学位論文要旨



No 117594
著者(漢字) ティグラオ,ノリエル クリストファー カノス
著者(英字) TIGLAO,Noriel Christopher Canos
著者(カナ) ティグラオ,ノリエルクリストファーカノス
標題(和) 発展途上国における世帯特性の空間的分布推定に関する研究 : マニラ首都圏における不法居住者の世帯特性を中心として
標題(洋) Small Area Estimation and Spatial Microsimulation of Household Characteristics in Developing Countries with Focus on Informal Settlements in Metro Manila
報告番号 117594
報告番号 甲17594
学位授与日 2002.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5311号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森地,茂
 東京大学 教授 國島,正彦
 東京大学 教授 家田,仁
 東京大学 教授 清水,英範
 東京大学 講師 寺部,慎太郎
内容要旨 要旨を表示する

 発展途上国では、今なお爆発的な人口増加と大都市への人口流入が深刻な都市問題を引き起こしている。特に、経済格差や都市内貧困の問題は大きく、とりわけ、拡大を続ける不法居住者の住宅地区における居住環境の劣悪さは深刻な問題になっている。2000年においてマニラ首都圏の不法居住者は約73万世帯に及ぶと推定されている。全世帯の約1/3に相当する膨大な数である。不法居住者をはじめとする貧困者層に最低限の居住環境を提供することは喫急の課題であり、フィリピン政府は1990年代、本格的な居住環境改善計画に着手した。しかしながら、多くの場合には、想定された人々がこの計画の恩恵を受けることなく、計画は失敗に帰しているのが現状である。この大きな原因は、どこに、どのような貧困者や不法居住者が存在しているかという実態が不明瞭なままに計画を実施したことにある。貧困者や不法居住者の実態を明らかにし、その上で、多様なオプションを用意した決め細やかな政策を実行することが必要とされている。しかしながら、フィリピンにおいて貧困者や不法居住者の実態を把握するための統計情報は極めて限られている。例えば、世帯収入に関する統計データは、一般に市単位のものがあるに過ぎず、貧困者の空間的な分布すら十分に分かっていないのが現状である。

 本研究は、マニラ首都圏を例として、実効性ある居住環境改善計画を立てるために適した空間スケールにおいて世帯特性を推定する方法論を構築することを主たる目的としている。具体的な空間スケールとしては、「バランガイ」と呼ばれるフィリピンにおける行政上の最小単位を採用した。現時点では、バランガイのレベルで整備された社会経済データは皆無である。一方、マニラ首都圏においては、マニラ都市圏都市交通総合研究(Metro Manila Urban Transportation Integration Study:MMUTIS)の成果として、各種都市計画に必要なデータが地理情報システム(GIS)を核に整備されている。本研究では、統計データとこれらのGISデータを活用し、統計学的な推定法やマイクロ・シミュレーションを援用した小地域単位での世帯特性分布の推定手法を開発した。

 第2章では、途上国における住宅政策に関する実証的な研究を中心に、既存の研究をレビューしている。また、その成果を踏まえ、途上国における複雑な住宅市場の実態を整理し、さらには、この複雑な住宅市場を分析する際の有用な方法論について考察している。

 本研究が対象とするような不法居住者の住宅市場を直接的に扱った既存研究がほとんど存在しない。例えば、住宅市場の一般論としては新古典派経済学的な完全競争化での精緻なモデル分析研究が多く存在する反面、不法居住者の住宅市場を対象とした分析は極めて数が限られている。しかし一方で、通常の意味での住宅市場が存在しない場合や、社会的な相互作用が大きな影響力を持つ場合の住宅市場に関する研究は、近年、少なからぬ進展を見せている。道路や河川敷等の公有地の不法占拠が多くを占め、出身地や血縁を中心とした結びつきを大きな特徴とするバランガイにおける住宅市場の分析には、複数均衡とローカルレベルでの社会的相互作用を明示的に考慮するこれらの既存研究が極めて有用な示唆を与える。また、このような複雑な住宅市場での住宅選択行動の表現には、マイクロ・シミュレーションの手法が有用である。

 第3章では、マニラ首都圏を具体例として、都市内貧困や劣悪な居住環境をもたらす社会構造について論じている。当然のことながら、途上国における急激な人口増加と都市の過密の問題を論じる際には、途上国に特有の複雑な社会経済構造を理解する必要がある。前述のような、出身地や血縁を中心とした人間関係の結びつきは、その最も大きな特徴の一つである。そのような問題意識のもとで、本章では、マニラ首都圏の都市内貧困を生み出す構造的な要因とともに、政府によって進められている居住環境改善計画について考察している。さらに、フィリピンにおける都市内貧困を具体的に計量しているいくつかの既存研究を整理し、その問題点について論じている。

 第4章では、統計データ等の空間的に大きな地域単位でのデータから、空間的により小さな地域単位でのデータを推定する統計学的な方法について議論している。ここでは、空間的に大きな地域をエリア、小さな地域をユニットと呼び、エリア単位の平均世帯所得データとユニット単位の補助データ(平均世帯所得と関連があり、かつユニット単位で得られるデータ)からユニット単位の平均世帯所得を推定することを例に説明する。最も簡単でこれまで広く用いられてきた方法は、エリア単位の平均世帯所得とエリア単位の補助データから線形回帰モデルを推定し、これをユニット単位の補助データに適用してユニット単位での平均世帯所得を推定する方法である。しかし、この方法では、エリア単位での推定誤差がユニット単位での推定誤差に大きな影響を及ぼす。特に、エリア単位での回帰モデルに誤差の空間相関が存在する場合には、ユニット単位の推定誤差は極端に低く、かつ大きな空間相関を持つことになる。結果として、ユニット単位での精度の高い推定は期待できない。一方、エリア単位での推定誤差とユニット単位での推定誤差の関係をモデル構造の中で表現し、誤差の空間相関を考慮しながら、精度よくユニット単位の推定を行う方法として、nested-error regression modelがある。理論的には、エリア間の共分散構造、ユニット間の共分散構造を所与とすれば、ユニットにおける平均世帯所得を最良線形不偏推定できる。本章では、この手法を中心にレビューを行っている。

 第5章では、第4章で議論した方法の実際問題への適用可能性を検討している。具体的には、Battese、Fuller and Harter(1988)によるnested-error regression modelを基本モデルとして、バランガイ単位での平均世帯所得の推定を試みた。

 マニラ首都圏では、大規模な交通調査が実施されており、市単位より空間的に小さく、バランガイよりは空間的に大きな交通ゾーン単位に平均世帯所得のデータが得られている。そこで、エリアとして市を、ユニットとして交通ゾーンを設定し、モデルの構築と適用可能性の検討を行った。今回の適用では、共分散構造は幾何的な距離の関数として何種類か与え、交通ゾーンレベルでの予測精度に基づいて共分散構造を決定した。なお、補助データとしては、GISによって容易に計算可能な住宅の平均敷地面積とした。以上のモデルを用いて、交通ゾーン単位の平均世帯所得と、バランガイ単位での住宅の平均敷地面積からバランガイ単位の平均世帯所得の推定を行った。

 第6章では、世帯所得のより詳細な空間分布を推定するためのシミュレーション手法について議論している。具体的には、労働経済学等の既存研究の成果を踏まえ、linear mixed-effects modelを用いた所得関数の推定を行った。最終的に選定されたモデルでは、地区ごとの年齢や性別、教育水準等の変数によって所得分布を推定しており、1997年の家計支出調査の結果等を用いて、モデルの有効性を確認している。

 第7章では、マニラ首都圏における世帯特性の空間的な分布を、世帯単位で予測するマイクロ・シミュレーションモデル構築へ向けての可能性を議論している。もっとも詳細な地域単位での世帯特性分布のシミュレーションと言うことができる。まず、1990年の人口・住宅統計データを制約条件とし、MMUTISにより得られている世帯単位での世帯属性調査データをもとに、モンテ・カルロシミュレーションによって、職種等の世帯主の経済属性分布を推定する。これにより、先に推定した所得関数を用いて、世帯所得の空間分布を推定することが可能になる。また、世帯間の社会的相互作用を仮定したシミュレーションによって、各世帯の住宅所有の状態、換言すれば、住宅需要の状態を推定する。以上の過程の計算はすべてGISで支援されており、世帯特性の空間分布を視覚的に分かりやすく表現できるようになっている。世帯間の社会的相互作用に関する仮定やモデルの再現精度の確認手法などにおいて、現時点では課題が残されているが、シミュレーションモデルの意義やモデル構築に向けての今後の課題を明示している点で一応の成果が得られている。

 以上、本研究では、発展途上国における住宅政策、居住環境整備政策の観点から、限られた統計データやGISデータを最大限に活用して、所得等の世帯特性の空間分布を詳細なレベルで推定する方法を構築した。これにより、不法居住者等の貧困層の世帯特性や住宅需要の実際を空間的に把握することが可能になり、各種の住宅政策に反映させることが可能になる。発展途上国の中にあって、マニラ首都圏は交通調査やGISの整備が最も進んでいる地域であるため、本研究で構築した手法は、直ちに他の発展途上国に適用できるという段階にはない。しかし、本研究で導かれた基本的な方法論は一般性をもつものであり、他国の問題を議論する際にも大いに参考になるであろう。また、マニラ首都圏程度のデータ整備を行えば、本研究で示した程度の空間分布推計が可能になるという点において、本研究は他の発展途上国におけるデータ整備戦略上の示唆を与えるものとも言える。

審査要旨 要旨を表示する

 発展途上国では、今なお爆発的な人口増加と大都市への人口流入が深刻な都市問題を引き起こしている。とりわけ、informal settlements(不法居住者や不適格建築居住者が占める地域)は拡大を続けており、そこでの居住環境の劣悪さは深刻な問題になっている。2000年においてマニラ首都圏のinformal settlementsは約73万世帯と推定され、これは全世帯の約1/3に相当する。フィリピン政府は1990年代、本格的な居住環境改善計画に着手したが、計画は必ずしも成功をおさめなかった。原因の1つは、どこに、どのような特性(所得や住宅所有の形態など)をもったinformal settlementsが存在するのかという実態が不明瞭なままに計画が実施されたことにあると言われている。informal settlementsの実態を明らかにし、その上で、多様なオプションを用意した極め細やかな政策を実行することが必要である。しかしながら、フィリピンにおいて世帯の所得や住宅所有形態を把握するための統計データは極めて限られている。例えば、世帯所得に関する統計データは、市単位のものがあるに過ぎない。市を幾つかに細分化した交通調査用のゾーン(以後、交通ゾーン)単位で標本調査がなされているが、標本率は2.5%程度と非常に低い。「バランガイ」と呼ばれる行政上の最小単位においては標本調査すらも行われていない。貧困者の空間的な分布すら十分に分かっていないのが現状なのである。

 本研究は、マニラ首都圏を例として、実効性ある居住環境改善計画を立てるために適した空間スケールにおいて世帯特性を推定する方法論を構築することを目的としている。具体的には、(1)統計学的手法に基づき、交通ゾーン単位での平均世帯所得を高い精度で推定する方法、(2)マイクロ・シミュレーション手法に基づき、世帯特性の中でもとりわけ重要な平均所得や住宅所有形態をバランガイ単位で推定する方法、を提示している。

 第2章と第3章では、途上国における複雑な住宅市場の実態、ならびに都市内貧困や劣悪な居住環境をもたらす社会構造について論じている。また、これを踏まえて、政府によって進められている居住環境改善計画の問題点を整理するとともに、交通ゾーンやバランガイ単位での世帯特性の把握の必要性、及びこれを実行する上での統計学的な手法やマイクロ・シミュレーションの手法の可能性を示している。

 第4章と第5章では、平均世帯所得に関する市単位の統計データと交通ゾーン単位の標本調査をもとに、交通ゾーン単位での平均世帯所得を精度良く推定する方法を構築している。この問題には、Small Area Estimationの分野において研究が進められている種々の統計学的手法の適用が考えられる。一方、マニラ首都圏においては、MMUTIS(Metro Manila Urban Transportation Integration Study)の成果としてGISが整備されている。そこで、このGISデータを補助データとして活用して、交通ゾーン単位での平均世帯所得を推定するというアプローチが考えられる。具体的には、nestea-error regression modelの適用が有効である。第4章では、このような議論を理論的に精緻に展開し、また、その実行可能な推定手法を提示している。また第5章では、マニラ首都圏の実データを用いてパラメータの推定を行い、その有意性を検証している。

 第6章と第7章では、世帯の所得ならびに住宅所有形態の空間分布を推定するためのマイクロ・シミュレーションモデルを構築している。第6章では、労働経済学等の既存研究の成果を踏まえながら、ロジットモデルやプロビットモデルを援用して、世帯の属性から世帯主の職種、所得そして住宅所有の状態等を推定するミクロな計量経済モデルを作成している。また、1997年の家計支出調査の結果等を用いて、実際にパラメータを行い、その有効性を検証している。第7章では、1990年の人口・住宅統計データを制約条件として、モンテカルロ・シミュレーションによって年齢や性別、世帯主の教育水準等の世帯属性データを発生させ、バランガイ単位での世帯の所得ならびに住宅所有形態を推定している。また、この結果を交通ゾーン単位に集計し、第5章で推定された交通ゾーン単位での平均世帯所得との対照により、シミュレーションの一応の妥当性を示している。

 以上、本研究では、発展途上国における住宅政策、居住環境整備政策を合理化することを目標に、限られた統計データから、各種標本調査やGISデータを活用することにより、所得等の世帯特性の空間分布を推定する方法を構築した。これにより、貧困層を中心とした世帯特性や住宅需要の実際を空間的に把握することが可能になる。無論、途上国の中にあって、マニラ首都圏は統計データやGISの整備が比較的進んでいる地域であるため、本研究で構築された手法が直ちにすべての途上国に適用できるという段階にはない。しかし、本研究で提示された方法論は十分に一般性を有している。また、多くの途上国では近年、交通調査などの標本調査やGIS整備が進展している。したがって、本研究で導かれた方法論の有用性は非常に高く、今後の有効利用が期待されるところである。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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