学位論文要旨



No 117572
著者(漢字) 川崎,惣一
著者(英字)
著者(カナ) カワサキ,ソウイチ
標題(和) メルロ=ポンティにおける主観性の成立構造の問題
標題(洋)
報告番号 117572
報告番号 甲17572
学位授与日 2002.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第369号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松永,澄夫
 東京大学 教授 天野,正幸
 東京大学 教授 高山,守
 東京大学 助教授 一ノ瀬,正樹
 東京大学 教授 村田,純一
内容要旨 要旨を表示する

 メルロ=ポンティの哲学は、伝統的な主観性の概念の鋳直しを行うことをその最大の目標としている。本論は、彼が主観性の概念にいかなる内実を与えているかという問題について、主観性の成立構造という観点から論じたものである。本論は三部構成になっており、第一部では身体を、第二部では言語を、第三部で存在をテーマとしている。これらはそれぞれ、メルロ=ポンティの哲学の三つの時期にほぼ対応している。

 第一部は、メルロ=ポンティの前期を代表する著作であり、彼の主著でもある『知覚の現象学』において、主観性の構造がどのようなものとして提示されているかを検討している。

 メルロ=ポンティは知覚の分析に基づいて、主体とは意識や精神であるよりも前にまず身体であり、この意味において、身体は知覚の真の主体でありそれはいまだ無名の非人称的主体であると論じている。この身体の働きのおかげで我々に実存の地が与えられ、コギトもまたその実存の地を土台にしている。主観性は、与えられた実存の地に内属しつつそこから超越を果たすという構造を持っており、この構造は時間性の「脱自」の構造そのものである。

 第一部はメルロ=ポンティのこうした主張を概観しつつ、『知覚の現象学』に見られる議論のいくつかの曖昧さを指摘している。

 第二部は、主として彼の中期に属するテキストをもとにメルロ=ポンティの言語論に検討を加え、さらにそれを主観性の成立構造の問題と結びつけて論じている。

 メルロ=ポンティは言葉と意味との密接な結びつきを一貫して強調している。また、『知覚の現象学』では、言語を身体的所作の一つに含めて考えるという言語観を提示しているが、ここには実存の様式と言葉の意味との連続性という発想が見られる、彼はさらに中期のテキストにおいて、ソシュールからの強い影響のもと、言語と意味との関係をめぐって、言語の間接性や、沈殿と再活性化のダイナミズム、言語の創造における偶然性と理性、あるいはまた、意味の超越の問題と表現の逆説などのテーマについて論じている。

 そこでは、意味は表現を介してのみ成立するにもかかわらず、表現が成功するやいなやその表現を超越したものとして現れる、とされている。ところで、言語と意味との関係に見られるこの関係は、「私」という自己再帰的な表現についてもあてはまるに違いない。すなわち、表現された「私」を介して捉え直されることによってこそ、表現的主体が確たるものとして立ち現れてくるのである。だとすれば、こうした表現の働きの内に、主観性の成立構造を見て取ることができるのではないだろうか。

 第三部は、メルロ=ポンティの後期のテキストで展開されている存在論について検討を加えながら、主観性の成立構造が存在論の観点からどのようなものとして論じられているかについて、明らかにしようと試みている。

 メルロ=ポンティは、言語に関する中期の研究を通して、言語のみならず身体をも共に規定しているような自発性の働きがあるという考え方へと接近していたが、晩年には、知覚、身体、言語、他者などのテーマを<存在>の観点から論じ直そうとし、それらを<存在>に見て取られる自発性の働きによって説明することを目指していた。これに伴って、主観性についても、やはり<存在>から出発して捉え直すという道を模索している。

 重要なのはやはり身体であり、知覚である。知覚は運動によって裏打ちされているのだが、運動において身体は動かすものであると同時に動かされるものであり、こうした運動の再帰的構造の内密さにおいて自己が構成されている、とメルロ=ポンティは考える。主観性が成立するのは、まさしくここにおいてである。この自己は身体を介して<存在>へと開かれており、この<存在>は主観性の成立基盤ともなっている。

 私が他者の経験を持つことが可能となっているのも、この<存在>という次元性を基盤としてに他ならない。メルロ=ポンティはこのことを、「間身体性」という概念によって論じている。私の右手と私の左手の間の可逆的な関係が、私の手と他人の手が触れるという場面においても見て取られる。こうした身体性のレベルにおける相互性に基づいて、私は他者の身体に、私と同じ仕方で存在している他者を認めることが可能となる、とされる。またこのことが、私と他者との区別は<存在>の「裂開」によって成立したのであり、<存在>は他者の超越の基盤でもある、と捉え返されるのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、普通、前・中・後期に区分されるメルロ=ポンティの哲学全期にわたってその主要思想を検討し、特にメルロ=ポンティによる主観性の成立構造の探求がどのようにして深められていったかを中心にまとめた労作である。

 第一部では、まず最初期の著作『行動の構造』のうちに知覚主体としての身体が発見される様をたどり、身体論として読み解かれるべき主著『知覚の現象学』の分析につなげた。その分析では、身体が知覚の非人称的主体であるというメルロ=ポンティの主張を考察し、身体は実は知覚が成立してくるための実存の地を構成するだけであり、主体が立ち現われてくるための土台に過ぎないと断じ、メルロ=ポンティに未だ曖昧性があることを突いた。ついで論者は同様の曖昧性を暗黙のコギトという概念、時間性の構造に関する議論にも指摘した。第二部では、表現的主体の成立に焦点を当てることを終着点に睨みつつ、メルロ=ポンティの前・中期における言語論を検討し、身体的実存の様式と言葉の意味との連続性、意味の超越、表現を成立させる自発的な働き等を考察した。第三部は、メルロ=ポンティ後期の存在論の解明という困難な作業に挑み、それまでに論じられた、身体、知覚、時間性、言語のみならず、他者という主題を含めたすべてが、そのそれぞれの切り口を通じて、存在するものすべての普遍的次元である<存在>の考察へと送られ、そこから捉え直されるべきものであることを示した。そして、特に本論文の主題である主観性の成立構造に関しては、<存在>の自発的働きを根底にした再帰的構造をもつ身体運動=知覚を通して自己が構成されることを見届けた。

 以上のように、本論文は、今日の哲学や心理学等の諸科学、思想に大きな影響を与えたメルロ=ポンティの思想をその全般にわたって取り上げつつ、メルロ=ポンティによる主観性の成立構造の探求を追い、その最終形態を彼の存在論のうちに読みとろうと努力し、一定の成果を上げたものである。それは、メルロ=ポンティの真意を掬い取ろうとして彼の思考に密着せんとする余り、彼の独特の用語や言い回しに寄りかかる仕方でしかその考察内容を表現できなかった部分をももつ憾みはあるものの、メルロ=ポンティの思想を多岐にわたって追考し、おのれの知見を数々のメルロ=ポンティ研究のうちに位置づけることも怠っていない、好論文である。

 よって、本論文は博士(文学)の学位を授与するに値すると判断する。

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