学位論文要旨



No 117620
著者(漢字) 楊,天笑
著者(英字)
著者(カナ) ヤン,テンシャオ
標題(和) 計算化学を用いたアクチノイドの水和挙動解明
標題(洋) Computational Chemistry Study on the Hydration of the Actinides
報告番号 117620
報告番号 甲17620
学位授与日 2002.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5337号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,篤之
 東京大学 教授 勝村,庸介
 東京大学 助教授 長崎,晋也
 東京大学 助教授 浅井,圭介
 東京大学 助教授 長谷川,秀一
内容要旨 要旨を表示する

1.緒言

アクチノイドイオンの移行挙動をモデリングするにあたっては、アクチノイドイオンの化学的挙動をすることが肝要となる。中でも、アクチノイドイオンの水和挙動は、アクチノイドイオンの様々な化学的特性を決定づける重要な現象である。本研究では、量子化学計算および分子動力学計算を用いて、U(VI)およびTh(IV)イオンの水和挙動(水和数)を解明することを試みた。

2.計算手法

すべての量子化学計算は、Gaussian98を用いて行った。計算理論にはB3LYPハイブリッド密度汎関数法を用いた。U(VI)の水和の計算については、UにはHayらの有効内殻ポテンシャル(ECP)と基底関数を用い、OとHは構造最適化には6-31G*基底関数を、エネルギー計算には6-31++G*を用いた。Th(IV)の水和の計算については、ThにはKuchleらの有効内殻ポテンシャル(ECP)を用い、OとHには6-31G*の基底関数を用いた。構造最適化計算の際には、対称性制約を加えなかった。溶媒和エネルギーの計算には、Tomasiらの連続誘電体モデル(PCM)を用いた計算を行った。結合エネルギーは、生成物のGibbs自由エネルギーと、その構成分子のGibbs自由エネルギーの差として定義した。

3.U(VI)の水和挙動の量子化学計算

本研究ではまずGaussian98によるGibbs自由エネルギー計算により、ウラニルイオンの水和数の評価をおこなった。既往の研究では、ウラニルイオンの水和数は5であることが示唆されていることから、本研究では水和数4,5および6のウラニルイオンの計算をおこなった。

計算の対象としたウラニル水和物を以下に説明する。まず水和水5つが配位したUO2(H2O)52+を考え、以下の3種類の構造の比較を行った。(1)5つの水和水がウラニルイオンの第一水和圏にすべて配位、(2)4つの水和水が第一水和圏に配位、1つの水和水が第二水和圏に配位、第二水和圏の水はウランに直接結合、(3)4つの水和水が第一水和圏に配位、1つの水和水が第二水和圏に配位、第二水和圏の水は第一水和圏の水に水素結合。水和水6つが配位したUO2(H20)62+も考え、同様に3種類の構造の比較を行った。(1)6つの水和水がウラニルイオンの第一水和圏にすべて配位、(2)5つの水和水が第一水和圏に配位、1つの水和水が第二水和圏に配位、第二水和圏の水はウランに直接結合、(3)5つの水和水が第一水和圏に配位、1つの水和水が第二水和圏に配位、第二水和圏の水は第一水和圏の水に水素結合。

 本研究で、水和数4、水和数5、水和数6の3種類のウラニルイオンのエネルギーを直接比較しなかったのは以下のような理由による。まず、量子化学計算による溶液中の分子のエントロピーの計算は、いろいろと議論の残るところである。しかしながら、実際に重要なのは計算されたエントロピーの絶対値ではなく、反応前後のその差の値である。したがって、反応前後でエントロピーの変化がないような系を選ぶことで、エントロピーの計算値の不正確さに起因する誤差を最小におさえることができる。

 表1に、溶液中におけるGibbs自由エネルギー、およびそれに基づく解離エネルギーの計算値を示す。この表より、UO22+・5H2O、UO22+・4H2O・H2O*、UO22+・4H2O・H2O**、の中ではUO22+・5H2O、が最も低い解離エネルギーをもち、最も安定であることが示された。したがって、溶液中では水和数が4であるより5であるほうが安定であることがわかる。同様にUO22+・6H2O、UO22+・5H2O・H2O*、UO22+・5H2O・H2O**の比較からはUO22+・5H2O・H2O*が最も低い解離エネルギーをもち、したがって最も安定であることが示された。このことから溶液中では水和数6よりも水和数5が安定であることがわかる。以上の結果から、摂氏25度の常温常圧の条件下ではウラニルイオンの水和数は5が最も安定であることが示された。

4.Th(IV)の水和挙動の量子化学計算

 Th(IV)イオンは、高い実効電荷を有することから、水和の傾向が強く現れる。本研究では、[Th(H2O)n]4+の量子化学計算を行い、最も安定な水和数を求めることを試みた。

 計16種類のTh(IV)のクラスター[Th(H2O)n4+](n=6,8,9,10,12)について計算を行った。[Th(H2O)n(H2O)h]4+(n=第一水和圏,h=第二水和圏)の結合エネルギーの計算結果を表2に示す。

 溶液中での結合エネルギーの比較から、水和数9でC4v対称を持つクラスターが最も低い結合エネルギーを有し、最も安定であることがわかる。しかし、水和数9と水和数10のクラスターでの結合エネルギーの差は小さいこともわかる。たとえば、クラスター"9+1"とクラスター"10"の結合エネルギーの差は、0.70kcal/molにすぎない。また、クラスター"10+2"とクラスター"9+3"のエネルギーの差も0.29kcal/molに過ぎない。このことから、水和数9と水和数10の安定性の違いというのは、室温でのkTと同じくらい小さいものであり、Th(IV)の水和数は9と10の間であるということができる。これは、実験により得られている水和数9〜11とほぼ一致を見る結果である。一方、気相中の結合エネルギーを用いて評価した場合、水和数8が最も安定であるということもわかり、水和数の評価にあたっては、溶媒和エネルギーやエントロピーの効果も含めて考えることが重要であることがわかる。

5.Th(IV)水和物および加水分解物の水和水交換反応

Th(IV)水和物および加水分解生成物の水和水交換反応のメカニズムについて調べた。解離機構(D)、交換機構(I)、会合機構(A)すべての可能性を考えて計算を行った。[Th(H2O)9]4+(式1〜3)、[Th(H2O)10]4+(式4〜6)、[Th(OH)(H2O)8]3+(式7〜9)

D/[Th(H2O)9]4+→{[Th(H2O)8...H2O]4+}#→[Th(H2O)8]4+・H2O(1)

I/[Th(H2O)9]4+・H2O→{[Th(H2O)8...2H2O]4+}#→[Th(H2O)8]4+・2H2O(2)

A/[Th(H2O)9]4+・H2O→{[Th(H2O)9....H2O]4+}#→[Th(H2O)10]4+(3)

D/[Th(H2O)10]4+→{[Th(H2O)9...H2O]4+}#→[Th(H2O)9]4+・H2O(4)

I/[Th(H2O)10]4+・H2O→{[Th(H2O)9...2H2O]4+}#→[Th(H2O)9]4+・2H2O(5)

A/[Th(H2O)10]4+・H2O→{[Th(H2O)10...H20]4+}#→[Th(H2O)11]4+(6)

D/[Th(OH)(H2O)8]3+→{[Th(OH)(H2O)7...H2O]3+}#→[Th(OH)(H2O)7]3+・HgO(7)

I/[Th(OH)(H2O)8]3+・H2O→{[Th(OH)(H2O)7...2H2O]3+}#→[Th(OH)(H2O)7]3+・2H2O(8)

A/[Th(OH)(H2O)8]3+・H2O→{[Th(OH)(H2O)8...H2O]3+}#→[Th(OH)(H2O)9]3+(9)

 ここでは、Gibbs自由エネルギー変化△G298‡.を活性化エネルギーとした。最も反応が進行しやすい交換機構(A,I,D)が最も低い活性化エネルギーを有するものと考えられる。反応物、生成物、および中間体は負の振動数を持たず、遷移状態は負の振動数を一つ持つものとして定義された。

今回用いた計算理論(密度汎関数法)では、[Th(H2O)9]4+の遷移状態を確認することはできず、したがって、[Th(H2O)8]4+の水和水交換機構を明らかにすることはできなかった。[Th(H2O)10]4+と[Th(OH)(H2O)J+について、計算された活性化エネルギー△E‡およびTh-O結合距離の変化△Σd(Th-O)を表3に示す。[Th(H2O)10]4+のD機構に基づく水和水交換反応では(式4)、△Σd(Th-O)は0.351Åと求められた。この値が正の値を取ることから、[Th(H2O)10]4+はDかIdのメカニズムを持つものと考えられる。しかし、本研究では式5の反応の遷移状態{[Th(H2O)9...2H2O]4+}#を正しく求めることができなかった。したがって、DかIdか区別することはできなかった。[Th(H2O)10]4+の水和水交換はおそらくD機構に基づくものと考えられる。その活性化エネルギーは3.06kcal/molであった。[Th(OH)(H2O)8]3+のD機構に基づく水和水交換反応ついて、2つの遷移状態に関して計算を行った。一つは、脱離する水が水酸基にたいしてシス位にあるもの、もう一つはトランス位にあるものである。それぞれについて、活性化エネルギーを計算した結果、6.97kcal/mol、7.40kcal/molとなった。このことから、シス位にある方が、D機構で交換反応を起こしやすいことがわかる。△Σd(Th-O)は0.741Åと求められた。次にI機構に基づく交換反応を調べた。式8の遷移状態{[trans/trans-Th(OH)(H2O)7...2H2O]3+#において、第2水和圏の水分子が第一水和圏に入ろうとする傾向は見られなかった。したがって、Id機構による交換は起こらないものと考えられる。

6.Th(IV)水和物の分子動力学計算

4価トリウムイオンのような高い電荷を有するイオンにおいては、第一水和圏の水分子と強く分極を起こす。しかし分極の効果を定量的に取り込んで分子動力学(MD)計算を行うのは容易ではない。本研究では、「水和イオンモデル」を用いて、Th4+イオンのMD計算を行うことを試みた。このモデルでは、Th4+イオンの代わりに[Th(H2O)9]4+や[Th(H2O)10]4+をカチオンとして取り扱う。本研究では、第二水和圏の水分子の数、水和水交換メカニズム、および水分子の交換速度定数などを調べた。さらに、それらに及ぼすCI-濃度や温度の影響を調べた。

MD計算にはAMBER6.0プログラムを用いた。[Th(H2O)9]4+と[Th(H2O)10]4+の電荷の計算にはESP法を用いた。Thと第一水和圏の水分子のHのLJパラメータは0とし、第一水和圏の水分子のOのLJパラメータはROI*=2.0Å and εOI=0.08kcal/molとした。MD計算の際に、溶質(ここでは[Th(H2O)9]4+か[Th(H2O)10]4+)の位置を固定しておこなった。周期境界条件を用い、0.2フェムト秒きざみで1atmの条件で1500ピコ秒のMDシミュレーションを行った。

いくつかの異なるCl-濃度、および異なる温度でのMDシミュレーションの結果を表4、表5に示す。[Th(H2O)9]4+では、Cl-濃度が0.39Mから4.57Mにあがると、配位するCrの数が0.0から5.6にと増加し、また配位するOの数も15.7へと減少する。[Th(H2O)10]4+では、Cl-濃度が0.32Mから5.00Mにあがると、配位するCl-の数が0.0から3.9にと増加し、また配位するOの数も16.7へと減少する。このことから、Cl-濃度が高くなると、Cl-分子が水分子と置き換わり、しかし全体の配位数はほぼ変わらないものと考えられる。第二水和圏の配位数は19〜21の値を取るものと考えられる。温度の効果についても調べた。50℃および75℃について、シミュレーションを行った。その結果、温度が上昇すると、配位数が減少する傾向が明確に見られた。さらには、温度が高い条件では、Cl-濃度が低いうちでもCl-が第二水和圏に入り込むことが明らかにされた。

表1 UO2(H2O)n2+クラスターの気相中および液相中での結合エネルギー(kcal/mol)

*4つの水和水が第一水和圏に配位、1つの水和水が第二水和圏に配位、第二水和圏の水はウランに直接結合**4つの水和水が第一水和圏に配位、1つの水和水が第二水和圏に配位、第二水和圏の水は第一水和圏の水に水素結合

表2 Th(H2O)n(H2O)h4+クラスターの結合エネルギー

表3[Th(H2O)10]4+and[Th(OH)(H2O)8]3+の水和水交換反応の活性化エネルギーおよびTh-O結合距離の変化△Σd(Th-O〕

表4 Th4+の第2水和圏のCl-濃度依存性

NO配位している水分子の酸素の数 NCl配位しているCl-の数、全配位数はCN=NO+NCl

表5 Th4+の第2水和圏の温度依存性

NO配位している水分子の酸素の数 NCl配位しているCl-の数、全配位数はCN=NO+NCl

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、計算化学的手法を用いてアクチノイドイオンの水和挙動を明らかにしたものである。論文では有効内殻ポテンシャル近似を用いた密度汎関数法計算により、4価および6価のアクチノイドイオンの第1水和圏の水和数や水和水交換反応の機構を明らかにしているほか、分子動力学計算により第1・第2水和圏の水和数や水和水交換反応の機構や速度を明らかにすることを試みている。

 第1章では、研究の背景が述べられている。アクチノイドイオンの地下水中における移行挙動を調べるためには、アクチノイドイオンの溶液中における錯形成反応について知ることが重要であるが、そのための基礎的なデータとしてアクチノイドイオンの水和挙動が最も重要であることが述べられている。放射能を有し核燃料物質でもあるウランやトリウムについては実験を行うことは容易ではなく、したがって計算機シミュレーションを用いてシステマチックな計算を行って調べることが有効であると本研究の動機付けを行っている。

 第2章では、6価ウランイオンの水和挙動・加水分解挙動を密度汎関数法に基づく計算により調べた結果を報告している。6価ウランの溶液中での最も安定な水和数を、ウランの水和クラスターの解離エネルギーを比較することにより調べ、水和数5が最も安定であることを報告している。また、水和イオンの加水分解反応の平衡定数の計算を行い、実験値との比較を行っているほか、実験値との差が生じる原因についての考察をおこなっている。

 第3章では、4価トリウムイオンの水和挙動を密度汎関数法により調べた結果を報告している。16種類の水和クラスターイオンを考え、それぞれの解離エネルギーの計算結果を比較した結果、水和数9でC4v対象性を持つ水和イオンが最も安定であるとしている。ただし、水和数9のクラスターと水和数10のクラスターでは解離エネルギーの差は1kcal/mol未満であり、両者の差はほとんどないことから、実際の水和数は9か10であるとしている。また、4価トリウムイオンの加水分解反応についても調べ、4価トリウムの第4加水分解生成物の場合は水和数は4となり、トリウムの配位数は8になるとしている。さらに、この章では連続誘電体モデルを用いた溶媒(水)中での構造最適化計算も行い、溶媒効果を考慮して計算した構造は、実験値と極めて近いものを得られるとしている。

 第4章では、4価トリウム水和イオンの水和水交換反応を調べている。4価トリウム9水和錯体および4価トリウム10水和錯体について、水和水交換メカニズム(1)解離機構、(2)交換機構、(3)会合機構、の3種類を考え、それぞれの基底状態、遷移状態、中間体を考え、活性化体積および活性化エネルギーを計算した結果、4価トリウム9水和錯体は会合機構、4価トリウム10水和錯体は解離機構で水和水交換が進むことが示されたとしている。また、4価トリウム第1加水分解生成物の9水和錯体は、解離機構で水和水交換反応が進むとしている。

 第5章では、4価トリウム水和イオンの分子動力学計算の結果を報告している。トリウムと第1水和圏の構造、電荷分布およびレナード・ジョーンズポテンシャルは密度汎関数法の計算で求めた値を用いることで、4価トリウムのような高い実効電荷を持つイオンの分子動力学計算を行っている。そして、第2水和圏の構造を調べた結果、第2水和圏には約20の水分子が存在すること、そしてこの水分子の数がカウンターイオンの濃度を増やすとともに減少し代わりにカウンターイオンが第2水和圏に入り込んできて全体の配位数はやや減少することを報告している。そして、この計算結果は実験で見られる傾向と概ね一致しているとしている。また、第2水和圏の水分子の水和水交換速度やメカニズムを調べ、温度が上昇すると水和水の交換は早まること、その理由として温度上昇とともに水分子の動きが活発化することを挙げている。

 第6章は結論である。本研究で得られた最も重要な成果は、閉殻系の6価ウランイオンと4価トリウムイオンの密度汎関数計算および分子動力学計算を行い、イオンの水和数や水和水の交換メカニズム・交換速度を調べたことにあるとしている。本研究で得られた計算結果は実験データと定性的な一致を見ているほか、実験では得られない結果も得られており、計算化学的手法は他のアクチノイド元素への応用が期待されるとしている。

 以上のように、本研究は計算化学を用いて6価ウランイオンと4価トリウムイオンの水和挙動を明らかにしたのみならず、高酸化状態を取る他のアクチノイドイオンにも計算化学的手法が有効であることを示した研究であり、アクチノイド化学や原子力工学に寄与するところが少なくない。

 よって、本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認められる。

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