学位論文要旨



No 117562
著者(漢字) 崔,南一
著者(英字)
著者(カナ) チェ,ナムイル
標題(和) レーザ分光法の応用による着火の反応機構解析に関する研究
標題(洋) Application of Laser Spectroscopic Technique to Reaction Mechanism Analysis in a Compression Ignition System
報告番号 117562
報告番号 甲17562
学位授与日 2002.09.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5304号
研究科 工学系研究科
専攻 機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 手崎,衆
 東京大学 教授 松本,洋一郎
 東京大学 教授 河野,通方
 東京大学 教授 越,光男
 東京大学 助教授 丸山,茂夫
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、解明すべき燃焼現象の中でもエンジン技術の改革のために重要とされる、圧縮自着火過程をその化学反応機構の点で理解を深めることを目的とした。特にその実験的手段としてレーザ分光法を応用することで上記目的を果たした。その内容は、1.燃焼機構に関わる素反応の速度・生成物の決定、2.稼動するエンジンシリンダ内の燃焼診断による現象把握、3.観測事実を説明する反応機構解析、の三点に要約される。これらを以下の3章に分けて説明する。

1.アルコキシラジカルの検出と反応性

 アルコキシラジカル(R0)は炭化水素の酸化・熱分解過程における中間体の一つで構成原子の数が多いながらも蛍光を発する数少ないラジカルである。レーザ誘起蛍光法(Laser-Induced Fluorescence:LIF)は、その高い検出感度から反応系で生成された低濃度の不安定分子種の検出及び内部状態の観測に適しているが、3つ以上の炭素原子を持つアルコキシラジカルのLIFスペクトル検出例はまだ少ない。また炭化水素の酸化・熱分解過程におけるアルコキシラジカルの反応性が直接観測された例も少ない。そこで本研究では、未知のLIFスペクトルの検出、並びにC2H5O、i-C3H7Oと一酸化窒素の反応性の検討を行った。さらにメトキシラジカルの異性体であるCH2OHラジカルと酸素分子の反応性をその生成物であるホルムアルデヒド(CH2O)をLIFでモニタしながら求めた。

 アルコキシラジカルの生成には2通りの方法を取った。1つはアルコールの光分解による生成、もう!つはヨウ化アルキルの光分解の後、O2、NOとの反応により生成している。サンプル(He希釈のROH又はRI)は気体でHe・NO・O2と共にセルを通過し、濃度はROがほぼ1012[molecule・cm-3]となる様に設定した。図1に示されているようにKrF/ArF Excimer(248/193nm)を光分解の光源とし、Nd:YAGを励起光源とするSurelite OPOを検出光源に使用した。目的の紫外波長可変光を得るために、OPOの可視出力とYAG赤外光とをKDP結晶に同軸入射する和周波混合法を用いた。これはこの種のOPO光源を用いた試みとして本研究で独自に開発したものである。それぞれ2通りの方法でC2H5O、i-C3H7Oを生成し、検出したLIFスペクトルを図2に示す。次に初期条件のNOの濃度を0、5、10、25、50[mTorr]と変化させ、C2H5O、i-C3H7O各々についてTime Profileを計測した。その結果を図3に示す。アルコキシラジカルを中間体とした2ステップの2次反応として解析し、以下の速度定数を決定した。

(1)C2H5O2+NO→C2H50+N02、(2)i-C3H7O2+NO→i-C3H7O+NO2、(3)C2H5O+NO→Products (4)i-C3H7O+NO→Products:k1=(7.72±0.75)x10-12、k2=(7.33±0.38)x10-12、k3=(1.91±0.20)x10-11 and k4=(2.79±0.28)x10-11、[cm3 molecule-1s-1]。

2.レーザ分光法によるエンジン内の燃焼診断

 エンジンの一層の高性能化や低公害化を目的として、燃焼システムの開発・設計の合理化や燃焼現象自体の詳細な解明が必要不可欠とされている。その中で予混合圧縮着火(HCCI)機関は希薄燃焼及び非伝播型予混合燃焼であるため、高効率化とともに、すすと窒素酸化物の同時低減を実現する技術として大いに期待されている。HCCI機関は火花放電時期や噴射時期のような、従来のエンジンが持っている着火制御手段を持たず、着火及び燃焼が予混合気の圧縮によるため化学反応に大きく依存している。従来の予混合圧縮着火機関での燃焼に関する研究では、様々な機関と燃料を対象とした実験的な運転研究が多く、着火時期と燃焼期間に及ぼす多くのパラメーターの影響に関して、化学反応を含めた自着火の研究はまだ数少ない。

 本研究では冷炎反応に注目し、レーザ分光法を用いて冷炎反応による生成物の測定と共に、素反応を用いた数値解析を行うことによって、冷炎反応を支配する低温酸化過程の機構を検証する。

 圧縮着火式エンジンをモーターで駆動し、常時一定回転数を保つ。吸気は吸気ヒーターを使って加熱し、吸気、圧縮行程における熱損失を低減するため、エンジン本体も120℃程度に加熱した。自作ヘッド部にレーザパルスを通過させる窓と観測窓を付けてレーザ分光実験が出来る様に改造した。実験措置の概略図を図4に示す。燃料は、ジメチルエーテル(CH3OCH3、DME)を用いた。DMEはクリーンな代替ディーゼル燃料として注目されながら、反応機構も比較的信頼度の高いものが提案され、低温酸化反応機構を詳細に検討する対象として最適な分子である。

 レーザ分光はLIFを用いて、DME混合気から発するCH2Oを検出した(図5)。LIF感度は分子衝突による消光(quenching)、圧力広がり、温度依存の回転分布によって変化するため、その補正が大変重要である。特に組成にも依存する消光寿命が予測困難であり、本研究ではクランク角の関数として筒内で別途実測した。図6に示すように、冷炎の条件、熱炎着火条件共に、補正後のプロファイルはCurranのメカニズムを用いた予測と合っている。これにより、冷炎段階で急速に発生したCH2Oが熱炎発生により即座に消滅すること、冷炎のみ条件ではCH2O量が一定値となってそのまま排出されることが確かめられた。さらに冷炎段階の組成を反映する条件下での質量分析器を用いた排気組成の定量分析の結果と比較から当量比によらず30%程度のDMEが消費されること、すなわち30%程度の燃料が消費された時点で、燃料、酸素共に大量に残っているにも関わらず反応が停止すること、消費されたDMEと生成されたホルムアルデヒドはほぼ1:1になることが判った。

3.圧縮着火の反応機構の解明

 エンジン実験の観測結果はOHを連鎖担体とする連鎖反応で説明できる。表1にその連鎖反応を構成する主なる素反応をしめす。DMEの低温酸化過程は多くの並行反応、連続反応が。cycleを形成する連鎖反応である。連鎖担体であるOHの数を増加、保存、減少させる3つの経路が存在し、それらへの分岐比により、連鎖の進行、停止が決まる。図7は一連の。chain cycleを1周することによるOHの増加率を温度の関数として示す。この中では一連の分解反応は速やかに進行すると仮定している。これによると、低温では熱的に有利なOHを増加させる経路のみとなり増加率はほぼ1である。しかし低温では、一連の分解反応の進行が遅く反応(1)〜(8)以外のOHを減少させるterminationのため反応はそれほど進行しない。高温になると、OHを増加させる経路内の反応(2)、(5)が持つnegative temperature coefficientの影響で、OHを増加させる経路への分岐率が下がるため、OHを減少させる経路との競争となり、増加率は低下する。そして、850Kを越えると増加率が負の値をとるため、一連の分解過程によってOHが減少するため反応は停止すると予想される。

 冷炎段階の連鎖反応停止を決めるメカニズムは下記の(1)'、(9)式に簡略化して示すことができる。

 CH3OCH3+OH→αOH+βCH2O+other products (1)'

 CH2O+OH→CHO+H2O (9)

 ここでαは一連の分解過程によるOHの増加率、βはホルムアルデヒドの生成率である。α、βは反応(2)〜(8)の速度定数から温度毎に一意に決まる。DME、ホルムアルデヒドの増減は〓と示せる。これを時間に依らない式とするための変数変換を行うと、下記に示す様になる。〓 y=[CH2O]/[DME]0 q=([DME]0-[DME]t)/[DME]0

 冷炎反応が活性な720Kから850Kにおけるβの温度依存性は比較的少なく、定数と考えても良い。したがって、ホルムアルデヒドの生成率yはDMEの消費率qのみに依存し初期条件によらない。以上より実験、および計算で確認された初期条件によらず反応が同程度進行した時点で、冷炎反応が停止する特徴を説明できる。図8によると、全域にわたりy≒gであり、消費されるDMEと生成するホルムアルデヒドが1:1であるという実験結果を説明できる。連鎖反応の終点はOHの増加率D(q)=0で示され、これも観測されたDME消費率と概ね一致する。

 以上の実験及び解析で示した、冷炎反応過程の特性および簡略モデルによる説明は、本研究で見出したものであり、今後エンジン実機の制御技術の革新にも結びつく成果と言える。

図1 実験装置の概略図

図2 エトキシラジカルのLIFスペクトル

図3 アルコキシラジカルのTime Profile

図4 エンジン実験装置の概略図

図5 ホルムアルデヒドのLIFスペクトル

図6 クランク角に対するホルムアルデヒドのprofile

表1.連鎖反応を構成する重要な素反応

図7 chain cycleを1周することによるOHの増加率

図8 DME消費率(q)に対するホルムアルデヒド生成率(y)

審査要旨 要旨を表示する

 工学修士崔前一が提出した論文は、「Application of Laser Spectroscopic Technique to Reaction Mechanism Analysis in a Compression Ignition System(レーザ分光法の応用による着火の反応機構解析に関する研究)」と題し、全5章で構成されている。

 本論文は、解明すべき燃焼現象の中でも特に、「炭化水素の低温酸化過程」をその化学反応機構の点で理解を深めることを目的とし、特にその実験的手段としてレーザ分光法を応用することで上記目的を果たしている。ここで低温酸化過程とは、概ね1000K以下で進行する、高温側とは現象面でもそのメカニズムも異なる過程で、エンジンノック、ディーゼル着火、そして近年新型の低公害高効率機関として注目されている予混合圧縮自着火(HCCI)エンジンの燃焼に深く関わる反応過程である。本論文の内容は、1.燃焼機構に関わる素反応の速度・生成物の決定、2.稼動するエンジンシリンダ内の燃焼診断による現象把握・自着火過程の特性抽出、3.観測事実を説明する反応機構解析、の三点に要約されている。

 第1章は序論である。研究の背景としてまず、炭化水素の酸化過程に関する従来の知見について解説している。特に高温過程と対比して低温酸化過程の特異性、反応メカニズムの複雑さ、さらに解明を進めるべき点を示している。次いでレーザ分光計測法について、それが素反応レベルの化学反応解析と精緻な燃焼診断のそれぞれにいかに応用され、役立ってきたかを紹介している。それらを通じて、素反応レベルと実機内着火現象の診断との両面から対象過程の解析を進める本研究の目的と意義を明確にしている。

 第2章では燃焼機構に関わる素反応の速度・生成物の決定に対するレーザ分光法の応用を述べている。対象とした反応は、低温酸化過程で主要な役割を持つアルキル過酸化物ラジカル(RO2)の一酸化窒素(NO)存在下でのアルコキシラジカル(RO)への転化およびその後続反応である。燃焼反応モデル計算に必要なデータベースを整備するこの分野の発展は、計測手法の開発・改良による対象分子の拡大によって行われてきている。この観点から本研究ではまず、分光検出のための可変波長レーザ光源に関して独自の工夫を行った。これは近年普及してきた光パラメトリック発振(OPO)レーザの可視光出力を、和周波混合法を用いて、300nm台の出カへと波長変換するものである。OPOレーザとして取り扱いの容易なマルチモードタイプを選択し、波長変換の特性によって狭帯域化したことを技術的な特徴としている。本システムはOPOシステムの適用波長範囲を拡げ、速やかに広範囲連続の波長掃引を可能にしたことにより、今後も未知のスペクトルの探索などで有用性が高いと期待される。このシステムを用いて本研究では、アルコキシ系のラジカル(C2H5O、およびi-C3H7O)をレーザ誘起蛍光法(LIF)を用いて検出することにより、RO2+NOおよびRO+NOの反応速度定数を求めた。得られた定数は、異なる計測手法で得られた既報の値と誤差範囲で一致し、それらを追認するデータとなった。

 第3章はレーザ分光法によるエンジン内の燃焼診断について述べている。分光計測用に改良した実験エンジンを用意し、Dimethyl Ether(DME)を燃料とした圧縮自着火過程における低温酸化反応の検討を、着火過程の重要な中間生成物であるホルムアルデヒドのLIF法の検出によって行った。濃度変化をクランク角の関数として求め、二段階着火の一段目(冷炎過程)でホルムアルデヒドが生成し、二段目(熱炎過程)で急速に消滅するプロファイルを確かめることができた。このプロファイルを得るにあたって、特に注意を払ってクエンチングによる感度変化の補正を行った。これは圧力・組成変化のある場への蛍光法につきまとう問題であるが、本研究では励起分子の蛍光寿命を実測することにより正当な補正係数を得ている。さらに質量分析器を用いた排気組成の定量分析のデータを合わせた解析の結果、冷炎段階では当量比および予熱温度によらず燃料消費率が約30%と一定で、また消費DMEとほぼ等量でアルデヒドが生成する傾向を見出した。この特性は従来の研究では指摘されておらず、本研究での発見である。

 第4章では、冷炎段階の反応停止の観測事実を説明するモデル化を、低温酸化反応の考察から行っている。低温酸化過程の特性としてよく言われる負温度係数からは、停止点の燃料消費割合が一定となる観測結果を説明できない。そこで反応シミュレーションに用いた300余りの素反応からなる詳細反応機構から、低温酸化反応の特性である縮退連鎖過程を構成する8つの素反応を選び出し、連鎖の成長と停止を決定するパラメータの抽出を行った。その結果、連鎖停止点を決定するのは生成するホルムアルデヒドの、連鎖担体OHの消費による連鎖分岐率の低下であり、反応速度と生成物分岐比に関する四つのパラメータだけで構成する単純な方程式によって実験結果を概ね再現することができることが解った。このことは適当な添加物の採用などによる着火時期の制御の可能性を示唆するものである。

 第5章は結論であり、この研究から得られた結果と成果をまとめている。

 以上を要約すると、本論文は従来のエンジン研究の、圧力変化と出力パワー特性の計測を主体とし、様々な運転条件から経験的に特性を求める手法とは異なり、中間生成物の生成減衰のプロファイルを正しく求め、新たな観測事実から反応メカニズムの物理的本質を導いたことを特徴とする。特に冷炎反応過程の特性および簡略モデルによる説明は、本研究で初めて見出したものであり、エンジン燃焼の制御に有用な指針を与えるものとして、機械工学、特に内燃機関工学、燃焼工学に寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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