学位論文要旨



No 117576
著者(漢字) 阿部,幸信
著者(英字)
著者(カナ) アベ,ユキノブ
標題(和) 漢代印綬制度の研究
標題(洋)
報告番号 117576
報告番号 甲17576
学位授与日 2002.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第373号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平勢,隆郎
 東京大学 教授 池田,知久
 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京学芸大学 教授 太田,幸男
 学習院大学 教授 鶴間,和幸
内容要旨 要旨を表示する

 栗原朋信の「文献にあらわれたる秦漢璽印の研究」(『秦漢史の研究』吉川弘文館、1960年、所収)は漢代印綬制度研究の嚆矢である。栗原は印綬制度研究を基礎に、漢の「内臣-外臣構造」論を提起した。その後、栗原の理解に反する遺物が出土するなど、その研究の基礎的部分に疑問が投げかけられるようになったが、本格的な検討作業は今日まで行われずに至っている。本論文では、漢代印綬制度を改めて再整理し、栗原説の批判的継承を試みる。

 本論文は3部構成をとる。第1部「漢代印綬制度の諸相」では、印綬制度の検討を行う。 第1章では、これまで封緘を主目的に賜与されていたものと理解されてきた公印が、前漢後半期以降においてはむしろ「統率の象徴」として機能するものであり、これを賜与されることは「公」の空間の構成員の一部を「統率」する権限を委譲されることであって、漢の官僚機構はこうした「統率」の重層構造によって成り立っていたことを示す。民庶もまた、印の所持を許された郷三老を媒介としてこの構造の末端に組みこまれていた。三老の存在意義は「尊年」、つまり歯位を尊ぶことを示すところにあり、ゆえに郷飲酒礼において象徴的役割を果たしていたとみられるが、そのことが「公」の空間における「統率」とみなされるのであってみれば、郷飲酒礼とはまぎれもなく「公事」であり、そこにおいて形成される歯位秩序も、国家権力によって裏づけされたものであったはずである。

 第2章では、印材と綬色の示す序列を具体的に整理し、従来「印綬制度」といわれてきたものが「印制」と「綬制」という別個の制度であったことを指摘する。両制度の分離は、王莽による成帝綏和元(前8)年改革をその端緒とする。以後、印制は官秩序列を、綬制は周制を表示するようになり、この傾向は莽新を経、後漢において固定されたと考えられる。漢代における周制の存在やその機能については依然不明な点が多いが、これは第2部で改めて検討される。

 第3章では、後漢であらわれる赤綬の問題を中心に、綬の理念的性格を垣間見る。漢初は皇帝は赤綬であったと考えられるが、これは武帝期を境に黄赤綬に改められた。しかし劉氏と赤の結びつきは漢火徳説の台頭によって再利用されるようになり、後漢が火徳を称するようになると、劉氏の血縁原理を示す綬として確立された。

 第4章では、印および綬の構造について仔細に検討する。印の示す差等は、印面の規格・鈕式・印文・印材の4種に分けることができるが、いずれも印材の序列と基本的に一致しており、印制は印材の序列に従って議論できる。また綬の示す差等は、長さ・首数・色の3種に分けられる。前2者は9・6・8という3つの数字の組み合わせによって構成されていたが、皇帝綬の規格がそれらの総数となるよう意識されていたことを除けば、序列そのものと数字の組み合わせには有意の関係は認められない。一方、綬色の序列は王朝の正統観を支える方位生成の論理に従って決定されており、序列は正統観を明確に反映している。同時に、長さ・首数に比べ、色の序列のほうが相対的に視認性が高いものと思われる。よって、綬制は色の序列に従って議論してよい。これらの理由から、第2章において印材・綬色によって印制・綬制を検討したことには誤りがないと確認できる。

 第2部「漢代における周制の展開」では、周制の具体的発現の諸形態を示す。

 第5章では、周制と関係するものとして朝位に着目する。朝位は「(王-)公-卿-大夫-士」という周制序列に還元できるが、その周制の可視的標識が綬であったからには、綬は同時に朝位の可視的標識でもあった。しかも綬の有無をめぐる検討によれば、綬は単なる位階標識であるにとどまらず、その所持が朝会の参加資格でさえあったと考えられる。朝位は元会儀礼において再生産される「朝廷の秩序」の形成に関与していたが、ここから周制が「朝廷の秩序」であったことが想定される。また、朝位は異民族にも与えられた。

 第6章では、印綬追贈の制度について考察し、朝廷の外でもやはり周制が機能していたこと、印の本綬と仮授の性格の違いを明らかにする。漢代における印綬追贈は五等爵に比せられる爵位を有する者を基本対象とし、これらの爵位にある者に対し、生前における爵位=印綬の所持を死後も保障しつつ、彼らを永久に天子を中心とする礼的秩序の中に位置づけることを目的とした。この「礼的秩序」が周制であり、それに沿って葬礼の格式が決定された。逆に、五等爵に比せられない関内侯や官職・累民族の印綬はすべて「仮授」であり、随葬も許されなかった。印綬追贈を許されるものと許されないものとでは、印綬の賜与形態自体が本質的に異なっていたのである。

 第7章では、綏和元年改革における長相の黒綬化の意義について議論する。これは、四百石・三百石の長相を、その官秩の低さにもかかわらず、黒綬つまり大夫と位置づけたものであった。長相の黒綬化を伴った綬制改革により、漢の官制は一律に周制に擬えられたが、中央において四百石以下の官が黒綬とされた例はないことから、綏和元年以降においても中央官制では周制と官秩序列がかなりの精度をもって一致し、官秩序列の論理が比較的強く生きていたことがわかる。それに対して地方官制では、周制の導入によってそれまで不均等だった県令長相の地位が画一化されたことで、均質な郡のもとに均質な県が並立する新たな秩序がはじめて完成した。つまり、周制の影響を中央よりも色濃く受けたわけである。これは、緩和元年綬制改革が前提としていた「周制」の在りかたが、中央と地方を理念的に相対化するものであったことを示唆する。同時にこの綬制改革は、令長相を察挙後の任官対象とし、またそれらを一律に刺史の監察対象に含め、かっ親任官化する作用をもっており、これらによって地方は中央のより強い統制の下へ入っていったものと考えられる。つまり綏和元年改革は、中央-地方の相対化と中央集権体制の志向という相反する性格を同時にもつわけであるが、その相反する方向性をつなぎあわせていたのが綬制改革だったのである。

 第8章では、綏和元年改革の理念的背景についてみる。王莽に代表される一派によって主導された綏和元年改革は、『周礼』『礼記』を折衷的に用いる形で行われていた。具体的には、『周礼』の理念的・重層的国家機構を『礼記』の三公九卿制に即して再構成するという形がとられ、それに伴って、印によって可視的に表示される「統率関係の重層構造」が「封建擬制の重層構造」として発現するようになり、同時代の人々にも明確に意識されるようになっていった。またこの「封建擬制の重層構造」においては、内諸侯と外諸侯の差が意識されていたため、中央と地方の位階序列が不一致をみるようになった。前章でみた「中央と地方の理念的相対化」の正体とはこれである。こうした背景のもと整備された察挙制度や監察制度などの総体である「綏和元年的秩序」は、莽新を経て後漢に継承されたが、それは県丞尉に対する統制の強化を伴いつつ、順帝期頃までにかけて徐々に変質していった。但し、その終末は依然明らかでない。

 第3部では、以上の検討を土台にして、栗原説を再検討し、「内臣-外臣構造」の形成と、そこにおける冊封体制への胎動をみる。

 第9章では、漢の諸侯王印の格式の変遷と異民族印の定式確立の時期について考える。漢の諸侯王の印章は当初玉璽であったが、武帝元狩年間の印制改革時に金印に改められ、後漢建国後まもなく、赤綬の導入とともに金璽となって、これが定着した。漢印の鈕式も一貫していたものではなく、整備の時期は厳密に限定できないが、南越滅亡を契機に蛇鈕がいったん漢制にとりこまれた後のことであったと考えられる。異民族印に対して「漢」字を付加することは、太初元年の五字印制導入以後にはじまった。「〓王之印」金印は、それらの仮定がすべて正しいことを示す遺物である。よって、この時期の印制は、内臣・外臣を区別して表示するに足るだけの条件を備えていなかったとみられる。

 第10章では、「内臣-外臣構造」の形成について述べる。「内臣-外臣構造」類似のものは秦から認められるが、従来の研究史や印綬制度の変遷を念頭におくと、それは秦の属邦制にはそのまま接合できない。とくに、内と外を可視的に分ける異民族印が成立するにあたっては、「内」と「外」の再分割がなされたと考えられる。この再分割に寄与した要素は2点あり、1つは武帝期の「内」の統一完成、いま1つは中朝-中央-地方-夷狄という同心円的多重構造を前提とした国家の成立、つまり「綏和元年的秩序」の確立である。これらによって「内」と「外」は「中華」と「夷狄」に対応するものとなり、華夷思想による峻別と徳化思想による統合がはかられる「内臣-外臣構造」がはじめて完成した。また「綏和元年的秩序」においては、帝国全体に「封建擬制」が網のように張りめぐらされており、これは異民族にまで及んでいた。それは、「封建」を担う大鴻臚が成帝期以降「内」「外」を一括管理するようになることにあらわれている。このようにして、「封建」という形で統一づけられた漢の「内」と「外」は同じ周制序列=綬で結ばれ、それが元会儀礼によって「朝廷の秩序」を形成していた。「内」の民庶はこれには含まれないが、これもまた郷飲酒礼による歯位秩序形成をとおして他律的な秩序再編を受けていた。元会儀礼と郷飲酒礼は相互補完の形で漢帝国内の他律的秩序再編を実現し、それは印による「封建擬制」の重層構造によって支えられていた。印綬とは、こうした漢帝国の支配構造を示す「統一の象徴」であったのである。

審査要旨 要旨を表示する

 中国古代の印綬をめぐる問題は、志賀島出土の金印をあげるまでもなく、我が国の古代史をもまきこんだ重要テーマである。論文提出者は、この問題を検討するにあたり、印と綬の機能をわけ、綬が朝位や葬送の格式を決定していることを明らかにし、その上で、王莽時期におこった印と綬の分離、すなわち印が示す官秩と綬による序列の不一致の意味するところを究明して、官制改革の推移をまとめなおすことに成功している。綬の序列には、理念的に回顧整備された周制がかかわる。この点に、色の序列を決めるその方法の解明作業をからめ、みずからの推論を強化している。理念的周制が中央と地方を分ける封建擬制の建前をもつだけでなく、両者を中央の下に統合して説明するする役割を担っていたとする推論は、印が華夷思想、綬が徳化思想と結びつき、いわゆる東アジアさく册封体制の下で、前者が内外の分離を、後者が統合を表現したのではないかというさらなる推論に結びつく。

 なお、論旨には関わらぬとはいえ、一部推論のいきすぎを指摘された箇所もないではない。しかし、限られた史料事情の下、検討の進め方はきわめて堅実であり、中国古代史研究を新たな段階に進めた点は、高く評価できる。よって、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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