第にチベットヘの強制力の行使なくして、英国にとって現状打破は不可能な状況を惹起した。そのような中、清帝国の中枢はロシアと日本に対抗する立場から、沿海での通商で巨利を清帝国にもたらし、かつ清帝国の「主権」を尊重する点で評価でき、社会的・文化的にも無視できない実力を持つ「泰西商主の国」英国との関係維持を重視しており、安易に英国に抵抗して領域統合を危機にさらすチベット人は次第に評価しがたい存在と見なした。それにもかかわらず、英国の脅威を重視する官僚たちはチベット人の抵抗に理解を示し、「皇清の大一統」の歴史的蓄積に照らしてチベット人の自主性を尊重するよう主張した。かくして、「皇清の大一統」のうち、多民族統合と領域統合のいずれの側面を重視するかによって清帝国の官僚内部の対応とチベット人の反応は複雑に分裂し、そのことが意思疎通の不全を引き起こし、清帝国とチベットの間の根深い対立の契機となったのである。

 また、この英露日の角逐は、清帝国に「チベットヘの主権行使の明確化」の必要性を認識させたが、それは既存の事実上の領域統合のうえに英国の「清の宗主権尊重」が重なった結果、自らのチベットに対する権力を近代国際法上の主権に該当すると解釈したことではじめて可能となった。この点において、英国と清帝国の関係は単なる帝国主義列強と弱小国家の関係ではなく、近代国民国家体系の利益を互いに享受する関係であった。

 以上のように、清帝国は「中華帝国」としてではない多民族統合と領域統合を実現し、かつその力学に内在する構造的な問題点と、帝国主義時代の国際情勢に対する自らの主体的選択が内陸アジア諸民族の利害と一致しないものになったために瓦解したのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、清朝中国の政治統合に関する従来の諸学説を批判し、チベット・モンゴル、さらにトルコ系ムスリム等の統合様式に着目することによって新たな解釈を提出し、現在に至る近代中国の深刻な「民族問題」成立の淵源を解明しようとした大作である。

 「中国」を、漢民族とその漢字や儒教を軸とする文化とを中心とした統合だとする見方がこれまで有力である。しかし、それでは、何故、朝鮮や越南が近代中国の一部にならず、逆に、漢字も儒教も共有しないチベット人・モンゴル人の住む広大な地域が、「中国固有の不可分の領土」の一部とされるに至ったのであろうか。それは、単に清朝の軍事力による支配地域拡大とその継承というだけでは説明できない。清朝時代、特に18世紀には、チベット人・モンゴル人・トルコ系ムスリムからもその正統性の承認を得た統治がかなり安定的に成立していたからである。それは、皇帝が、漢人に対しては儒教的天子として立ち現れ、チベット人・モンゴル人に対してはチベット仏教の擁護者として立ち現れたというだけでも、ムスリムをも含んだ大きな統合を説明できるものではない。では、いかなる統合だったのか。そして、それは如何にして崩壊していったのか。本論文は、その解明の試みである

 「序章チベット仏教と清帝国…歴史的連続と断続から」は、清帝国がチベット仏教を一種の国教とし、それ故にチベット人・モンゴル人も皇帝の権威を受け入れるという清朝盛期の関係が、清末には清帝国自身によって覆されたことを指摘し、世界に幾つかの例がある前近代の帝国が崩壊して「民族問題」が発生する過程としても独自の性格を持つことを強調している。

 「第一章『中華世界』論再考」は、漢族を中心とする「中華民族」なるものが永く実在してきたという新奇な観念が、二十世紀初頭の日本の「東洋史学」の「中華世界」像と対応して形成されたこと、しかも、その後の外国の研究者等が「中国」を内在的に理解しようとする余り、漢族からの視線に沿って歴史を理解する傾きのあったことによって補強されたことを指摘し、「中華」尊崇意識の無いままに密接な関係を持っていたチベット・モンゴルを視野に入れた清帝国像を描くことの必要性を主張している。

 「第二章清帝国とは何だったのか…批判的再考」は、従来の諸研究を批判し、盛期の清朝皇帝が仏教を保護して世の安寧と繁栄をもたらす「転輪聖王」としてあったことを単にチベット人等を懐柔する策略であったとするのは不適当であること、東南方面には北京を首都とする儒教的「天子」として、北西方面には承徳を首都とする「ハーン」としてそれぞれ君臨したという二分法でも割り切れないことを指摘している。そして、「満洲人たちの部族長会議の議長と、モンゴル人たちのハーンと、漢人たちの皇帝と、チベット仏教の最高施主と、東トルキスタンのイスラム教徒たちの保護者という、五つの役割」(岡田英弘)を矛盾することなく結合させる、より高次の自意識・世界観があったのではないかと示唆している。

 「第三章質朴と華美・武勇と文弱…雍正帝の反華夷思想論」は、その示唆の実証の試みである。そこでは、高度の専制権力を確立した雍正帝に着目し、彼が想定していた、「武勇」に優れ「華美」に流れぬ満洲人の皇帝が、「教」や「俗」を異にする多様な諸民族を平等に統治する「中外一体」構造(それはむしろ華夷思想に反する)を、彼自身の著作等から再構成して示している。

 「第四章清帝国の統合における『教』と『淫祠』」は、「中外一体」構造が儒学者にもたらした思想的ディレンマと、一方で皇帝が陥った、上下秩序の重視とチベット仏教の活仏等への拝跪の必要とのディレンマとを分析し、さらに苗族統治を例として、「教」と「淫祠」との弁別の不安定性を示している。

 「第五章尭舜に並び超える『皇清の大一統』ーーその光と陰」は、儒教・仏教・イスラームはいずれもその教化が全世界に及ぶことを志向するために相克の可能性を持っていたこと、そのため、そのいずれにも深入りせずに「その人の道を以てその人の身を治めさせ」、公正に「安寧」を維持する武力として皇帝権力があったこと、しかし、満洲人・モンゴル人の武勇と軍事組織の弛緩によってそれが揺らぎ、「皇清の大一統」自体が危うくなっていったこと等を指摘し、その例として十九世紀初頭、英国の攻撃に対抗するための朝貢国ネパールの援助要請を拒絶した経緯を詳細に分析している。

 「第六章『自治』論の時代ーー十九世紀前半のチベット論」は、十九世紀前半のダライラマ政権によるチベットの高度の自治が、チベット仏教という「教」による安定として、清朝政府自身からも肯定的に捉えられていたことを指摘し、それが「藩部」統治の放棄でもなく、チベット独立」の容認でもなかったこと、しかし一方で、屯田論に示されたような儒教の立場からの教化・同化の主張が漢人官僚の影響力の強化と共に強まって状況が不安定になっていったことを記述している。また、清帝国では、特にロシアとの事実上対等な関係等によってそれなりに領域国家としての意識が形成されていたことを示し、それを承けて、西洋の圧迫の下で、「中国」という「主権国家」の領土として「藩部」も意識されるに至ったという経緯を示している。

 「第七章英国認識とチベット認識のあいだ」は、十九世紀後半、英国がチベット進出に際し、チベットヘの「中国の宗主権」を認めたことに対応して、清国側はチベットをその「主権」の範囲内と了解するようになり、一方、頭越しの英国・清国間の交渉の結果の強要に対してチベットが反撥し、新たな世俗の保護者をロシア等に求めるようになっていった経過を詳細に記述している。筆者によれば、チベットの高度の自治を含みこんで成立した「皇清の大一統」がこうして崩壊し、現在に至る困難な「民族問題」の淵源をなすに至ったのである。

 以上が本論文の要旨である。

 本論文の長所としては、以下の点を挙げることができる。

 第一に、本論文は、近年公刊されつつある漢文のもの及び英国外務省文書を含む膨大な史料群を渉猟し、それを基礎として、巨大にして多面的な対象を壮大な規模で解明しようとした力作であり、学界に衝撃を与える可能性を持っている。その主張の全てに疑問の余地がないとは到底言えないものの、今後ここに提出された一連の解釈を無視して、清帝国の統合とチベットを焦点とした近代中国の「民族問題」の成立を論じるのは困難になると思われる。

 第二に、チベット人・モンゴル人、さらにトルコ系ムスリムにとって清朝が如何なるものであり、そこに一旦成立した構造が如何にして崩壊していったかを探るという方法が新鮮である。そのために、従来の歴史理解では解き難かった諸問題ーー例えば、何故儒教文化を共有しないチベット人・モンゴル人等が清朝の統治の正統性をある程度安定的に承認していたのか、そして何故彼等の住む地域が近代中国において「不可分の領土」の一部とされるに至ったのか、そしてそれにもかかわらず何故彼等との間で清朝末期以降鋭い緊張が絶えないのか等ーーについて、一応の解答を示しえたことは、本論文の大きな成果といってよい。

 第三に、特に始めの三章において先行研究を詳細に紹介すると共にその問題点を大胆に指摘し、その上で率直に自説を展開したことは、一面で論文を長大なものとする結果を招いたものの、研究の在り方としては、高く評価することができよう。

 しかし、本論文にも短所が無いわけではない。

 第一に、これ程包括的に清朝の統合を論ずるのであれば、統合の理念的側面に加え、現実の統合システムの解明がなされるべきであり、また、同じく非漢民族が形成した元朝との比較がなされてもよいはずだが、それらの作業はあまりなされていない。また、例えば同時代のオスマン帝国の統合との比較がなされ、その共通性と異質性が明らかにされれば、より一層説得力が増したと思われるが、それもなされていない。

 第二に、多数の史料を渉猟したことの反面として、時にやや史料の読解に精密さが足りないと思われる部分がある。例えば、『皇朝経世文編』を利用するのはよいが、場合によっては個人文集に収められたもとの文章と照合することも必要であろう。また、一部に漢文の読解において不正確な個所があることも否定できない。

 第三に、本文が長大であり、しかも論文全体の構造が必ずしも明快ではないために、図を用いて説明するなどの工夫はされているものの、かなり読みにくい論文となっている。文章にもさらに洗練されるべき余地がある。

 しかし、以上の短所は、本論文の価値を大きく損なうものではない。これが、中国政治外交史研究において大きな貢献をなすものであることは明らかである。本論文の筆者は、博士(法学)の学位を授与するに相応しいと認められる。

UTokyo Repositoryリンク