学位論文要旨



No 117605
著者(漢字) 垣内,惠美子
著者(英字)
著者(カナ) カキウチ,エミコ
標題(和) CVMを用いた文化政策の定量的評価 : 世界遺産富山県五箇山合掌づくり集落の事例
標題(洋)
報告番号 117605
報告番号 甲17605
学位授与日 2002.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5322号
研究科 工学系研究科
専攻 都市工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西村,幸夫
 東京大学 助教授 北沢,猛
 東京大学 教授 大西,隆
 東京大学 教授 浅見,泰司
 東京大学 助教授 中嶋,康博
内容要旨 要旨を表示する

 本研究の目的は、文化資本の便益を定量的に推定し、文化的価値の態様、受益者、便益の規模を推定することによって、文化資本が公共的投資に値する社会資本であること、そして公共政策としての文化政策の妥当性を明らかにすることにある。

 芸術や伝統文化、その成果である文化遺産は、住民、地域、社会にとって貴重な「文化資本」として、その価値を維持するための支援が必要である。これまで、文化をめぐる公共政策には様々な観点から多くの理論が語られてきたが、文化的価値については定量的あるいは客観的評価になじまないとされ、また、適切な手法がなかったこともあって、十分な実証研究はなされてこなかった。このことが文化政策の位置付けを曖昧にし、文化資本に対する必要な「投資」が十分になされていない現状につながっているのではないかと考える。文化資本そのものの価値は計測しがたいものであっても、公共政策の対象としての文化支援(のシナリオ)は他の分野と同様に客観的、定量的タームでその効果が計られねばならない。

 以上の認識から、本研究では、3つの主要な部分に分け、第I部において既往研究のレビュー、フレームワークとしての文化政策の変遷、構造及び文化資本の概念を明確化した。その上で、第II部で事例に基づく調査研究を実施、結果分析を行った。最後に第III部においてその政策約インプリケーションを考察するという構成をとった。

 文化政策は、いまだ発展途上の学問分野であると同時に、学際性を持ち複合的な観点から既往研究が行われている。これら既往研究を参考にしつつ、本研究では特に地域の持続可能性と政策(評価)論、公共経済学の手法を中心に制度論的アプローチを行った。

 国レベルでの文化政策は、戦前の欧化主義の下での統制・保護として実施された時期から、戦後とりわけ高度経済成長期を経た経済社会の成熟化の中で、国民各層の文化へのニーズの拡大に伴って拡大、充実し、「文化行政」から「文化政策」への転換が求められてきている。このような状況の下、2001年に成立した文化芸術基本法は、今後の文化政策のあり方を示すものであり、文化政策の対象となる「文化」の分野の拡大、関係する主体の多様化、政策の複雑化の中で、政策形成に対して民意を十分反映させた総合的、包括的な文化政策を求めるものであるといえる。

 文化政策の総合化は、国のみならず、住民生活により密着した地方自治体の文化政策においてより顕著に見られ、地域づくりと密接に関連し、あるいは融合し、地域コミュニティでの快適で質の高い生活の創出に向けた大きな要素となりつつある。この中で文化の概念の拡大は、公的関与の適否、これまで以上に住民ニーズを政策に取り入れていく必要性を示すものでもある。そして、このような地域における文化政策の動向は、国際的にも共通する課題になりつつある。統合の中でのヨーロッパでは、地域コミュニティの一体感の創造といったことまで文化に求められ、米国では、個人の選択による文化支援が可能な制度設計が図られ、その他の国々においても社会投資として文化が認識されるようになっている。

 一方、従来より、文化政策の理論的根拠は、文化的価値の有する公共財性に求められ、その外部性、すなわちさまざまな社会に対するメリット(威信価値、アイデンティティや社会貢献、経済的メリット、教育など)に依拠するものであるとされているが、実証的かつ定量的な検証は少なくとも日本ではほとんど行われてこなかった。そこで、近年提唱されつつある、文化の外部効果、とくに地域活性化あるいは持続可能な発展への貢献の可能性を示唆する概念である「文化資本」への投資の妥当性という観点から、文化政策の評価に対して現時点で利用可能な定性的、定量的な評価方法について検討し、本研究での方法論としてCVMを決定した。

 第II部では、世界遺産富山県五箇山合掌造り集落を取り上げ、CVM調査を実施した。地元自治体からのヒアリング、世界遺産登録にいたるまで保存と集落の存続に対する多くの議論を踏まえ過疎に悩む「生きている史跡」の現状を確認し、その課題を、(1)良好なツーリズムとの共存、(2)地域住民の福祉向上の2点に整理した。これに基づき、実際の調査設計を行い、対象となる財を、合掌造り集落が有する建物のみならず生きている集落そのものの文化的景観を現状のまま維持・保存することとした。そして、そのための茅屋根の修復のみならず茅場の整備、周辺林の保全、技術伝承なども含めた総合的保存のシナリオを提示し、現地を訪れる観光客及び全国を対象として、このシナリオに対する支払い意志額(WTP: willingness to pay)を尋ねた。

 具体的には、CVMが慎重な設計、実施を必要とする意識調査であること、文化資本に対する我が国のCVM調査としては初めてのものであることを考慮し、パイロットサーベイやFGIなど慎重なサーベイデザインを行い、2001年9月に観光客調査を現地で実施、11月には全国郵送調査を実施した。

 観光客調査(配布教2119、回収数1508、回収率71.2%)では、合掌造り集落に対して審美的価値、文化的価値、遺贈価値を認め、一人当たり支払い意志額は、平均値が19,940円、中央値が3,116円と推定された。この結果に基づき推計された観光客に対する便益は、回収率で割引き、最も少ない観光客数推計値を使用しても、年間10億円を超えることが判明した。さらに支払い意志と相関する項目や属性を考慮すると、(1)集落維持が住民の自助努力だけでは成り立ち得ない点には観光客の間において強いコンセンサスがある、(2)合掌造り集落の文化的風景には極めて大きな社会的便益がある、(3)合掌造り集落をこのまま維持保存するために必要な公的支援には十分な妥当性をうかがわせる、(4)観光客は、審美的価値、文化的価値、とりわけ遺贈価値に対する自らの判断に基づき、金銭的負担のみならずボランティアなどとして労働力の提供の可能性がある、(5)(4)のイニシアティブに対する国の支援を求めている、(6)(4)のイニシアティブに対しては、支援だけでなく集落からの情報発信が重要である、といった点が結論付けられた。

 一方、全国調査(サンプル数3000、層化二段無作為抽出法、回収率26.9%)では、合掌造り集落の価値について同様のシナリオでCVM調査を実施した結果、国民一人当たり支払い意志額は、平均値が10,345円、中央値が1,885円と推定された。集落から派生する便益は居住する地域に関わらず国全体に広がり、国民全体への便益は、回収率で割り引いても1,000億円を超えることが判明した。また、支払い意志に影響を与えているのは、文化資本の遺贈価値、存在価値であることも明らかとなった。

 以上の結果から、文化遺産の価値は、きわめて大きな便益が全国的に不特定多数の人々の間に広がっており、文化遺産は公共財性の強い文化資本であると考えられる。政策形成、施策の実施に当たっては様々な要因が複雑に関係するものであるが、少なくとも現在公的機関から集落維持に関して支出されている金額をはるかに超える便益が存在することは、公的支援の正当性を強くうかがわせるものであると考えられる。

 また、本調査の結果は、ツーリズムとのかかわりについて、単なる観光だけではない側面があり、観光客集団に対する情報提供や会員制度など相互に理解を深め、参加を促進することによって様々な支援の可能性が生じることも推測させるものとなっている。この点で、アウトリーチやマネージメントといった集落側からの働きかけが重要であると考えられる。

 さらに、諸外国でも文化資本に関していくつかの事例研究がなされていることから、これとの対比で本調査の独自性を考えると、文化資本のコアとも言うべき文化財に関してもその公共的性格にいまだ疑問が残る日本において、その便益の全国的規模を明らかにすることによって文化遺産保護への政策的関与への正当性の根拠を提供するとともに、その価値が遺贈価値、存在価値といった非利用価値、非市場価値を中心とするものであることを明確にしたことであるといえる。

 以上、本研究は、我が国の文化政策に定量的評何方法が十分応用できることを示すとともに、公共選択の可能性を拓いたものと考える。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、文化の成果を「文化資本」と捉え、文化資本の地域社会に対する便益の有無、その内容、規模及び主たる受益者を客観的、定量的に明確にし、その際の手法の適用可能性を明らかにすると友に、効果的な公的支援の妥当性を考察することで文化政策の位置づけをより明確化することを目的としている。

 論文は3部から成っている。文化政策の構造的枠組みと文化資本の外部性に関する理論的考察を論じた第1部は、さらに3つの章に分けられる。

 第1章では、公共政策の対象となる文化に対していわゆる「文化行政」から「文化政策」への転換を社会経済システムの変化と関連してあとづけ、文化への社会的ニーズは拡大していること、公共政策として行政効率の向上や費用対効果等の客観的評価が必要であることを明らかにしている。

 第2章では、住民生活により密着した地方自治体の文化政策の流れについて概観し、様々な側面から文化的資産の活用に関するニーズが拡大してきていることを指摘し、文化資本への公的支援の論拠を外部性と社会的平等の2点にあると結論づけている。

 第3章では、文化政策の理論的論拠に関して、各種の評価方法について検討をおこない、文化資本の価値の継続的維持のための投資効果を客観的、定量的に評価する手法として、バイアスに配慮しつつCVM(仮想市場評価法)を適用することに根拠を与えている。

 具体的事例の実証的検討をおこなう第2部は、世界文化遺産として登録されている富山県五箇山合掌造り集落を事例として、CVMを用いて定量的、客観的な政策論を展開している。第2部は3つの章から成っている。

 第4章では、五箇山合掌造り集落における住民、地元自治体担当者からのヒアリング、過去の報告書等を詳細に検討し、地域住民は将来への意向として、現状のまま「生きた史跡」として集落を維持することを望んでいること、そのためには良質なツーリズム、新たな相互扶助システムが必要であると結論づけている。

 第5章では、第4章の考察からCVM調査を設計し、観光客に対してこれを実施している。その結果、利用者である観光客は集落から大きな便益を受け、同時に相互扶助システム創出への潜在的な資源となりうるが、その際情報提供などのアウトリーチも必要であることを明らかにしている。

 第6章では、全章と同様のCVM調査を全国的規模で実施し、集落の便益は特定の層に偏ることなく全国的な拡がりを有し、主として遺贈価値、存在価値といった非利用価値(非市場価値)に依拠していることを明らかにしている。

 第3部はこれまでの作業を総括し、総合的考察をおこなう1つの章(第7章)から成っている。第7章において、文化遺産の便益は広範囲に広がり、規模も大きく、受益者も多岐にわたり、「文化資本」として公的投資をおこなうに十分耐えうる財であること、非利用価値の大きさから、非排除性、非排他性が裏付けられ、公共財性は従来考えられていたよりも強いこと、及び観光客との関係ではクラブ財として過剰な資源消費を回避しうることを論じ、いつくかの可能な制度設計年提案している。

 このように本論文はいわゆる「文化資本」に関してわが国において初めて詳細なCVM調査を行った事例であり、さらにわが国でこれまで実施されたすべてのCVM調査と比較しても全国規模で厳密な調査をおこない、有意な結論を導いている点で重要な論文であるといえる。特に、CVM調査の結果、文化資本への社会的な投資を正当化しうること、さらにその定量的な額についても一定の推計を確実な論拠のもとに行っている点は、今後の文化行政に稗益すること大である。また、観光客は弁疫痢受益者であると共に、潜在的な寄付者及びボランティアになりうることを確認している。こうした結果は、わが国の文化行政に定量的評価方法が十分応用できることを示すと同時に、公共選択の可能性を拓いたものとして貴重であるといえる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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