学位論文要旨



No 117577
著者(漢字) 堀井,優
著者(英字)
著者(カナ) ホリイ,ユタカ
標題(和) 16世紀前半の東地中海世界における貿易秩序とヴェネツィア人 : マムルーク体制からオスマン体制へ
標題(洋)
報告番号 117577
報告番号 甲17577
学位授与日 2002.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第374号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,董
 東京大学 教授 佐藤,次高
 東京大学 教授 蔀,勇造
 東京大学 教授 深澤,克巳
 信州大学 教授 斎藤,寛海
内容要旨 要旨を表示する

 オスマン朝のマムルーク朝領併合(1517年)とそれに続く海上覇権および対外関係の東西への拡大は、東地中海貿易の代表的な担い手だったヴェネツィア人の活動のあり方に重要な影響を与えたと思われる。本論では、オスマン朝主導による新たな貿易秩序の形成過程を、二つの側面から明らかにすることを試みた。

 第1章「オスマン・ヴェネツィア条約体制の変容と拡大」では、オスマン朝がヴェネツィアに5回にわたって賦与した「アフドナーメ(条約の書)」の内容を検討し、両者間の友好・貿易関係を基礎づける諸規定に重要な変化が起こったことを明らかにした。第一に、海上におけるオスマン朝の主導権とヴェネツィアに対する規制が強化されていく過程が認められる。その背景には、明らかにオスマン海軍力の強大化があった。第二に、オスマン朝領内のヴェネツィア人の権利が1513年に大幅に拡大された。とりわけ裁判規定の変更によって彼らの権利がズィンミーと同等にまで引き上げられたことが注目される。ただしオスマン領内のヴェネツィア人の居留条件は、ヴェネツィア領内のオスマン臣民のそれと連動する可能性があったことを考えれば、オスマン朝にとって重要なのは臣民とヴェネツィア人との利害の調整だったといえよう。第三に、海上秩序およびヴェネツィア人の居留条件ともに、規定の多様化・精緻化の傾向が認められる。追加規定の多くは「古来の法」や「慣習」の確認を主旨とし、この点でマムルーク朝下の諸規定と共通する。なお1513・1521年のアフドナーメで追加・変更された規定の多くは、1535年のオスマン・フランス間の条約案および1569年のフランスヘのアフドナーメに適用された。それゆえ条約体制の変容は、オスマン・フランス関係の創出にまで影響を与えたといえるだろう。

 第2章と第3章では海港都市アレクサンドリアに焦点をあて、エジプトがマムルーク朝からオスマン朝支配に移行する中で、ムスリム政権とヴェネツィア人との関係がどのように変化したかを、ムスリム・ヴェネツィア双方の史料を検討しつつ明らかにした。

 第2章「マムルーク朝とエジプトのヴェネツィア人」。マムルーク朝による、対ヨーロッパ関係と関連する海港政策は防衛と貿易管理からなり、前者はアミールの就任する総督が、後者はハーッス監督官が管轄した。貿易管理の要点は関税徴収と香辛料取引にあり、後者を実務レヴェルで担ったのはスルタンの御用商人だった。領事が代表するヴェネツィア人居留民社会は、スルタン政権による胡椒の強制購入政策に対して居留地基金の制度を軸に対応し、この仕組みはムーダの制度とともに両者間の香辛料貿易を特徴づけた。また彼らは、商業活動を順調に営むために必要な一定の権利を、スルタンや総督その他諸官憲に対して有していた。

 スルタン政権の海港政策は、とりわけガウリー期(1501-16)に軍事・財政の両面で積極化したといえる。即位当初のガウリーの財政政策の強化は胡椒政策にも及んで取引条件を悪化させ、貿易は一時中断した。交渉の結果ガウリーの譲歩によって貿易は再開される。しかし1510年に聖ヨハネ騎士団に艦隊建造用の材木運搬船を略奪されたガウリーは、ヨーロッパ諸勢力との交渉手段として領内のヨーロッパ人を拘束した。とりわけヴェネツィア人は、サファヴィー朝との同盟交渉を疑われ、敵対者に準じる扱いを受けた。

 サファヴィー朝問題の収拾後も、胡椒問題は根本的な解決をみなかった。ガウリーは強制購入からの収入の確保を図り、ヴェネツィアは市場価格の上昇にもかかわらず慣習的な価格に固執した。そして強制購入の一時停止の代償としてヴェネツィア人が負った補償金の支払義務は、貿易を再度中断させた。要するに従来の制度を維持してきた仕組みが破綻したにもかかわらず、双方ともそれに対処する有効な手段を欠き、それが貿易を停滞にみちびく重大な要因となったのである。

 第3章「オスマン朝とエジプトのヴェネツィア人」。オスマン朝支配への移行は、貿易の継続を一定の範囲で容易にした。海港防衛の重要度は低下し、外交手段としてヨーロッパ人を拘束する意義は消滅した。胡椒の強制購入制度は廃止され、ハーッス監督官の役職は消滅し、ムスリム商人は公権力の貿易政策に関わらなくなった。海港行政の主な担い手となったカーディーとエミーンは、ヴェネツィア人の権利をおおむね擁護した。

 一方、新たな利権を得て台頭したユダヤ教徒が諸港の関税徴収を請負うようになり、アレクサンドリアでは、エジプト総督の支援を背景に貿易管理全般を主導しつつヴェネツィア人の活動を圧迫した。しかしこれはヴェネツィア人にとってオスマン権力との対立を意味しなかった。彼らはイスタンブルで大宰相らと交渉して自らに有利な決定を得ることができたからである。オスマン朝の立場は、ヴェネツィア人とユダヤ教徒との利害を調整するところにあったと考えられる。

 ユダヤ教徒は1550年代までにカイロ・アレクサンドリア間の商品の流通過程を掌握した。ヴェネツィア人はこれに対抗し、総督からカイロ居留の許可を得て1553年に領事館の移転に成功した。しかし両者間の競合はその後も継続する。エジプトのヴェネツィア商業は、オスマン朝支配下で、ヨーロッパ商人とオスマン臣民との競合という、近世の東地中海貿易全般に共通する特徴を新たに刻印されたのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、東地中海におけるイスラーム・ヨーロッパ間の貿易秩序につき、その一大転換点である15世紀末から16世紀中葉におけるマムルーク朝・オスマン朝とヴェネツィァとの関係を中心に、アラビア語・オスマン語・イタリア語の原史料を用い検討した論考である。

 序章では、ヨーロッパ=キリスト教世界と中東イスラーム世界との間の貿易の制度的枠組みを、シャリーア(イスラーム法)の原則に遡り論じ、ついで論文全体の構成を明らかとする。

 第1章では、まず16世紀前半に確立するオスマン条約体制の特質とその発展過程を、オスマン・ヴェネツィア間条約のオスマン語テキストを包括的に用いて検討する。その結果、この時期を通じオスマン朝の地中海における勢力拡大とともに、一方で海上におけるオスマン朝の主導権が強まり、ヴェネツィアに対する規制が増大したこと、他方でオスマン領内においてはヴェネツィア人の権利が拡大したこと、そして海上秩序・居留条件の両面において、多様化と精緻化が進んだことが示される。

 第2章・第3章においては、東地中海の重要貿易拠点の一つたるエジプトのアレクサンドリアを取り上げ、マムルーク朝からオスマン朝へと支配者が移行する中で、貿易秩序がいかに変容していったかを、サヌートの『日記』を中心とするヴェネツィア史料とアラビア語・オスマン語史料を用いつつ分析する。

 まず、第2章では、マムルーク朝下の海港支配制度とヴェネツィア居留民の活動を検討し、マムルーク朝末期に入り、財政上、胡椒の強制購入制度が採られ強化されていったことが、ポルトガルのインド洋進出による香料の着荷の減少と相まって、マムルーク朝・ヴェネツィア間の貿易が停滞していったことが明らかとされる。

 ついで、第3章では、1517年のエジプト征服以降、オスマン朝下のエジプト支配の体制が、いかなる形を取っていったか、そしてその下でヴェネツィア居留民の活動がいかに変化したかを、アラビア語・オスマン語・イタリア語の原史料に即しつつ検討する。そして、オスマン朝支配下のエジプトでは、基本的に自由貿易政策が取られ、財政的には関税収入に重点がおかれたこと、この政策下でヴェネツィアとの貿易も活発化したが、同時に、関税の徴税請負人として活躍するようになったユダヤ教徒が貿易に関しても台頭し、ヴェネツィア人の活動の障害となったこと、そしてこれも一因としてヴェネツィア人は、貿易活動の場を、アレクサンドリアからエジプトの中心都市カイロヘと移していったことが明らかとされる。

 結論においては、このようにして成立してきた東地中海貿易秩序が、近世オスマン条約体制からいかにして近代キャピチュレーション体制へと変容していくか、また東地中海における貿易のあり方がいかにして伝統的レヴァント貿易から近代国際貿易へと変化していくかにつき、ヴェネツィア人の貿易活動に即した研究がいまだ存在しないことを指摘し、今後の研究構想を提示する。

 以下は評価であるが、東地中海における異文化間交易の歴史を、その一大転換点である15世紀末・16世紀前半に焦点を絞り、マムルーク朝・オスマン朝とヴェネツィアとの貿易体制の面から、三言語の原史料を博捜精査して、分析した研究であり、この種の研究として本邦では最初の体系的研究であり、国際的にも先駆的業績といえる。

 とりわけ、ヴェネツィアとマムルーク朝、ヴェネツィアとオスマン朝との条約の内容について包括的に分析を加えていることは、キャピチュレーション論の理解にとっても基本的な貢献といえる。

 そしてまた、条約体制と海港制度と居留民の活動の実態を、エジプトの海港都市アレクサンドリアの例を取り上げ、史料に即しつつ分析を試みた点は、本邦はもとより海外においても先例のほとんどない先端的研究として評価しうる。

 しかしながら、また本論文にもいくつかの欠点が存在している。

 まず、本論文の基本テーマは、東地中海における貿易秩序のあり方の全体像の把握にあるとされるにもかかわらず、専らヴェネツィアに重点が置かれ、ヴェネツィア人と他のさまざまな交易に携わる集団との相対的な位置関係が必ずしも明らかとされていない。

 また、居留民と現地社会との法的訴訟問題を扱うに際し、マムルーク朝では頻繁に見られるヴェネツィア人とムスリムとの訴訟についての規定が、オスマン朝においてなぜ欠けているのかについて十分に説明がなされていない。

 さらに、オスマン朝の台頭の過程で一方で海上におけるヴェネツィア人の活動へのオスマン側の規制が強まり、他方でオスマン領内におけるヴェネツィア人の行動の規制は緩和されていったと論じているが、一見相反しているこの二つの現象の関係を必ずしも十分には論証できていない。

 しかしながら、結論として、このような若干の欠点は、本論文の先駆的な先端研究としての価値を決して損なうものではない。15世紀末から16世紀中葉にかけての東地中海の貿易秩序について、アラビア語・オスマン語・イタリア語の原史料を駆使して体系的に考察した本論文は、イスラーム史・地中海世界史・異文化間交易史の研究に大きく貢献したものと認められる。したがって本論文は、博士(文学)の学位を授与するに相応しいものと評価できる。

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