学位論文要旨



No 117567
著者(漢字) ナロック,ハイコ
著者(英字) NARROG,HEIKO
著者(カナ) ナロック,ハイコ
標題(和) モダリティ表現の多義性 : 共時的バリエーションと通時的変化
標題(洋)
報告番号 117567
報告番号 甲17567
学位授与日 2002.09.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第388号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 野村,剛史
 東京大学 教授 藤井,貞和
 東京大学 助教授 ラマール,クリスティーン
 東京大学 助教授 大堀,壽夫
 東京大学 教授 坂原,茂
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は2部からなり、テーマは「モダリティ表現の多義性-共時的バリエーションと通時的変化」である。このテーマについて本稿でなされる主な主張は、「事実性」の概念に基づいたモダリティ表現の定義の有効性、及び2つの仮説、すなわち「意味は、文内容的な意味から話し手中心的意味あるいは談話機能的意味へと変化する」と、「通時的な意味変化は共時的な意味のバリエーションに基づく」である。

 第I部では、理論的な検討を行った。文法範疇としての「モダリティ」についての把握は様々であり一致が見られないが、第1章では、従来の定義を批判的に紹介した上で、「事実性」の概念に基づき、構造より「意味」を重視した類型論的立場からその再定義を試み、その定義の通時的な含意についても論じた。第2章では、多義性の概念を紹介し、多義性の発達について仮説をたてた。第2章の第3節では、第1節と第2節で行った考察の結果を照らし合わせ、モダリティ表現の共時的多義性と通時的意味変化との関係について論じた。

 第II部は、第I部の理論的考察の結果を、日本古代語のモダリティ表現である「〜ベシ」を例に、検討した。「〜ベシ」は一般に非常に多義的な文法的マーカーと思われているようであるが、具体的な意味分析については諸説が異なる。第4章と第5章では、第2章で紹介した多義性概念に基づいて、上代語における「〜ベシ」の多様な意味解釈を体系的に説明することを試みた。続いて、「〜ベシ」の通時的な意味変化の記述と、上代語における多義性の語源に関する考察とを通じて、第2章でたてたモダリティ表現の多義性と意味変化との関係についての仮説を検討した。検討の対象となった資料は限られたものではあるが、その範囲内では、仮説が事実に合致することが確認できたと思われる。また、「〜ベシ」の原義については、一般言語学的な研究でよく言われる「義務のモダリティ」から「認識的なモダリティ」への変化は確認できず、「〜ベシ」の諸々の意味と解釈の源にあるのは、「参加者内的潜在性」であると結論付けた。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、日本語のモダリティ表現の多義性を理論的・歴史的に扱ったもので、第I部、第II部合わせて7章からなっている。

 第I部は、モダリティ表現の理論的考察に当てられている。

 著者はまず第1章で、モダリティ表現の定義をめぐる日本語並びに種々の言語の研究の・現状を検討し、論理学的モダリティ、命題以外の要素としてのモダリティ、主観表現としてのモダリティ等々の定義的取り扱いの問題点を指摘している。その上で著者は言語学的なモダリティを、「文内容の事実性との関わり」として捉えようとする。この立場からは、具体的なモダリティ表現は「事実性未定」の表現ということになる。著者の明快かつ論理的な姿勢をうかがうことができる。さらに著者は、モダリティ表現をめぐる文法的変化、特に「文法化」の過程を一般的に捉えようとする。モダリティ表現は、「できごとそのもの」を表す文法要素を源泉とした到達点であり、「談話効力・丁寧さ」を表す文法要素の源泉として捉えられる。またモダリティ表現の内部でも、「できごと中心」のモダリティ表現から「話し手中心」のモダリティ表現への変化が一般的であるとする。これらは確かに多くの言語で観察できる原則であろう。

 第2章は「多義性と史的変化」の問題が取り扱われている。そこで著者は、モダリティ表現を分類するパラメータとして、「できごと中心-話し手中心」の枠に加えて「意志的-非意志的」の枠組みが必要であるとしている。著者によれば、史的に主要な方向性は「できごと中心」から「話し手中心」への変化である。「意志的-非意志的」の枠組みは、具体的にのみ検討されるのである。史的変化の結果、種々の多義性が生ずることとなる。

 第II部は、第I部で示された理論的前提を仮設的な基礎とした古代語の接尾辞(助動詞)ベシの意味・用法、特に多義性の解明に当てられている。

 第3章では、ベシの多義性に関連して問題が提起される。取り扱われるのは主として上代語のベシである。

 第4章は、ベシの多義性とそれに関わる諸説の検討に当てられている。著者はベシの主要な意味領域として、意志的(当為的)な「適切」と非意志的な「必然的事態成立」との二つを提案している。著者は、非常に細かな分類=多義性の指摘には批判的である。細かな意味での多義性は、多くが様々な条件(会話の含意や推論)によって決定され、新たな「到達点」に達するとされる。非意志的な用法の中では、「様相」と著者が規定するタイプ(「咲くべくなりぬ」や「散りぬべく見ゆ」)が、最も根本的で古いものと認められている。また「可能」の用例の中には、非意志的・意志的の限定が行いにくいタイプの存在も認めているが、基本的には適切性の条件としての能力から可能の用法が発生したと考察している。

 第5章では、解釈の両義性や意味の広がりについての考察がなされている。まず、意志的、非意志的の両様の解釈が可能な例が検討される。筆者は解釈の両義性が現実には生じうると考えている。一つの動作が意志的にも非意志的にも解釈できる場合があったり、世界についての知識が両義的であったりするからである。またいわゆる「推量」は、事態が必然的に然々になるという「必然的事態成立」から、然々の状態に違いないという意味に進んだ最も「文法化」された用法と、考察されている。最後に、意志的(当為的)意味と非意志的意味とを分かつ根本的な概念特性を、著者はB・ハイネに従って、広義の「意志の要素」に特徴づけられる「カ」によるものとしている。

 第6章では、上代語のベシが以降においてどのような史的変遷をたどったか、また上代ベシの多義性の史的相関について検討がなされている。まず上代語ベシから現代語ベーへの変化であるが、著者は「文法範疇、意味/機能、形態、動詞複合体の中の位置」の4点に渡って検討している。これを文法範疇で代表的に述べれば、「できごと中心のモダリティ」から「話し手中心のモダリティ/談話効力」への変化、ということになる。おおむね妥当な考察と考えられる。上代語ベシの多義性の史的相関は、本論文における最も困難な課題である。著者は、いわゆる「当為的モダリティから認識的なモダリティヘの変化」(意志的から非意志的へ)及び「ある他の一つの意味から意志的・非意志的への変化」の二つが、可能性の高い仮説と考えている。その上で著者は、「意志的から非意志的へ」の変化は、一般的によく観察される変化であるとはするものの、非意志的意味の中で根本的と思われる「様相的用法」への変化を説明することが困難であると考察する。残る可能性として著者は、「ある他の意味」としての「可能」に注目する。「参加者内的可能(=能力可能)」から「参加者外的可能(=根源的可能)」、そこからさらに「認識的可能性」への変化は、一般的には可能性の高い変化であると、著者は考察している。その際に著者はまず、上代におけるベシの正訓的表記「可・応」の当代中国語としての意味に注意を払っている。最も多い正訓的表記「可」から、ベシにも「可能」的すなわちポテンシャルな意味が中心的であったことが推定できるとしている。そこでベシの根本的意味を「可能」とすることの当否であるが、単なる可能が根本にあるとすると「様相」の意味をそこからの派生・変化と考えることは困難だと著者は指摘する。著者の主張は、ベシの根源的な意味は、「参加者内的潜在性(ポテンシャル)」であったとする点にある。「ポテンシャルな状態」の意味から、「事態が必然的に成立する」というベシの非意志的意味が生じたのだろうと、著者は推測する。また「ポテンシャルな状態」から、「そうするのが適切」すなわち妥当性の意味が生じたのであろうと、著者は推測する。そして最後に著者は、如上の変化のすべてをまとめて図式化している。

 第7章では、以上の結論を基にした今後の課題が示されている。そこでは特に、日本語と欧語、特に英語・独語、また中国語との通時的な対照研究の可能性が指摘されている。

 本論文の特色として、古代語のモダリティ形式のベシを、欧語のモダリティ形式の歴史的変化と対照して論じている点が挙げられる。それが考察の一般性の高さをもたらしている。また現在しばしば、日本語のモダリティ形式の意味をその主観性に求めようとする見解が認められるわけであるが、著者はそのような独断的傾向から自由である。それが考察に柔軟性を与えているものと考えられる。ベシの正訓的表記の考察も、既成のベシ論に見られない新しい観点である。「ポテンシャルから必然事態成立・妥当性へ」という結論的仮説も魅力的・独創的である。ただこの点に関しては、より説得力の高い論理展開が更に求められよう。これは最先端の問題の困難性に関わる事柄である。

 本論文の著者の日本古代語の解釈能力は、欧語を母語とする研究者の中でひときわ高いものと認定される。日本語と他言語における「文法化」現象の一般性の高い対照研究は、今後の課題である。その意味からも著者の研究の一層の進展が期待される。

 以上の諸点に鑑み、本審査委員会は本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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