学位論文要旨



No 117568
著者(漢字) 李,秉鎮
著者(英字)
著者(カナ) イ,ビョンジン
標題(和) 「白樺派」における他者としての<朝鮮> : 柳宗悦と浅川巧の場合
標題(洋)
報告番号 117568
報告番号 甲17568
学位授与日 2002.09.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第389号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 竹内,信夫
 東京大学 教授 神野志,隆光
 東京大学 教授 大澤,吉博
 東京大学 助教授 三浦,篤
 武蔵野美術大学 名誉教授 水尾,比呂志
内容要旨 要旨を表示する

 本稿の主な内容は柳宗悦をとおして見た「白樺派」の他者認識の問題である。柳宗悦を中心とする理由は、西洋化による近代的自我の獲得の過程と、その反動として起きた東洋への回帰が、彼において極めて濃厚に顕れているからである。例えば、柳宗悦は西洋的なの立場から朝鮮の美を発見する。こうした発見によって柳宗悦はどのような世界観を形成していくのか、という問題を検討する。同時に東西の差異を消滅させた「白樺派」の世界観との関係についても考える。明治期以来西欧文化へ傾倒し続けてきた日本は、大正期に入ってく人類>という抽象化された普遍的概念によって、西欧文化の他者性を消去することで<西欧=日本=人類>という図式のもとに同一化する志向を示す。もちろん、柳の朝鮮に対する審美的な態度によって新たな問題が引き起こされるが、主体が見えなくなった大正的な言説空間に主体の見える批判を投じたのは柳宗悦であった。

 しかし、他の同人と歴然たる差別性を持っていた、柳宗悦の朝鮮に向けられたまなざしには複雑な心理が含まれる。柳の朝鮮に向けられていた視線が、朝鮮という<他者>の発見には成功したが、西欧的芸術観の洗礼を経た柳の視線は、朝鮮芸術に対して奇妙な形をとる。こうした現象は、柳自身が東洋とか西洋とかという地理的区分は、<芸術>の世界においては無意味であり、<美>の世界においては東西を問わない、というような芸術至上主義の立場に立っていたからである。

 柳が引き起こした新たな問題とは、彼が発見した朝鮮という<他者>が「美的態度」によって発見されたものだ、ということである。柳が朝鮮の「民芸」を高く評価したのは、東洋的な美が保存されている朝鮮の美を守るべきだという使命感からのものであった。それは西欧中心的な近代化によって失われつつある東洋的な美への柳のノスタルジーでもあった。そのような柳のまなざしからの発見、自分が東洋人であるという自覚は、西欧の芸術が普遍でありその立場から東洋、ことに朝鮮の美を普遍的なものとして発見しようとする態度であった。よって、一度発見された朝鮮という<他者>との現実は、<美>という超越性によって解決できると柳は考える。そしてその志向は彼の美学理論として「民芸」論で完全に論理化される。そして柳の「民芸」論は、朝鮮の「民芸」品の美的価値を高く評価しながらも、それらを製作した朝鮮人には無関心であった。柳の朝鮮芸術論、とくに「民芸」論には人間不在の問題が伏在している。他の「白樺派」とは異なる朝鮮認識と、朝鮮という<他者>を発見した柳にしても、その底流には「白樺派」的な認識が流れていたのである。かえって、芸術をとおして人類の問題を解決しようとする世界観の論理的な根拠を他の「白樺派」に提供したのが柳であった。

 こうした問題群を考えるときに、柳の「民芸」運動の欠かせない協力者であった浅川巧との比較をとおして「民芸」論を検討する。もちろん、浅川巧という人物が正式に「白樺派」に属していたわけではない。ここで簡単に柳と浅川の根本的な「民芸」論の違いについて指摘しておきたい。柳が主張する「民芸」論とは、民衆が日常生活のなかで使用する工芸品や雑器などに、新しい美的価値を与えることを意味する。経済的な余裕を持たない民衆が普段の日常生活のなかで使う用具は美的価値よりは、使用用途に合わせての実用性が重視される。柳は、用途に合わせて人々が毎日使う「民芸」品から人間の温かさを発見し、感動する。さらに柳は、「民芸」品というモノをとおして朝鮮という<他者>に出会う。一方、浅川巧は朝鮮で朝鮮の人々と一緒に生活しながら、自分も日常生活で「民芸」品を使いながら、朝鮮の人々と交渉する。浅川巧にとって「民芸」品は、朝鮮の人々との交渉の不可欠な手段であった。これに比べて柳は、朝鮮の「民芸」品をとおして想像としての朝鮮、美の世界としての朝鮮に出会った。少なくとも<物>の用途が重視される「民芸」品を論じる時、実際にその使用の世界に参加するか、しないかの差異は大きい。このような使用の世界に参加した浅川巧と、そうでない柳宗悦の朝鮮認識を比較し、そこから何が見えてくるかを考察するのが、筆者のねらいである。

 そしてこれらの問題群を論じるとき、例えば「白樺派」と柳、柳と浅川、浅川と「白樺派」など、それぞれの差異について論述する。それらを俯瞰したとき、大正という言説空間のもとにそれぞれはどのように関係しているのだろうか。彼らの言説はく自己>からく人類>・<自然>・<美>などへと結び付き、多様で複雑な現実をそのもとに一元化する超越的概念を駆使するのである。

審査要旨 要旨を表示する

 李秉鎮氏の博士学位請求論文、「白樺派」における他者としてのく朝鮮>-柳宗悦と淺川巧の場合-」は、「大正期言説空間」と氏が呼ぶ日本近代史の一時期において、雑誌『白樺』を舞台に積極的な発言を行い、やがて「民芸運動」の主導者となる柳宗悦の朝鮮との関わりを主要テーマとして取り上げ、そこに「白樺派」と通底する「他者認識」とそれとは異なる独自の方向性とが同時に存在することを指摘し、両者の拮抗する間隙に<朝鮮>という他者がどのように現れてくるかを考察しようとするものである。

 その際、李秉鎮氏は、既に数多く存在する「白樺派」及び雑誌『白樺』に関する先行研究、柳宗悦と民芸運動に関する先行研究を踏まえながら、同時に淺川巧という人物を導入することによって新しい視点を設定し、以て従来の研究を相対化したうえで、そこにいくつかの新しい知見を加えている。特に、柳の協力者として、また「朝鮮の土となった日本人」としてのみ知られていた淺川巧の『日記』に注目して、淺川巧という人物の独自な立場と思想を剔出し、柳宗悦と彼の民芸思想そのものをも相対化する視点を明確に提示していることは、もっとも注目されるところである。

 李秉鎮氏の論文は4章より成り、それに「序」と「結論」が付けられている。以下、論文の構成に即して、各章の議論を紹介し、随時審査委員からの指摘を記しておく。

 「序」において、氏はまず、「白樺派」の言説の主要な性格を、先行研究、特に大正期の文学をめぐる最近の議論と、アジアに対する日本の「オリエンタリズム」的志向をめぐる議論を参照しながら、日本の自己認識が幕末明治期に顕著であった「日本対西洋」という二項対立的構図から、「白樺派」の時代には「西洋対日本対東洋」という三項を含む構図へと転換したことを確認している。そのことによって、「西洋化によって獲得された近代的自我」と、それを揺り動かす「アジアへ回帰する自我」のダイナミズムが生まれる。柳宗悦の朝鮮認識を、このダイナミズムのなかで理解することが、李秉鎮氏の基本的戦略である。「序」においては、氏が本論文において淺川巧を論じる理由も述べられている。一つは、淺川という人物が、不分明なく自己>に拘る「白樺派」のなかで明確に<他者>の問題を提示してくれるということ。二つには、淺川巧を通じて柳宗悦の朝鮮認識を相対的に考察することができるということ、である。

 続いて第1章「大正期の文化と『白樺派』」においては、多く先行研究の批判的考察を通じて、「白樺派」の言説空間と自己認識の様態、つまりその「観念性」と「抽象性」とが分析される。概括的ではあるが、適格な文献処理によって妥当的な結論が導かれている。

 それを受けて第2章、「柳宗悦の批評的な振舞い」において、本論文の主要テーマである柳宗悦の『白樺』における批評活動が、「朝鮮の美」発見の時期を中心において考察される(第1節)。特に、柳の宗教哲学的論考と目される「哲学に於けるテンペラメントに就いて」(1913)、「哲学的至上要求としての實在」(1915)という文章に即して詳細なテクスト分析が行なわれる。その結果として、柳における批評の主要な関心が「哲学と芸術と宗教を中心とする三位一体の理想の実現」であり、その根底には白樺派的<自己>実現への希求が存していたことを、氏は指摘する。(以上第2章第1節)この部分の論証も概ね説得的であると評価された。

 第2節、「柳宗悦の朝鮮美の発見と淺川兄弟」では、1919年に淺川伯教の齎した李朝の壷を機縁として柳が「朝鮮の美」を発見する周知の事実から、1920年の彼の2回目の朝鮮旅行、1924年に京城(ソウル)の景福宮内の「観富楼」に「朝鮮民族博物館」が開館されるまでの経緯が、1919年、「三・一独立運動」(万歳事件)を機に発表された「朝鮮人を想ふ」、同年の「石佛寺の彫刻に就いて」、20年の「朝鮮の友に贈る書」、同年「彼の朝鮮行」などのテクスト分析を通じて考察される。そのなかで、柳がそれまでの「観念的・抽象的な朝鮮認識」から離れてゆく経緯が論述される。

 第2節の論証を踏まえて、第3節では、柳の「民芸」論の内実が分析の対象となる。ここでは柳の宗教的美学が内包する超越性志向が指摘され、またそれと併行する民芸運動の「世直し」的な志向性が詳細に分析される。このような志向は西洋を学び西洋を内在化した柳の批評言説の一般的な性格とされるが、その克服の可能性が朝鮮美との出会いによって開かれ、朝鮮が<他者>として発見された、というのが氏の結論である。ここでも斬新で力強い論証が説得的に行なわれている。

 第3章「浅川巧の対話精神-留保的なまなざしを求めて-」、第4章「『日記』に見る淺川巧」は、一転して、標題からも判るとおり淺川巧を論じる。第3章では、既によく知られている淺川の著作、『朝鮮の膳』(1929年)と『朝鮮陶磁名考』(1931年)及び『白樺』に発表された文章などを資料として、淺川の朝鮮認識が検討され、柳の超越的・宗教的志向とは異なる、現実的・社会的な彼の「対話精神」が照らし出される。

 また、第4章は、1983年に発見され、1996年に公開された新資料、つまり淺川の1922-23年の「日記」に基づく分析である。テーマとして選ばれるのは、淺川のキリスト者としての有り様(第1節)と彼の朝鮮認識の具体相(第2節)である。従来の研究の欠を補う重要な学問的寄与を成すものであるとの評価が為されたが、新資料として提示された「目記」の分析が第3章の論証と十分に結合されていないことなど、構成と論証において改善の余地があることが複数の審査員から指摘された。

 最後に付けられた「結論」に関しては、「序」との整合性の欠如、「結論」として十全ではない、など主に「序」、「本文」との関係で批判的意見が審査員から述べられた。

 全般的に見て、「誠実な労作」であり、「冷静かつ具体的な分析」が行なわれており、白樺派、民芸、柳宗悦というような大きな問題を相対化する新視点を提示したこと、淺川巧の重要性を示し得たこと、等は各審査委員から高く評価された。細部において根拠の示されない判断、不適切な表現、資料の未消化などの瑕疵があることも指摘されたが、本論文の学問的寄与を大きく損ねるものでないことが確認された。

 以上の審査の後、審査員全員による協議の結果、全員一致で本審査委員会は、李秉鎮氏に博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

UTokyo Repositoryリンク