学位論文要旨



No 117617
著者(漢字) 増田,直紀
著者(英字)
著者(カナ) マスダ,ナオキ
標題(和) パルス結合ニューラルネットワークにおける情報コーディングの二重性
標題(洋) Duality of Information Coding In Pulse-coupled Neural Networks
報告番号 117617
報告番号 甲17617
学位授与日 2002.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5334号
研究科 工学系研究科
専攻 計数工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 合原,一幸
 東京大学 教授 岡部,靖憲
 東京大学 教授 安藤,繁
 東京大学 教授 山本,博資
 東京大学 教授 下山,勲
 東京大学 教授 中村,仁彦
 東京大学 助教授 村重,淳
 東京大学 助教授 渡辺,正峰
 東京大学 講師 堀田,武彦
内容要旨 要旨を表示する

 20世紀初頭から続く研究努力にも関わらず、脳の高次機能はまだほんの一部しか解明されていない。しかしながら、特に90年代初頭から実験技術の発展に伴って時間・空間分解能が高い時空間興奮パターンが記録されるようになってきた。そして、多電極同時計測によって様々な状況におけるニューロンの同期発火の存在が明らかにされてきた。

 本博士論文では、パルス結合ニューラルネットワークの解析を通じて同期の起こる仕組みとその脳機能的意味を明らかにした。その結果、様々なニューラルネットワーク構造を規定するパラメータの同期への影響が明らかになるとともに、2つの支配的かつ対立的とされてきた脳内情報処理様式、すなわち発火率コーディングと時空間スパイクコーディングが単一モデルで統一的に説明されることがわかった。これは脳が状況に応じて適切なコーディング様式を選ぶというコーディングの二重性を示唆しており、最近の生理実験的事実とも定性的に符合する。

1.序論

 序論では本研究の背景と脳科学における位置付けがなされた。特に、同期発火と発火時間間隔の脳機能における重要性と、脳のコーディング理論において十年来対立している2つのパラダイムについて詳しく説明された。

2.パルス結合興奮型ニューラルネットワークの同期現象

 ニューロンの同期発火は実験でもモデル解析でも幅広く報告されていて、入力刺激の何らかの特徴をコードしていると考えられる。理論解析の面からは、今まではギャップジャンクションによる結合、あるいはパルス結合した振動型ニューロンが主として用いられてきたが、実際にはニューロンは振動的ではなく、普段は静止状態の近くにあり、そのニューロンにとって好ましい刺激が来たときにだけ膜電位が上昇して発火するという興奮的ダイナミクスを有する場合が多い。そこで、本論文ではパルス結合した興奮型ニューロン群の振る舞いを研究した。単一ニューロンとして、次の式で表されるような膜電位の漏れのある積分型(LIF)ニューロンモデルを仮定する。

 ここで、x(t)∈[0,h]は時刻tにおける膜電位と呼ばれる唯一の内部状態であり、h>0は発火閾値、γ>0は漏れの強さ、tkはk番目の入力パルスを受けとった時刻を表す。x(t)が閾値hに到達するとニューロンは発火して、x(t)は0にリセットされる。

 まずはじめに、周期パルス入力下においては、興奮性LIFニューロンのダイナミクスはパルス間隔とパルス強度が一定の関係を保ったままゼロに近づくときに対応する振動型LIFニューロンのダイナミクスに漸近することを示した。

 この結果と振動型LIFニューロンに対する同期条件の定理を用いると、興奮型の場合も同期が達成されることがわかる。非周期的入力の場合、離散時間の南雲・佐藤ニューロンやフィッツヒュー・南雲ニューロンのパルス結合系でも類似の結果を得た。

3.連続入力信号の時空間スパイクコーディング

 長い間、脳内の情報はニューロンの発火率によって表現されていると考えられてきた。しかしながら、このような単純な発火率コーディングでは時間平均操作が必要なため、脳内で実際に生起している速い情報処理過程を説明するには遅すぎる。そこで、単一スパイクの伝播やその詳細な発火時刻も情報処理に関わっているという考え方が提示されて、実際1msの精度の再現性のある発火スパイク時系列も観測されている。そのような時空間スパイクコーディングは、1msというオーダーで情報を処理できるので、発火スパイク間隔よりはるかに長い時間が必要な単純な発火率コーディングに比べて、脳はより少ない消費エネルギーでより速く情報を処理することができる。時空間スパイクコーディングに関連して、1994年にサウアーによりスパイク間隔時系列はカオス的な外界入力連続情報を保持できることが証明された。カオス的に変化する連続刺激は視覚刺激や音のような動的に変化する入力を模擬しているものと解釈される。この結果も脳が発火率コーディングよりはるかに短いスパイク間隔長の内に情報処理を行うことができることを示唆している。

 このようなスパイク間隔列に関する先行研究は、連続的な外界刺激を直接受け取る感覚ニューロンの情報コードのみを扱ってきた。そこで、本論文では複数の感覚ニューロンからスパイク時系列を受け取る次の層のニューロン(ここではこれらを皮質ニューロンと呼ぶ)がやはりスパイク間隔列を用いて情報をコードできることを明らかにした。

 今、感覚ニューロンがn1個あるとし、Ti,j;(1≦i≦n1)でi番目のニューロンのj番目の発火時刻を表すことにする。すると、Ti,j;(j≧2)はTi,j-1とカオス力学系から生成される外部入力S(t)から〓の関係によって決まる。n1個の感覚ニューロンから時刻Ti,jにパルス入力を受けとる皮質ニューロンに対して次の結果を得た。

 皮質ニューロンは、n-1 1に比例する閾値の分散誤差を除けば感覚ニューロンと同様に外部入力をスパイク間隔列にコードすることができる。

 さらに数値実験により(図1参照)、非線形予測とアトラクタ再構成が可能であることが示された。

4.ノイズ及び構造パラメータの変化に伴う発火率コーディングと時空間スパイクコーディングの二重性

 前節の結果を一般化して、多数の皮質ニューロンがあってさらにノイズを伴う場合を扱う。図2に示すように各皮質ニューロンはランダムに選ばれた一定数の感覚ニューロンからパルス入力を受け取ると仮定する。

 図3より、ノイズが小さいときは皮質ニューロンは同期し、同期発火間隔が頑健的に外部入力をコードすることがわかる。ノイズ強度が中程度のときは皮質ニューロンは非同期発火し、外部刺激の時間波形を集団的発火率コーディングによってより詳細にコードできる。さらにノイズ強度を上げると、単に情報コーディング効率が悪化する。すなわち、ノイズ強度パラメータの変化に伴って、単一の枠組のもとで発火率コーディングか時空間スパイクコーディングかが効率的に選択される。ノイズは外部刺激や脳内の他の部位からの入力によって背景アクティビティーとして時間的に変化しうるので、動物は状況に応じて適切なコーディング様式を選択している可能性がある。また、確率共振、coherence resonance、カオスのどれとも異なる意味でのノイズの脳内情報処理における役割をも示唆している。さらに、shared connectivity、結合強度、膜電位の漏れ率、ニューロンの非一様性等のパラメータ変化に対しても同様にコーディングの二重性が現れることが示された。

 発火率コーダーとしての性能(*)。入力は(a)レスラー方程式、(b)ローレンツ方程式から生成された。

 同期発火によるコーディングは、発火率コーディングに比べて発火の不規則性やノイズに対して頑健である。そのかわり、情報伝達速度は同期発火間隔(単一ニューロン発火間隔に等しい)の逆数で規定されてしまう。それ以上細かい時間精度の情報は積分操作によって捨てられる。他方で、非同期発火のときは各皮質ニューロンは入力刺激の異なる側面をコーディングする。皮質ニューロンは集団発火率によって入力の詳細な時間波形を再現することができる。今までは、同期状態の理論研究に重きが置かれてきたが、本章の結果は非同期状態も二重コーディングの一翼として同期状態に匹敵する重要な役割を果たしていることを示唆しており、非同期状態のより詳しい数理的解析は今後の課題である。

 実際のニューラルネットワークは、これらのコーディング方式を二重的に用いていると考えられる。新しい環境や緊急的状況では、動物は推定精度のよい集団的発火率コーディングを用いて外界情報をいちはやく精確に把握し、安定な環境では、必ずしも外界情報の精度の高いコーディングとはなっていないが頑健な同期発火コーディングに移行している可能性がある。ノイズや他のパラメータのスイッチングによる同期-非同期の切り替えは生理実験的事実とも定性的に符合している。

5.スモールワールドネットワークによって介在される空間発火率コーディング、特徴抽出、および同期発火コーディング

 ここまでの結果は、全結合やランダム結合などの単純な結合トポロジーに対して得られた。しかし、実際のニューラルネットワークは高いクラスター性と小さい平均頂点間距離に代表されるスモールワールド性を持つ。そこで、ここでは様々な結合トポロジーによる数値実験・理論解析を行い、結合の乱雑さに対応するパラメータの変化が、2つの空間的コーディング様式、すなわち空間精度は低いが頑健な同期発火コーディングと、局地的な同期発火による空間精度が高い空間発火率コーディングを橋渡しすることを示した。前章までの時間的二重性と対照的に、本章の結果はコーディングの空間的二重性と要約される。

6.結論

 本論文により、ノイズ強度パラメータや構造パラメータの変化によって発火率コーディングと時空間スパイクコーディングの二重性が現れることがわかった。ここで示された確率共振、coherence resonance、カオスとは異なる意味でのノイズの役割は、脳科学を越える広い分野でのノイズの機能の可能性を示唆していて興味深い。さらに、結合構造パラメータの変化が空間的な二重コーディングを可能にすることも示した。

図1:左:皮質ニューロンの出力スパイク間隔時系列に対する予測誤差

NPE(h)(original)とサロゲートデータ(対照実験)による予測誤差(FS,AAFT)、右:2次元空間におけるアトラクタ再構成。

図2:皮質ニューロンが複数ある場合のニューラルネットワークモデル。

図3:同期発火による時空間スパイクコーダーとしての性能syn(×)およびr(t)(+),

審査要旨 要旨を表示する

 20世紀初頭から続く脳科学の多くの研究努力にも関わらず、脳の高次機能はまだほんの一部しか解明されていない。しかしながら、特に90年代初頭から実験技術の発展に伴って時間・空間分解能が高い時空間興奮パターンが記録されるようになってきた。特に、多電極同時計測によって様々な状況におけるニューロンの同期発火の存在が明らかにされてきた。本研究は、これらの実験事実を背景にして、脳の情報コーディングの二重性を論じるものである。

 本論文は、"Duality of Information Coding in Pulse-coupled Neural Networks"(和文題目「パルス結合ニューラルネットワークにおける情報コーディングの二重性」)と題し、8章および結論より成る。

 本論文では、パルス結合ニューラルネットワークの解析を通じて、興奮性ニューロンから成るニューラルネットワークにおいて同期の起こる仕組みとその脳機能的意味を明らかにした。その結果、様々なニューラルネットワーク構造を規定するパラメータの同期への影響が明らかになるとともに、2つの支配的かつ対立的とされてきた脳内情報処理様式、すなわち、発火率コーディングと時空間スパイクコーディングが単一モデルで統一的に説明されることがわかった。これは脳が状況に応じて適切なコーディング様式を選ぶというコーディングの二重性を示唆しており、最近の生理実験的事実とも定性的に符合する。

 第1章では、本研究の背景とその脳科学における位置付けがなされた。特に、同期発火と発火時間間隔の脳機能における重要性と、脳のコーディング理論において従来対立している2つのパラダイムについて詳しく説明された。

 第2章では、パルスによって結合された興奮性の漏れのある積分型(LIF)ニューロンからなるネットワーク、およびその時間離散型モデルの同期現象について解析している。まずはじめに、周期パルス入力下においては、振動型LIFニューロンに対する同期条件の定理を用いることにより、興奮性LIFニューロンでも、広い条件で同期が達成されることがわかった。非周期的入力の場合、離散時間の南雲・佐藤ニューロンの場合も類似の結果を得た。

 第3章では、第2章の結果をフィッツヒュー・南雲ニューロンのパルス結合系に拡張した。位相変数による記述によりLIF型のときと同様の結果が得られた。

 第4章では、連続入力信号の時空間スパイクコーディングが論じられた。単純な発火率コーディングでは時間平均操作が必要なため、脳内で実際に生起している速い情報処理過程を説明するには遅すぎる。そこで、単一スパイクの伝播やその詳細な発火時刻も情報処理に関わっているという考え方が提示された。そのような時空間スパイクコーディングに関連して、サウアーはスパイク間隔時系列はカオス的な外界入力連続情報を保持できることを証明した。スパイク間隔列に関する先行研究は、連続的な外界刺激を直接受け取る感覚ニューロンのコーディングのみを扱ってきたが、本章では複数の感覚ニューロンからスパイク時系列を受け取る興奮性皮質ニューロンもやはりスパイク間隔列を用いて情報をコードできることを明らかにした。

 第5章では、ノイズ強度の変化に伴う発火率コーディングと時空間スパイクコーディングの二重性について解析した。第4章のモデルを拡張して多数の興奮性皮質ニューロンがある場合を扱った。皮質ニューロンに与えられるノイズが小さいときは皮質ニューロンは同期し、同期発火間隔が頑健的に外部入力をコードすることがわかる。ノイズ強度が中程度のときは皮質ニューロンは非同期発火し、外部刺激の時間波形を集団的発火率ゴーディングによってより詳細にコードできる。さらにノイズ強度を上げると、単に情報コーディング効率が悪化する。すなわち、ノイズ強度パラメータの変化に伴なって、単一の枠組のもとで集団的発火率コーディングか時空間スパイクコーディングかが効率的に選択される。ノイズは外部刺激や脳内の他の部位からの入力によって背景アクティビティーとして時間的に変化しうるので、動物は状況に応じて適切なコーディング様式を選択している可能性が示されたことになる。

 第6章では、第5章の結果をさらに拡張して、shared connectivity、結合強度、膜電位の漏れ率、ニューロンの非一様性等のパラメータ変化に対しても同様にコーディングの二重性が現れることが示された。実際のニューラルネットワークは、これらのコーディング方式を二重的に用いていると考えられる。新しい環境や緊急的状況では、動物は推定精度のよい集団的発火率コーディングを用いて外界情報をいちはやく精確に把握し、安定な環境では、必ずしも精度は高くないが頑健でエネルギー効率のよい同期発火コーディングに移行している可能性がある。また、解析的にオーダーパラメータを1つ定義することによって各パラメータ変化の影響を統一的に記述することができた。

 第7章では、空間発火率コーディング、特徴抽出、および同期発火コーディングを解析した。実際のニューラルネットワークは高いクラスター性と小さい平均頂点間距離に代表されるスモールワールド性を持つ。そこで、ここでは様々な結合トポロジーによる数値実験・理論解析を行い、結合の乱雑さに対応するパラメータの変化が、2つの空間的コーディング様式、すなわち時間精度は低いが頑健な同期が得られる大域的同期発火コーディングと、精度は高いが同期の範囲が限定される局所的同期発火コーディングを橋渡しすることを示した。前章までの時間的二重性と対照的に、本章の結果はコーディングの空間的二重性と要約される。

 第8章では、第7章を補足するために、連想記憶モデルにおける記憶パターンの安定性を調べた。安定性が結合密度に依存することが示され、第7章で論じられたコーディングの結合構造依存性を支持している。

 以上を要するに,本論文は、パルス結合された興奮型ニューロンから成るニューラルネットトワークにおいて、同期発火の意味での時空間スパイクコーディングと集団発火率コーディングによって情報がコードされる条件を調べたものである。その結果、両者は時間的にも空間的にも、対立的でなく相補的に現れる二重性が示された。これは脳科学、そして数理工学上貢献するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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