学位論文要旨



No 117566
著者(漢字) 滝澤,賢二
著者(英字)
著者(カナ) タキザワ,ケンジ
標題(和) 低温固相における小分子の光物理化学過程と振動緩和
標題(洋)
報告番号 117566
報告番号 甲17566
学位授与日 2002.09.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5308号
研究科 工学系研究科
専攻 化学システム工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 幸田,清一郎
 東京大学 教授 尾嶋,正治
 東京大学 教授 越,光男
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 助教授 廣川,淳
内容要旨 要旨を表示する

1章 序論

 低温固相において励起した小分子の緩和は、分子内遷移・分子間遷移のいずれの場合においても、励起分子を取り囲む結晶フォノンとの相互作用と密接に関係している。低温固相における励起分子の緩和機構と寿命を決定するゲスト-ホスト相互作用の寄与について定性的、定量的に解明することは、低温固相における物理化学反応を理解する上で極めて重要なことである。

 1970年代後半から、電子・振動励起した小分子の結晶フォノンヘのエネルギー移動に関して理論的な研究が行われてきた。これらの理論は全てN2やO2のような2原子分子を対象としたものである。しかし、実験的にこれらの2原子分子の振動緩和を測定できる適当な反応系が限られるために、今日まで理論と比較しうる成果の報告は非常に限られていた。本研究は、低温固相におけるN2およびO2に対して、レーザー多光子励起や近赤外分光法などを組み合わせることにより、電子・振動励起分子の結晶フォノンヘのエネルギー移動に関して実験的に知見を得、その結果を理論と比較することにより低温固相中の小分子の緩和機構を解明することを目的とした。さらに、高エネルギーを持った励起化学種の蓄積とその工学的応用の可能性について検討することを目的とした。

2章 実験

 実験には、不活性分子である希ガスおよびN2をホスト分子として用い、小分子をゲスト分子としてドープした低温自立型の分子結晶を作成し、使用した。低温自立型結晶法はマトリクス単離法と比較して、結晶粒度の大きな多結晶体であること、体積が大きいこと、不純物の吸着による影響を受けにくいことなどの特長を持っている。前者は結晶フォノンヘのエネルギー移動の理論と比較する場合において、アモルファスなマトリクス単離法よりも優れている。後2者は、より低濃度な条件における化学種の分光計測を可能とする。また結晶を反応場とした場合には、レーザー媒体としての利用や不安定化学種の分離濃縮などの応用の可能性がある。緩和過程・解離過程について検討するために、時間分解能が高く、単色性の良いパルスレーザー光を励起・解離光源として用い、励起化学種の検出には、主に紫外・可視・近赤外領域の発光分光測定法を用いた。

3章 低温窒素結晶におけるN(2P、2D)原子およびN2(X1Σg+、v")分子の緩和挙動

 低温自立型窒素結晶に対しKrFエキシマーレーザー光を集光して照射した場合、N(4S)とN2(A)との間のエネルギー移動を経てN(2P、2D)+N2(X、υ")という反応系が得られた。N(2D)+N2(X、υ")→N(4S)+N2(X、υ"-1)の遷移に対応するα"発光ピーク、N(2P)+N2(X、υ")→N(2D)+N2(X、υ"-1)の遷移に対応するδ"発光ピークを測定することによって、この反応系の緩和挙動を追跡した。図1に、振動量子数υ"におけるN2の緩和速度定数を示した。各振動量子数υ"に対応するα"発光の寿命は数sのオーダーであり、δ"発光の寿命は数msのオーダーであった。α"遷移は,多フォノンアシストによる振動-振動緩和による影響を受け、一方、δ"遷移は大部分が放射遷移によって支配されていることを明らかにした。

4章 低温Ar結晶におけるb状態のO2の発光スペクトルと緩和機構

 アルゴン固体中に孤立した、電子励起したO2によるb→X発光スペクトルが、波長248nmのエキシマーパルスレーザーの照射下において確認された。その緩和はb→a→b状態間遷移によって進行する。個々のb→X(υ',υ")バンドの時間的挙動は複数の指数関数による曲線によってフィッティングされた。b→a遷移のエネルギーギャップの方がa→b遷移のエネルギーギャップよりも大きいため、無放射速度はb→a遷移が律速となる。b状態の各振動準位(υ≦8)における緩和速度定数が決定された。無放射速度定数の振動量子数および温度依存性(図2)は、多フォノン緩和理論に基づいて説明することができた。

5章 低温窒素結晶におけるN(2P→2D)発光のスペクトル構造と動的挙動

 低温自立型窒素結晶に対しKrFエキシマーレーザー光を集光して照射すると、N(2P)+N2(X、υ")→N(2D)+N2(X、υ"-1)の遷移に対応するδ"発光が確認された。複数のピークを持ったバンド構造からなるδ"発光に関して、δ発光:N(2P)→N(2D)+hv、δ'発光:N(2P)+N2(X、υ"=0)→N(2D)+N2(X、υ"=1)+hvとのエネルギー比較、温度依存性を検討することによって、N2結晶内においてN(2P)原子と相互作用する14N2(X、υ")および14-15N2(X、υ")に由来するピークを同定した。また、N2-N-N2という3分子モデルと、S6対称性の置換サイト位におかれたモデルについて検討し、結晶内におけるN(2P)原子のおかれた環境について考察を行った。

6章 低温希ガス固体中にドープしたH2SのUV光照射による光解離過程

 低温自立型希ガス結晶中にドープしたH2Sに対し、照射レーザー光の波長を変えることにより紫外領域で光分解を行った。H2Sの減少と生成物の出現を紫外および赤外吸収測定によって追跡した。クリプトン結晶におけるSHラジカルの出現のしきい値が、242-248nmに存在することを明らかにした。これは、H原子が光解離以前に存在していたケージから脱け出すために必要な最小エネルギーが1.07-1.18eVであることを意味している。この値は、H原子がポテンシャル障壁に対し断熱的・瞬間的に抜け出すモデルによって予測されたしきい値1.4eVよりも小さい。このことはエネルギー移動後一定時間経過してからのケージ脱出の影響や、ケージの歪みがH原子の脱出に影響を及ぼしていることを示唆している。単量体H2Sと2量体(H2S)2からのH原子生成において、しきいエネルギーに明確な差異は見られなかった。

7章 結論

 レーザー光照射によってエネルギー選択的に励起・解離した低温結晶内の小分子の動的挙動について、分光測定法を用いて検討した。2原子分子の振動緩和に関する研究によって、通常の分子の化学結合を切断できる程度のエネルギーを持った励起状態を、数sから数ms程度の「長い」時間、結晶中に保持できることを明らかにした。また、結晶のホスト分子を適当に選択することによって、高エネルギー状態のゲスト分子の寿命を変化させることができることを明らかにした。これらの事実から、低温固相を分子反応の反応場として工学的に利用できる可能性を示した。

図1 緩和速度定数の振動量子数依存性

実験値:α"発光 ●15.6K、

放射遷移の式:---

多フォノン緩和の式(15.5K):・・・

図2 b、v準位の無放射緩和速度定数のv依存性

○:16K、●:30Kにおける実験値、

実線:16K、破線:30Kにおける多フォノン緩和速度の計算値、

点線:16Kにおけるa→b状態間緩和速度の計算値。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文はr低温固相における小分子の光物理化学過程と振動緩和」と題し、全7章よりなる。

 第1章は序論である。低温固相において励起した小分子の緩和は、励起分子を取り囲む結晶フォノンとの相互作用と密接に関係している。低温固相における励起分子の緩和機構と寿命を決定するゲスト-ホスト相互作用の寄与について検討することは、低温固相における物理化学過程を理解する上で極めて重要なことである。1970年代後半から小分子の結晶フォノンヘのエネルギー移動に関する理論的な研究が進んでいるが、今日まで理論と比較しうる実験的な成果の報告は非常に限られている。本研究は,低温固相におけるN2およびO2に関して、レーザー多光子励起や近赤外分光法を組み合わせることにより、電子・振動励起分子の結晶フォノンヘのエネルギー移動に関して実験的に知見を得、その結果を理論と比較すること、また、高エネルギーを持った励起化学種の蓄積とその工学的応用の可能性について検討することを目的としていることを述べている。

 第2章では実験方法に関して記述している。実験では低温自立型結晶法を用いて希ガスおよびN2をホスト分子、N2およびO2分子をゲスト分子として自立型の分子結晶を作成した。ドープしたゲスト分子に対して、時間分解能が高く、単色性の良いパルスレーザー光を励起・解離光源として用い、励起化学種の検出には、主に紫外・可視・近赤外領域の発光分光測定法を用いることによって緩和過程・解離過程について検討した方法・手順とその利点について述べている。

 第3章では低温窒素結晶におけるN(2P、2D)原子およびN2(X1Σg+、v)分子の緩和挙動について検討している。低温自立型窒素結晶に対し248nmのエキシマーレーザー光を集光して照射し、N(4S)とN2(A)との間のエネルギー移動を経てN(2P、2D)+N2(X,v)という反応系を得た。N(2D)+N2(X、v)→N(4S)+N2(X、v-1)の遷移に対応するα"発光ピーク、N(2P)+N2(X、v)→N(2D)+N2(X、v-1)の遷移に対応するδ"発光ピークの寿命測定から、これらの系の緩和挙動を追跡した。各振動量子数vに対応するα"発光の寿命は数sのオーダーであり、δ"発光の寿命は数msのオーダーであった。振動量子数依存性、温度依存性の検討によって、α"遷移は多フォノンアシストによる振動-振動緩和による影響を受け、δ"遷移は主に放射遷移によって支配されていることを明らかにした。

 第4章では低温Ar固相におけるb状態のO2の発光スペクトルと緩和機構を検討している。Ar固相中に孤立したO2分子を波長248nmのエキシマーレーザー光で照射し、b→X発光スペクトルを確認した。個々のb→X(v',v")バンドの時間的挙動は複数の指数関数曲線によってフィッティングすることができた。理論との対応を含めて検討することにより、この緩和はb→a→b状態間遷移によって進行すること、その機構は主にエネルギー間隔の差によって説明できることを明らかにし、また、b状態の各振動準位(v≦8)における緩和速度定数を決定した。無放射速度定数の振動量子数および温度依存性は、多フォノン緩和理論に基づいて説明することができたと述べている。

 第5章では、低温窒素結晶におけるN(2P→2D)発光のスペクトル構造と動的挙動を検討し、N2結晶内においてN(2p)原子と相互作用する14N2(X、v)および14、15N2(X、v)に由来するピークを同定し、また、結晶内におけるN(2P)原子のおかれた環境について、N2-N-N2という3分子モデルと、S6対称性の置換サイト位におかれたモデルについて考察を行った結果を述べている。

 第6章では低温希ガス固相中にドープしたH2SのUV光照射による光解離過程を検討している。H2Sの減少と生成物の出現を紫外および赤外吸収測定によって追跡しSHラジカルの出現のしきい値が、242-248nmに存在することを明らかにした。種々の過程を比較することによって光解離によって生成したH原子のケージからの脱出にはケージ原子との衝突エネルギー移動やケージの歪みが影響を及ぼしていることを示した。

 第7章は結論の章である。理論と対比しつつ、固相内の小分子のエネルギー緩和や解離して生成した原子の固相内移動などの機構を実験的に明らかにした。その結果、高エネルギー状態のゲスト分子の寿命を長く保ち、また変化させることができることを明らかにしたと結論している。またこれらの事実から、今後の展望として、低温固相を分子反応の選択的な反応場として工学的に利用できる可能性を示したことを述べている。

 以上要するに、本論文は低温固相のエネルギー緩和過程の機構や速度を実験的に検討して新規な選択的反応場の構築の可能性を明らかにしたものであり、分子反応工学の発展に寄与するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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