学位論文要旨



No 117578
著者(漢字) 上田,和彦
著者(英字)
著者(カナ) ウエダ,カズヒコ
標題(和) <他者>を揺るがす中世的なもの《il y a》 : レヴィナスに向けられたブランショの問い
標題(洋)
報告番号 117578
報告番号 甲17578
学位授与日 2002.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第375号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中地,義和
 東京大学 教授 塩川,徹也
 東京大学 助教授 塚本,昌則
 東京大学 教授 湯浅,博雄
 東京都立大学 助教授 合田,正人
内容要旨 要旨を表示する

 本論文では、モーリス・ブランショとエマニュエル・レヴィナスが共有した問題を確認するとともに、その問題への答としてレヴィナスが示した思想をブランショがどのように問い直したかを検討することによって、ブランショがレヴィナスにいかなる問いを差し向けているかを提示しようと試みた。

 本論文は二部に分かれる。第一部は、一九五○年代までの両者の論考を考察の対象とし、<絶対的に他なるもの>の問いに関する両者の思考の相違を確認することから始めて、<アル>(《ilya》)について、両者がこの時期いかなる考え方を提示していたかを見る。第二部は、<神>と<アル>との混同可能性に関する両者の思考の相違を出発点として、一九六○年代以降、レヴィナスがどのように<私>と他者との揺るぎなき「倫理的関係」へと思考を展開していったか、そしてブランショがどのようにレヴィナスの思考を問い直していったかを見る。

 一九五○年代におけるレヴィナスは、<同じもの>として存在し続けようとする<私>にとって、おのれの存在に還元できない<絶対的に他なるもの>は何かと問い、この問いへの答えとして他者を挙げ、他者との関係の内に、<私>の存在が問い直される契機を見ていた。そのような思考が簡潔に示される一九五七年のレヴィナスの論考(「哲学と無限の観念」)に言及しながら、ブランショは、<絶対的に他なるもの>の「経験」-すなわち、<私>の存在が問い直される契機-を、或る中性的な存在様態の内に見ようとする(一九五八年「奇異なことと無縁なるもの」)。第一部では、この中性的な存在様態とは何のことであるかを明らかにするとともに、なぜブランショが、<絶対的に他なるもの>として中性的な存在様態に注目したかを検討し、レヴィナスとの間に、いかなる議論が浮上してくるかを示した。

 ブランショが注目する中性的な存在様態とは何のことか。ブランショは「奇異なことと無縁なるもの」以前に、中性的な存在様態を思考するように促す論考を多数著している。そこでブランショが問い直そうとしていたのは、死を比類なき可能性と見なし、それにかかわることで「本来的」な存在様態が可能となるという思考、特に、ハイデガーの思考であった。ブランショは、カフカ、マラルメ、リルケの「経験」に注目することによって、死にかかわることの不可能性を説き、そしてそこに、中性的な存在様態の接近を見る。注目に値するのは、ハイデガーの思考に対して中性的な存在様態を明るみにだそうとする試みを、レヴィナスもまた行っていたことだ。レヴィ」ナスは、一九四○年代に<アル>と呼ばれる非人称的な「存在」を提示することによって、人間存在と<存在一般>の間にハイデガーが認める特別のかかわりを問い直そうとしていた。この時期、レヴィナスはブランショの小説に言及し、またブランショのほうも自らの文学論を展開する際、レヴィナスの<アル>に言及していた。つまり、ハイデガーに対抗するかたちで両者は共鳴しながら、中性的な存在様態を思考していた。その<アル>に、ブランショは<絶対的に他なるもの>として注目するのである。

 ここに至って二人の間に一つの議論が生じる。ブランショが<絶対的に他なるものとして<アル>に拘ったのは、<私>が<私>としての権能をもはや揮うことができない「非人称的な」事態へ接近せざるをえなかった作家や詩人達の「経験」、すなわち、「文学」の「経験」が、世界の或る支配的な傾向に対する批判的な視点になりうると考えたからである。存在するもののあらゆる存在の仕方が可知的な意味、計測可能な価値に還元され、その意味・価値の共有が整合的な言語活動によって支えられ、一つの透明な唯一の全体として世界が確立していく傾向に対する批判的視点に、である。レヴィナスもそのような批判的視線を共有してはいる。しかしながらレヴィナスは、世界の全体化は、<私>と他者との「倫理的」な関係によってこそ問い直すことができると考え、ブランショが導く「文学空間」は・「倫理的」な関係に基づいた「正義」をも告げてしかるべしと述べるのである(一九五六年「ブランショ 詩人の視線」)。ここに問題がある。つまり、「文学生間」において接近してくる、実存者としてもはや存在しない<私>、<アル>に晒された<私>と、他者の呼びかけに応じて他者にたいする責任を無限に負う<私>とが、はたして両立するのかという問題である。この問題をめぐって、ブランショはレヴィナスに問いを向けていくことになる。

 一九七○年代になると、レヴィナスは、他者にたいする責任を「引き受けることなく負う」ということが可能になるには、<私>が<アル>に晒され、「底なしの受動性」に追い込まれる必要があるという考え方を示す(一九七四年『存在することとは別の仕方で……』)。またそれと同時に、他者の責任を負うように定めるのは<神>であるという思想を示すようになる。ただし、<神>の命令は<私>が決して思い出せない「過去」に到来し、現在においては、<神>は<アル>のざわめきと混同されうるがまでに不在となっているとされる(一九七五年「神と哲学」)。こうした考え方を示すことによってレヴィナスは、<私>が他者の責任を負うには、<アル>の「無意味」に晒されることで、存在の秩序から追放され、あらゆる能力を剥奪されねばならないことを、また、たとえ<神>が他者への接近を命じるにしても、知ろうと欲する<私>には<神>が不在であり、<神>の「意味作用」は<アル>の無意味と区別がつかないことを強調しようとした。しかしレヴィナスは、<アル>に晒される忍耐の直中において、<神>の命令が「泥棒のように忍び込んで」知らないうちに<私>を触発し、たとえ思い出せないにしても、<私>はこの命令に従って他者へと向かい、他者によって蒙ること全てを他者のために負うことができる、といった考えかたを示さずにはいられなかった。それは、<神>がかかわると考えざるをえないほど絶対的な責任を、<私>は他者にたいして負いうるということを認めるように促すためであったのかもしれない。ブランショは、<神>の命令といった考え方によって絶対化されてしまう関係を、<私>と他者とが結びうるのかどうかを、あくまでもレヴィナスが<アル>について述べたことを引き合いにだしながら問い直す。第二部においては、そのようなブランショの身振りを、レヴィナスの論述を検討しながら具体的に考察した。

 他者が私に呼びかける時、そして、私が他者の呼びかけに応える時、私は他者の意味を知ろうと欲する前に、知ろうと欲するのとは別様に、他者にかかわっている。このかかわりが<知ること>には還元されえず、そして、知の意志を問い直すというレヴィナスの考え方には、ブランショは積極的に同意しようとする。問題は、他者の呼びかけが、どのように<私>に到来し、その呼びかけにたいして、私はどのように応答することができるかである。そこに、言語活動を巡っての、両者の思想の根本的な隔たりがある。レヴィナスは、<私>と他者との言語活動を、「率直さ」や「真っ直ぐとした様」といった言葉で語ることを止めなかった。そのような、言わば純粋な言語活動が「倫理的」な関係において保証されているならば、そこで「文学」が問題となることはないだろう。しかしながら、<私>と他者との言語活動において、他者、あるいは<神>の命令は、レヴィナスが言うように、他者にたいする無限の責任を<私>に負わせるように-善良さ」をあたかも吹き込むように-「伝達」されるのであろうか。レヴィナスは、「知」の次元と峻別することによって、「倫理的」な次元に純粋な言語活動の可能性を認めようとする。ブランショは、<私>と他者との言語活動において、「倫理的」な次元が「知」の次元にかかわりなく成立するかどうかを問い、「倫理的」な次元の直中において、言葉の両義性の問題が浮上してくることを再三指摘しようとする。この言語活動にかかわる問題に連関させて、一九六○年代以降のブランショは「文学」の問いを提起しており、また、「文学」の問いに連関させることによって、レヴィナスが「倫理的」な関係に認める「率直な」言語活動を問い直そうとする。

 ブランショが<アル>と呼ばれる中性的な存在に拘るのは、そこに、<私>と他者との「率直な」言語活動を脅かす可能性-それは、ブランショによれば「文学の贈与」である(一九八○年「われらが密かな同伴者」)-を認め、それを重大な問題として受け止めていたからである。<アル>に晒され、知る能力を剥奪された「私なき私」には、無限の責任を負うように呼びかける他者の呼びかけと、正義を求める他者達の呼びかけは、それとして到達するのだろうか。他者の「後ろから」あたかも<神>が命令するかの如く語ることは、他者を絶対化し、絶対化された<他者>にたいする責任を負う<私>も絶対化してしまうだろう。そうした絶対化を脅かすのは<アル>だ。レヴィナスが主張しないではいられなかった、<神>による<私>の選び、<他者>によって蒙ること全てを<他者>のために蒙る<私>の「能力」、そしてそのようにして<私>と<他者>とが結びうるかもしれない<揺るぎなき関係>は、<アル>に脅かされるのではないか。ブランショは、この問いを、レヴィナスに差し向けたのではなかろうか。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、哲学者エマニュエル・レヴィナス(1905-1985)と、形而上学的色彩の濃い評論・小説によって現代文学に特異な位置を占めるモーリス・ブランショ(1907-)が、ともにハイデッガーの存在論を批判的に受容しながら思想的形成を行なった青年期以降、「<私>が存在することとは絶対的に他なるもの」-世界の全体性に組み込まれない「外部」-をめぐり、相互触発のなかで深めていった思索を跡づけるとともに、ある時期以後二人の間に顕著になる疎隔の内実を、後者から前者への問いかけとして捉える試みである。

 主題は高度に哲学的で、フランス文学の論文としては異色である。しかし、対象テクストに密着して論を立て、あらゆる局面でテクストに立ち返って推論を展開する方法は、文学研究の王道とも言えるアプローチであり、本論文はこの点で十分にフランス文学の学位論文とみなしうるものである。

 たとえば、幼児が、夜、一人寝かされた寝室で、眠気が訪れないまま、静寂の立てる騒音に耳を澄ましている状況を想定すると、そのときの子供は、人や事物に関わる昼の生活から遮断され、いっさいの存在者が不在であるにもかかわらず「存在の舞台」だけがざわめく「空虚の充満」のなかに身を置いている。何もないのに無は訪れず、存在者が存在するのとは別様に何かがあるこの非人称的様態を、レヴィナスは<アル>(《ily a》)と名づけ、これを単なる印象や心理状態としてではなく、人間に根源的な存在の仕方として把握しようとする。その際、彼は、ブランショの小説『謎の男トマ』から決定的な示唆を受ける。ブランショのほうも、レヴィナスの<アル>に強く触発されたことを明言し、一連の文学論・芸術論のなかで、この「中性的で、無にひとしい、際限のない実存、おぞましい不在、息を詰まらせるような圧縮」を執拗に論じる。死への不安に規定されたハイデガーの存在論においては、<存在>が存在者によって隠蔽されてはいても、個々の存在者はどこかで<存在〉とつながり、「<存在>の真理の場に立つ」ことが人間の「本質」とされるのに対し、レヴィナスとブランショの注目する、存在すること、明日もまた生きねばならないことへの恐れに規定される様態にあっては、存在者から切り離された<存在>、「実存者なき実存」が問題となる。

 本論文第一部では、このように、ハイデガーの批判的受容をとおして思索の基盤を構築してゆくレヴィナスとブランショの共鳴のプロセスが、二人のテクストおよびハイデガー『存在と時間』の突き合わせをとおして、綿密に跡づけられる。

 第二部では、1950年代後半から顕著になる、<アル>をめぐる二人の離反に分析の重心が移る。レヴィナスは、他者と無私無欲の関係を結ぶことで<アル>の脱中性化が可能で、他者は<アル>からの脱出を容易にする「援助」をもたらすと考えるようになる。さらに、この<アル>を、他者に対する<私>の責任を命ずる<神>=<無限者>と同一視するにいたる。ただし、思考に現前しないこの<神>は、経験の対象とはなりえず、いつ発されたかわからない命令を、一個の外傷(「痕跡」)のように<私>の中に忍び込ませたとされる。否定神学的色彩の濃厚な倫理へと傾くレヴィナスの転換を懐疑的に追うブランショは、あくまで中性的混沌としての<アル>にこだわり、これに神的な絶対性を付与しない。

 引き受けることなく負ってしまう他者への責任のなかに<アル>からの解放の契機を求めるレヴィナスの「希望の言説」と、<神>の他性も<アル>の他性も絶対的に未規定な<他>としてしか到来しえないとするブランショの「忍耐の言説」との距離の確認、そして後者が前者に差し向けることを止めなかった問いかけの確認で、本論文は結ばれている。この先に、この問いかけじたいを意味づける作業が必要となることは言うまでもない。また、レヴィナスとブランショが行なったハイデガー読解の一面性への留保が十分に示されていない点、倫理の地平に軸足を置くレヴィナスとは違って文学・芸術という表象の次元を主たる関心の対象とするブランショの思索が、はたして倫理の地平に向かう契機を含むか否かについての考察が不十分な点など、いくつかの指摘がなされた。しかし、これらはむしろ今後の課題であり、本論文に内在する欠陥ではない。それどころか、現代の思想や文学をめぐる根源的な問題をテクストの精密な読解に基づいて的確に捉え、これまで類似あるいは相違が断片的に語られるにとどまっていたレヴィナスとブランショの思想的交流を総合的に跡づけることに成功した本論文は、きわめて大きな成果を達成している。

 よって、本論文は博士<文学>の学位を授与するに値するものと判断する。

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