学位論文要旨



No 117580
著者(漢字) 熊野谷,葉子
著者(英字)
著者(カナ) クマノヤ,ヨウコ
標題(和) 北ロシア農村のチャストゥーシカ : 演劇性の観点から見た特徴づけと分類
標題(洋)
報告番号 117580
報告番号 甲17580
学位授与日 2002.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第377号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 米重,文樹
 東京大学 教授 長谷見,一雄
 東京大学 教授 金沢,美知子
 一橋大学 教授 坂内,徳明
 早稲田大学 教授 伊東,一郎
内容要旨 要旨を表示する

 この論文は、筆者が1995年から2000年にかけてロシア共和国アルハンゲリスク州ヴェルフニャヤ・トイマ地区で採録したチャストゥーシカ1128篇を分析し、その特徴づけと分類について、ロシア語で述べたものである。巻末には「ヴェルフニャヤ・トイマのチャストゥーシカ」として、ヴァリアントを整理した876篇のテキスト、その日本語訳、注、および採録状況と歌い手に関する情報を掲載した。テキストは論文で述べている「演劇性」に基づいて分類し、論文第2部の記述と平行して配列した。

 日本では馴染みの薄いロシア民衆歌謡「チャストゥーシカ」は、19世紀後半に成立した比較的新しいジャンルである。叙事詩や昔話、儀礼歌の採録と研究に押されてロシアでも本格的な研究は少ないが、20世紀初頭および1920年代、60年代に貴重な研究と出版が集中しており、現在また、ソ連時代には不可能だった政治的・艶笑的なテキストの刊行が進むなど関心が高まっている。その研究史については本論文序章で詳述した。

 論文の第1部「ヴェルフニャヤ・トイマのチャストゥーシカの特徴づけ」では、まず北ロシアのチャストゥーシカの韻律(第1章)と詩学(第2章)の特徴を述べた。第3章ではチャストゥーシカの各行を機能別に「叙述」「疑問」「勧誘」「呼びかけ」に分類して1曲4行の構成を調べた結果、前半2行には「呼びかけ」「勧誘」が多用されてフォーミュラを形成する一方、後半2行は「叙述」に当てられる傾向が強いことが立証された。第4章「テーマ」では、従来のテーマ別分類の曖昧さを指摘し、チャストゥーシカのテーマは、歌中の登場人物の人間関係と、その背景となる事象とを組み合わせによって決めるべきとした。第5章では、本論文のキーワード「演劇性」の考え方が以下の様に提示されている。

 チャストゥーシカは、1人称の立場から歌われるものと3人称で歌われるものがあり、また、呼びかけの多用に見られるように2人称が重要な役割を果たしている。つまりチャストゥーシカのテキストには「誰が(発信者)」「誰に(受信者)」歌っているかが明示されるという特徴があり、その組み合わせによる分類が可能である。例えば、あるチャストゥーシカは「未婚の娘が」「恋人に」呼びかけたもの、他の歌は「既婚女性が」「友人に」対して歌っているもの、と規定できる。特定の相手への呼びかけがない、いわゆるモノローグには、受信者として「聞き手」を想定することができる。ただし、常に実際の演奏のレベルとテキストのレベルは峻別されねばならず、歌い手は各チャストゥーシカにおいて発信者の役(「未婚の娘」「既婚女性」)を演じていると考えられる。また、3人称による叙述で発信者が限定されないテキストは、歌い手が「語り手」を演じていると見なせる。これが、筆者による、演劇性による分類の骨子である。

 論文の第2部では、演劇性の原則に基づいて採録資料を実際に分類し、個々のグループについてその特徴を記述した。全レパートリーの70%以上を占めるのは未婚女性のチャストゥーシカであり、それらは呼びかける相手によって「恋人へ」「恋人以外の男性へ」「友人またはライバルヘ」「家族へ」等々に下位分類される。このうち最大のグループを形成するのは「聞き手へ」の歌、すなわちモノローグであり、娘達はこの形式で様々な人間関係を歌い上げる。例えば自分と恋人の関係、自分の眼から見た恋人の描写、自分と自分の家族等。また、戦争や遊びの集い等に関する様々なエピソードも独自のグループを成す。

 一方既婚女性たちは、未婚の女性へ結婚を急がぬよういさめる一連のチャストウーシカを持つ。暗いトーンで結婚生活を嘆くこれらの歌が、伝統的な農村の結婚儀礼で歌われた古い儀礼歌の機能を受け継いだものであることは、歌い手達の証言から明らかである。

 その他、歌い手の演じる役によって、老齢を明るく歌う「おばあちゃんのチャストウーシカ」、陽気で冗談の多い「若者のチャストウーシカ」、暗く既婚女性の結婚の歌に似た特徴を持つ「新兵のチャストゥーシカ」、鋭いやりとりを形成する微妙な関係の「婿と義母のチャストウーシカ」、コルホーズでの労働や冬季の森林伐採の様子が歌われる「コルホーズ員あるいは森林労働者のチャストゥーシカ」が分類された。更に、発信者の年齢・性別等の情報に欠ける「娘あるいは若者のチャストウーシカ」、歌い手が2役を演じる「会話のチャストゥーシカ」、語り手を演じる「語り手のチャストゥーシカ」を抽出してその特徴を述べた。

 テキストの演劇性による分類はチャストウーシカの特性に即しており、無味乾燥に陥ることなくそれぞれのグループの違いを際立たせる。更にチャストウーシカの演劇性の高さは演奏のレベルでも指摘でき、北ロシア農村のチャストゥーシカを特徴づけるものと言える。今後様々な地域、様々な集団のチャストゥーシカが演劇性の観点から分類され、比較検討されていけば、ロシア各地に多様に分布するこのフォークロアジャンルの特性は次第に明らかになっていくだろう。

審査要旨 要旨を表示する

 熊野谷葉子氏の論文「北ロシア農村のチャストゥーシカ-演劇性の観点から見た特徴づけと分類-」 (執筆言語・ロシア語)は、著者自らが1995年から2000年の間に3回にわたり現地で採録したチャストゥーシカを対象に,その韻律、詩行構成、テーマについて分析し、 「演劇性」の観点からの分類を新たに提起したものである。チャストゥーシカは、アコーデオンの伴奏で四行詩の歌詞を集まりの場で即興で歌う口承歌謡であるが、農村部のそれについては歌詞をテキスト化したものはごくわづか公刊されているのみで、本論文の資料編にテキスト化され収録された876編は、我が国のみならず本国ロシアの研究者にとっても、きわめて貴重な資料的価値を持つものである。

 第1章では、チャストゥーシカの韻律についての言語学者N.S.トゥルベツコイの論考(1927年)を具体資料で再検証した上で、北ロシア地域に特徴的な韻律構成を抽出した。第2章では、歌詞テキストについて詩学の観点から考察し、反復および誇張法が、実際に演じられる場において効果をあげていることが具体的に指摘された。第3章では、詩行構成について各行の機能を「叙述」 「疑問」 「勧誘」 「呼びかけ」の観点から分析し、集まりの場で聞き手に向かって「叙述」するものが主流をなすことが明らかにされた。第4章では、歌詞内容のテーマを考察した結果、従来行われてきたテーマによる分類が研究者によって恣意的になる危険性があることを指摘し、それに代わる分類基準として新たに「演劇性」の観点を導入し、第5章で具体的に論じた。氏は、チャストゥーシカが演じられる実際の場での歌い手と聴き手とは別に、歌詞テキストのレベルにおける発信者と受信者を抽出し両者の具体的な組合せを基準に、採録した876編の分類を試みその全体的特徴を明らかにした。ここで提案された新たな分類は、従来のそれに代わる構造的基準として具体的な資料に則って検証されたもので、チャストゥーシカ研究に大きな寄与をなすものである。

 著者は提案した分類基準を「演劇性」と名付けたが、テキストレベルの観点からの基準であることからいえば、的確なネーミングとは言い難い。また、テキストにおける発信者と受信者の「人称」の問題は未解決の部分を少なからず残している。しかし、本論文は、日本人研究者として初めて現地で行ったフィールドワークを踏まえ、その実証性と開拓性において従来の研究を大きく超えるものであり、博士(文学)の学位を授与するに十分値する博士論文であると判断する。

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