学位論文要旨



No 117574
著者(漢字) 塩飽,直子
著者(英字)
著者(カナ) シワク,ナオコ
標題(和) 仏法と自己 : 『山水経』をてがかりに
標題(洋)
報告番号 117574
報告番号 甲17574
学位授与日 2002.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第371号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 竹内,整一
 東京大学 教授 佐藤,康邦
 東京大学 助教授 菅野,覚明
 共立女子大学 教授 佐藤,正英
 お茶の水女子大 助教授 佐藤,光子
内容要旨 要旨を表示する

 道元は仏法の中に本来の自己を求め続けた。この論文では道元が、仏道において実現することを目指した、本来の自己のありかたを考察する。第一章では、道元の「仏法」を考察し、「仏法」が「尽十方界」大の伝法関係であることを明らかにし、第二章では、『山水経』巻から、具体的な伝法関係のあり方を、<山>に即して考察する。

 第一章

 道元は「仏法」を、<単伝する法><人々の本来持つ法><事物事象の実相としての法>として捉える。これらは一見違うものに見えるが、道元においては同じ仏法とみなされる。

 道元は、単伝する「仏法」を「仏教」として、すなわち「仏が仏を教える」行為として捉える。道元は、「仏が仏を教える」行為は、「尽十方界」という仏教的世界観に基づく世界において、「尽十方界」の住人のすべてによって営まれると考える。道元は、このような「侭十方界」を「経巻」とよぶ。「経巻」としてある「尽十方界」においては、それぞれの存在は、方便として「ことば」を発し、相互に無限の伝法関係を実現する。

 道元は、人は本来「尽十方界」の中に様々な事物事象と伝法関係を実現していると考える。しかし、人間(じんかん)に限定され、「尽十方界」を知ることのできない私たちは本来の自己の営みに気づくことはない。道元は、私たちの捉えることのできない「尽十方界」大の伝法関係を、人間(じんかん)に限定して可視化するものが、伝統的修行法であると考える。伝統的修行法は、人間(じんかん)の中に「伝え伝えられていくこと」において、本来の伝法関係を実現すると捉えられる。道元は、このようにだれもが簡単に本来の自己を実現することのできる伝統的修行法を、「妙修」とよぶ。

 しかし、仏道は「妙修」だけでは十分ではない。仏道は、「妙修」を超えて、すなわち人間(じんかん)に限定された伝法関係を超えて、「尽十方界」大の伝法関係を目指していかなければならない。仏道において、修行者は事物事象を本来の主体として発見し、人間(じんかん)を超えた伝法関係を実現していく。道元は、限定的人間(じんかん)の関係において固定されている自己と事物事象の意味を超える時に、自己は事物事象と主体として出会い、本来の伝法関係を実現することができると考える。

 第二章

 『山水経』は、「経」としてある<山><水>のありかたを説く巻である。「経」としてある<山>は、「尽十方界」の中にあり、様々な存在とともに伝法関係を成就する。道元は、<山>が、「いま」、方便として<山>自身を「経」として現わし、伝法を成就することを、「運歩」ということばで捉える。「運歩」とは、人の経験を超えた「五蘊」の「刹那生滅」を繰り返す時間のなかで、本来の自己が、方便を用い伝法を成就することである。

 道元は、また、本来の自己が「刹那生滅」の中に伝法を実現することは、「進歩退歩」の営みと不可分であることを示す。「進歩退歩」とは、自己が無限に「生死輪廻」を繰り返し、仏道参学を続けることである。

 道元は、修行者が「進歩退歩」し「運歩」する<山>を知るときに、すなわち<山>が「生死輪廻」の中に参学を続け「刹那生滅」の中に伝法を成就することを知るときに、<山>は本来の主体として現れると考える。<山>が本来の主体として現れるのは、<山>が伝法を成就する時であり、その時同時に修行者も本来の自己を実現することができる。

 道元は、自己と事物事象が平等の主体として出会うことは、人の経験する「生」を超えた時間、すなわち「五蘊」の「刹那生滅」を無限に繰り返す時間と、自己が無限に「生死輪廻」を繰り返す時間において実現すると捉える。「いま」の「生」は無限の「生死」から捉え返され、「いま」経験されている自己とそれぞれの事物事象に、無限の「生死」が象徴されていると捉えられた。道元は、限定された関係と限定された時間の中に、「いま」の自己と事物事象を、意味として固定することなく、無限の「生死」の象徴として捉え続けることが、本来の自己を実現することであると考えた。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、仏道を「自己をならふ」ものと捉える道元の思想を手がかりに、仏法という枠組みにおいて捉えられる本来的自己のありようとその実現の仕方とを明らかにしようとするものである。

 道元は、教え(経)の理論を探究して悟りを目指すあり方を否定し、過去の仏から伝えられてきた修行法を実践し、伝えられていくこと以外に仏道はないと考える。すなわち、本来の自己は修行の実践・継承においてのみ、今・ここの自己にあらわれてくるとされる。論者が注目するのは、本来的自己が、教えを受け、それを伝えるという「伝法」の接点に成り立つというこのことの構造である。本論は、この伝法の構造を道元の所論に沿って詳細に分析しつつ、仏法として捉えられた世界における本来的自己のありようを明らかにしていく。

 本論は、大きく二つの部分から成っている。前半部分においては、「教え」や「経」をめぐる道元の独特の理解が分析される。論者によれば、道元が仏法に言及する仕方は、三つに分けられるという。第一に「単伝」という形で師から弟子に伝えられていくものとしての仏法、第二に、人が本来自らの内に備えているものとしての仏法、第三に、修行において開けてくる事物の実相である。これら三様の仕方で語られる「仏法」の内実及び相互関係の分析を通して、論者は、道元のいう仏法、すなわち本来的自己は、根源的には自己と「尽十法界」との間で成り立つ、相互的かつ無限の「伝法」関係そのものであると捉える。そして、叢林における修行において、今・ここに具体的に実現する「伝法」関係は、「尽十法界」大の無限の「伝法」関係を現わす仕方としての特権的な行為(妙修)であり、同時に今・ここを超えていく契機として、それ自体日々乗り越えられていくべきものでもある。このことを論者は、日々の修行において無限の生死が超えられていくとする道元の言葉と結びつけ、今日の私たちの生き方をめぐる思索の手がかりとしようと試みる。

 本論後半部分では、道元の主著『正法眼蔵』の「山水経」巻が分析される。論者によれば、眼前の「山水」が「経」であることを示すこの巻は、伝法関係のダイナミズムそれ自体が本来の自己の実現であることを直接の主題としたものであると捉えられる。ここでは、『正法眼蔵』特有の難解な行論が丹念に解きほぐされる。特に、道元が、この巻の主題である「青山常運歩」「石女夜生児」という言葉を、「尽十法界」大の伝法と、現実の叢林における伝法との相互運動を示すものとして説いていることが明らかにされる。そして、論者はそのことを、今の生における自己と、無限の生死を超える自己との往還関係として捉え直すことができるものと結論づけるのである。

 以上本論文は、伝法における師弟相互関係の中に、道元が見出していた仏法のあり方を、倫理学における「自己」の問題として捉え直したものである。特に、道元の「単伝」という考え方を世界観の構造として解き明かしているのは、本論文の大きな特色であり、この点は評価に値する。一方で、『正法眼蔵』細部の解釈については、今後詰めるべき点も残されている。また、分析に用いられる概念の規定にやや揺れが見られるなど問題がないわけではない。とはいえ、倫理学の今日的な問題関心に基づいて、難解をもって知られる道元思想の核心部分を一定の理路によって読み解いた点は、高く評価でできる。

 以上により、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するものと判定する。

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