学位論文要旨



No 117579
著者(漢字) 久保,幸子
著者(英字)
著者(カナ) クボ,サチコ
標題(和) 人間解放への希望 : エリアス・カネッティ『群衆と権力』
標題(洋)
報告番号 117579
報告番号 甲17579
学位授与日 2002.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第376号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 浅井,健二郎
 東京大学 教授 平野,嘉彦
 東京大学 教授 松浦,純
 東京大学 助教授 重藤,実
 東京大学 助教授 藤井,啓司
内容要旨 要旨を表示する

 カネッテイは、ドイツ語で書くユダヤ系の作家であり、『群衆と権力』は、迫害された民族の一員としてファシズムの群衆現象を経験した作家の群衆論である。しかし『群衆と権力』には、ファシズムの群衆現象を論じた他の多くの群衆論とは異なり、群衆を否定的に捉える姿勢は見られない。また、カネッテイはアフォリズム集の中で、『群衆と権力』という作品は「読者に、希望を探すことを強いる」と語っている。

 本論において論者は、次のような二つの問題意識を念頭に置いている。一つは、『群衆と権力』において、カネッテイはなぜ群集に対して肯定的な姿勢を取っているのか、そして読者が見つけ出すことのできる「希望」とは何なのか、という問題意識である。

 もう一つは、群衆と権力との関係姓である。『群衆と権力』という作品名が示しているように、この作品は群衆論と権力論から成り立っているが、そこには、群衆と権力との間の関連性についての直接的な記述は見当たらない。権力に迎合しコントロールされる群衆という、多くの群衆論に見られる群衆と権力との関係性は『群衆と権力』には見られないが、「希望」を探しながら『群衆と権力』を読み解いていくことで、そうした「希望」結びつくような両者の関係性の捉え方が浮かび上がってくるのではないだろうか。

 こうした二つの問題意識に沿って、『群衆と権力』という作品の考察を行っている本論は、序にあたる第1章と結論にあたる第8章を含む、8つの章から成っている。

 第2章では、群衆(Masse)という語の歴史と、カネッテイが群衆というテーマに興味を抱き始めた1920年代当時にすでに知られていた群衆論がどういったものであったかを考察している。

 第3章では、『群衆と権力』を、カネッテイが激しく批判したフロイトの群衆論、そしてフロイトが大きな影響を受けたル・ボンの群衆論と比較し、こうした比較を通して、カネッテイの群衆論の特徴を明らかにしている。

 第4章では、カネッテイの群衆というテーマヘの関心の出発点となった群衆体験、またその際に体験した身体感覚が、どのような形で小説『眩牽』そして『群衆と権力』に現れているのかについて論じている。

 第5章では、「群衆と権力」を、ファシズムの群衆現象を「群衆狂気」という概念をもって解釈しているブロッホの群衆論と比較している。

 第6章では、死と権力の関係性を論じている。カネッテイは死と権力の関係を、他者の死が人間の内に権力の意識を生じさせ、また権力者はこうした権力の意識を味わうために積極的に他者の死幸求める、というふうに捉えている。こうした死と権力の関係性を克服する可能性についてのカネッテイの姿勢を考察している。

 第7章では、「変身」を取上げている。『群衆と権力』において「権力」は、人間から流動性を奪い、人間を固定化するもの、人間に「変身」を禁じるものとして捉えられている。こうした「変身」と「権力」の関係、そして「変身」と「群衆」の関係を考察することで、カネッテイの提示する、群衆と権力の関係性が浮かび上がってくる。

 本論は、『群衆と権力』の中に見つけることのできる希望とは何か、という問題意識に沿って、以上のような観点から作品の解釈を試みた。ここで論者が見つけた希望とは、個的存在としてあることからの解放、個としての自己認識からの解放への希望であり、「狂気」という概念からの解放への希望であり、人間を個的存在とする権力からの解放への希望であった。すなわち、『群衆と権力』の中に見つけることのできた希望とは、人間を解放することへの希望であった。カネッテイはこうした人間解放への希望を群衆のうちに見出していた。

 群衆を否定的に捉え、否定的な存在としての群衆をなす人間たちを再び個的存在とすることによって、群衆の否定的な性質を克服することを群衆という問題の解決策とする他の多くの群衆論と、『群衆と権力』とは異なっている。個的存在としてあらねばならないがために、人間は群衆の一員となることを切望すると考えるカネッテイにとって、人間を再び個的存在とすることは、群衆問題の解決策とはなりえない。カネッテイは群衆の内にこそ、個としての自己認識から解放されることによって可能となる、真の他者理解の、そしてそうした他者理解の上に成り立つ共存の姿への希望を見ている。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、ブルガリア出身のユダヤ系ドイツ語作家・思想家エリアス・カネッティ(1905-1994年)のライフワーク『群衆と権力』(1960年)を、<本書は読者に、希望を探すよう強いる>という著者自身の言葉に導かれつつ論じたもので、立論における論者の問題意識は次の三点に要約できる-1)他の多くの群衆論とはちがって、カネッティはなぜ群衆を肯定的にとらえるのか、2)この書物において群衆と権力はいかなる関係にあるのか、3)この書物に見出すことができる希望とは何であるのか。

 論者はまず「群衆」概念の歴史を概観したうえで、カネッティの群衆論を、群衆を否定的に捉えるル・ボンの『群衆心理学』(1895年)およびフロイトの『集団心理学と自我分析』(1921年)と比較・考察し、カネッティの群衆概念が、脱階級イデオロギー的かつ脱種族イデオロギー的なものであること、そして、個的存在という人間の近代的自己認識からの解放の可能性をもつ自己認識のあり方を請うものであることを論証する。続いて、考察上の比較対象をH・ブロッホの『群衆狂気論』(1941年)に求め、ブロッホが描く「<狂気的>群衆対(群衆を操作する)<合理的>権力」という構図に対して、カネッティは「狂気」概念を群衆概念から切り離すとともに、「死」という「根源的害悪」を操作手段として用いる権力にこそ「狂気」を見てとっていることを確認する。さらに論者は、カネッティの戯曲『期限をつけられた者たち』(1952年)に描かれた「死」と「権力システム」の関係を手掛りとして、『群衆と権力』に叙述される、システム的認識形態から自由な「変身」および「文学的な不死」のモティーフが、死と権力の関係の克服を、そして権力からの解放を志向するものであることを論証し、最後に、『群衆と権力』に見出される「希望」とは、「群衆」的存在という自己認識と「変身」による他者理解に基づく「文学」に託された、「人間解放」-個的存在という自己認識からの解放、狂気という概念からの解放、死と権力の関係の克服、そして権力からの解放-への希望である、と結論する。

 本論文は、『群衆と権力』における群衆論と権力論を、諸文献を批判的に吟味しつつ詳細に分析し関係づけ、そこに孕まれている「希望」の内実に独自の解釈を加えたものとして大いに評価できる。他方、この書物の叙述を根底において支えているカネッティの思考方法と叙述形式の特異性については、踏み込みがまだ充分ではなく、この点が今後の課題として残されている。ただし、これは上述の功績を損なうものではない。

 以上により、本審査会は、本論文が博士(文学)の学位に値するものと判断する。

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