学位論文要旨



No 117626
著者(漢字) アカデダムロン タナナン
著者(英字) Akhadejdamrong Thananan
著者(カナ) アカデダムロン タナナン
標題(和) 軽元素イオン注入によるセラミックコーティングの自己保護・自己潤滑化に関する研究
標題(洋) Self-Protection/Self-Lubrication of Ceramic Coating by Light Element Ion Implantation
報告番号 117626
報告番号 甲17626
学位授与日 2002.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5343号
研究科 工学系研究科
専攻 材料学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉田,豊信
 東京大学 教授 相澤,龍彦
 東京大学 教授 鳥海,明
 東京大学 教授 堀池,靖浩
 東京大学 助教授 幾原,雄一
 東京大学 助教授 岡部,徹
内容要旨 要旨を表示する

環境負荷低減、CO2削減が世界的に求められる中で、生産技術においても大きな変革が生じつつある。その典型がドライ加工・ドライ塑性加工への転換であろう。高面圧下での摩耗・摩擦が想定される機械加工、塑性加工では、潤滑油なしに金型ダイス・ポンチ・工具を加工に供することはほとんど不可能であると考えられてきたが、ここでも潤滑油の大量消費-大量廃棄・洗浄は許されなくなっている。言いかえれば、革新的な耐磨耗、低摩擦を高面圧・広加工速度域で実現する表面構造化が不可欠となっている。

これまでも耐摩耗性向上、低摩擦実現のため、金型・ダイス・工具表面には種々のセラミックコーティングがなされてきた。窒化チタンTiNは塑性加工・機械プレス用金型保護皮膜などに広く利用されているが、比較的高い摩擦係数(0.8-1.2)・TiO2への容酸化性ゆえに、合金化・複合化など多くの改良がなされている。一方、DLCあるいはMoS2含有コーティングなど、固体潤滑機構を利用した低摩耗・低摩擦化の試みも報告されている。

本研究では、TiN膜に特定の要素元素を注入し、酸化雰囲気あるいはドライ摩耗環境下における表面反応を制御することで、耐酸化性、耐摩耗・低摩擦をその場で実現する技術の開発を目標とする。具体的には、ホローカソード型イオンプレーティング法にて基板上に作製したTiN膜を標準試料とし、これに種々の条件でAl注入することで耐酸化性の向上をめざし、他方、種々の条件でCl注入することで耐摩耗性向上・低摩擦実現をターゲットとした。なお、イオン注入では、フリーマン型イオンソースを用い、質量分別により所定のイオンビームを引出し、所定のエネルギーに制御している。

標準試料にAl注入した試料(以下Al-TiN材)では、低照射量での注入Alは、TiN構造を保持したままで、金属AlあるいはAlNとして存在しているが、4.5x1017ions/cm2では注入AlとTiNとの間に固溶体化反応が生じ、(Ti,Al)Nの比率も大きくなる。耐酸化実験では、TGAを用いドライ酸素条件下で温度873-1073K、72ks(20h)保持し、酸化増量ならびに保持後のXRD解析から酸化相の同定を行った。標準試料の場合には、873Kにおいてすでにルチル構造のTiO2に完全酸化した。一方、Al-TiN材では注入量の増加とともに、酸化開始温度が上昇し、酸化開始が観測されるのは1073Kからとなった。また酸化速度定数の温度依存性から活性化エネルギーEaを求めると、EaはAl注入量とともに増加し、その値は360kJ/molに達し、(Ti,Al)Nコーティングにおけるそれに匹敵するようになった。以上より、Al注入により大幅に耐酸化性が向上することがわかった。

 Al-TiN材およびその酸化実験後の試料を、XRD,ESCAなどにより、その組織変化を詳細に検討し、耐酸化性の向上メカニズムについて考察した。Al-TiN材では、Al注入量の増加に伴い、TiN中に金属Al、準安定相AlNならびに(Ti,Al)N相が生成し、酸化雰囲気下では、表面からの酸素拡散に対して、TiNと緩い結合しかもたないAlが表面へ拡散することで、Al2O3相が試料表面に生成される。実際、XRD解析ならびにAl濃度分布解析から、Al注入量の増加に伴い、安定なAl2O3相が積層していることがわかった。さらに、TEM-EDSにより、この層は緻密なAl2O3ナノ結晶で構成されており、酸化保持時間の増大により、Al-TiN材表面は、(緻密なAl2O3ナノ結晶層)-(Al拡散・欠乏による再結晶で等軸化した微細なTiN結晶体)の2層構造に変化していることもわかった。以上から、注入Alの表面への拡散により緻密なAl2O3層が酸化過程でその場生成され、表面からのさらなる酸素拡散を防止するために、耐酸化性が向上したものと考えられる。このようにインプロセスで耐酸化機構を創出する現象を自己保護化機能と位置付け、Al注入によるTiNの耐酸化性向上はその典型例であると推察される。

 次に、注入核種としてClを選択し、標準試料へのCl注入により、インプロセスで耐摩耗性向上・低摩擦状態を創出する機構(自己潤滑化)について検討する。注入量が1.0x1016-1.0x1017ions/cm2では、Cl-AlN材のXRDプロファイル、TiN格子定数にも変化は生じない。ただし、注入により転位密度も上昇することから、注入したClはTiNの副格子あるいはこれらの転位に捕獲されて、きわめて緩いTi-Cl結合状態でTiN中に存在すると考えてよい。標準試料ならびにCl-TiN材とSUS304材との摩耗・摩擦試験をボールオンディスク法にて実施した。参照のためにClとほぼ同一の原子番号を有するArでの注入試料(Ar-TiN材)も作製し、同様の試験に供した。負荷荷重2N、すべり速度0.01m/sにおける標準試料ならびにAr-TiN材の摩擦係数はそれぞれ0.8-1.2、1.0であるのに対して、Cl-TiN材(1.0x1017ions/cm2)ではすべり距離に関わらず0.2一定となった。これまでイオン注入による摩耗特性改善では物理的な効果が強調されてきたが、Ar-TiN材とCl-TiN材との本質的な摩擦特性の差異より、イオン注入に伴う物理的効果ではなく、化学的な効果により摩擦特性が向上することがわかった。

 標準試料ならびにCl-TiN材の摩耗試験前後の表面構造・組織解析、観察より、両者の摩耗プロセス中の本質的差異について検討した。標準試料の摩耗では、凝着摩耗状態となり、相手材からの元素としてFeが転写され、主たる酸化層(約40nm)としてFe2O3が生成しており、Ti起因の酸化相として微量なTiO2が観察されるのみである。一方、Cl-TiN材では、残留TiN、TiO2相とともに、Ti-O状態図上では中間酸化物に相当するMagneli相TinO2n-1相が生成している。一方、Cl-TiN材の摩耗試験中に採取した微細な摩耗粉(約2-5nm)のHRTEM、SAED解析からも、相手材構成元素であるFe,Cr,Niは全く分析されず、種々の中間酸化物相ならびにアモルファス相のみから構成されていることがわかった。さらに、摩耗粉の結晶構造には、せん断変形により導入される周期的な双晶バンド、平面欠陥が観察され、これら中間酸化物であるMagneli相が、摩耗中にせん断変形していたことが明らかとなった。以上のことから、Cl-TiN材では、摩耗中にその場で表面に、せん断変形可能なMagneli相が選択的に生成するため、高面圧条件でも摩擦応力はMagneli相のせん断降伏応力以下となって低摩擦状態が創出されるとともに、せん断変形そのもので摩耗量も大きく抑制されるものと推察された。

摩耗プロセス中のせん断変形可能な酸化相のその場生成によるCl-TiN材の自己潤滑性の有効性を検討するために、負荷面力を1-7N、すべり速度を0.15m/sまで変化させ、摩耗・摩擦試験を系統的に行った。標準試料では激しい酸化を伴う摩耗状態も、Cl-TiN材ではすべて緩慢な酸化状態に抑制され、磨耗体積も1/100程度となり、摩耗パラメータからは境界潤滑状態(固体潤滑状態よりも低摩耗)に近いトライボロジー環境が創出されることがわかった。摩擦係数も面力・すべり速度に不敏感で、ほぼ0.2以下となることからも、自己潤滑機構が成立している限り、一定の低摩耗・低摩擦状態が達成されることも判明した。ただし、面力が過大になると、酸化膜の破壊が生じ、摩擦係数は急速に増大することから、自己潤滑機構は、一定の面圧以下で機能すると考えられる。

自己潤滑機構の中で、注入Clの役割を考察するために、Cl-TiN材において摩耗試験前後の摩耗界面内部およびその近傍の局所XPS解析を行うとともに、Cl-TiN材の酸化実験も行った。系統的なXPS解析により、摩耗試験以前にCl注入により表面から酸素が有為に浸入しており、その浸入深さもCl注入量とともに増大し、1.0x1017ions/cm2では30nmに達することがわかった。静的な酸化速度よりもきわめて迅速に酸化が摩耗界面で進行し、きわめて低い酸素ポテンシャルでも中間酸化物が生成するのは、Clによる酸化促進効果によるものと推察される。実際、Cl-TiN材の酸化実験では、標準材では全く酸化反応が生じない、473-773Kにおいても大気中で酸化が生じ、大きな酸化増量と放物線型酸化挙動が観察され、注入Clにより表面あるいは界面近傍で、酸化挙動が促進されていることがわかった。

本論文では、TiNへのAlならびにCl注入による耐酸化性の向上、耐摩耗性向上・低摩擦環境達成を目指して、系統的な実験を行い、以下の結論を得た。

1)Al-TiN材では、注入AlがTiN中で金属Al、AINあるいは(Ti,Al)Nとして存在し、酸化雰囲気状態では、表面からの酸素拡散に対応して、TiNとの結合性の低いAl原子が迅速に表面に向けて拡散することで、Al-TiN材表面に緻密なナノ結晶Al2O3皮膜がインプロセスで形成されるために、さらなる酸素拡散が抑制される自己保護機構が成立する。

 2)この自己保護機能のために、酸化開始温度はAl注入量とともに増大し、最高200Kも上昇し、耐酸化性は大幅に向上することがわかった。

 3)Cl-TiN材では、TiNと緩い結合をもつ注入Clが摩耗中に表面・深さ双方向に拡散し、表面ではTiNの酸化を促進させて、低フラッシュ温度・低酸素ポテンシャル状態にある摩耗界面内で選択的に中間酸化物相・Magneli相を創出する。これら中間酸化物相には結晶学的にせん断変形を許容するため、そのすべり変形により摩擦応力は低減し、低摩耗状態も実現する。この自己潤滑機構は、TiN中の連続的なClの表面拡散が継続することで、TiN膜の摩耗寿命期間中、成立すると考えられる。

 4)摩耗機構マップ上での実用性試験においても、この自己潤滑機構は高面圧・高すべり速度領域でも成立し、Magneli相の破壊限界以下の面圧であれば、接触界面は緩やかな酸化摩耗状態となり、面圧・すべり速度にほとんど依存しない形で、低摩耗・低摩擦状態が創出される。

審査要旨 要旨を表示する

 窒化チタン(TiN)に代表されるセラミックコーティングは、塑性加工用金型・切削工具など多くの分野でそれらの保護皮膜として活用されている。ダイヤモンド・ライク・カーボンなどと比較して、熱伝導性・弾性特性など保護皮膜として同等の高特性を有している特徴もあるが、耐熱性および耐摩耗性において大きく劣っている。これまでの研究では、複合化・固溶化・置換化などの手法で使用温度の高温化、摩耗特性の向上をはかってきた。本研究では、アルミニウム・塩素に代表される軽元素イオンをTiNに注入し、その耐熱性・耐摩耗性に与える影響を詳細に調査し、4.5x1017Al/cm2の注入量で、Al未注入のTiNコーティングの酸化開始温度を200K以上も上昇させること、1.0x1017Cl/cm2の注入量で比較的広い摩擦摩耗条件において、Cl未注入TiNの摩擦係数を約1/10に、摩耗体積を2桁程度低減させることに成功した。さらに、機器分析手段を駆使することで、Al注入TiNでは、注入Alの表面拡散と表面からの酸素拡散により選択的に緻密なα-Al2O3相が生成されることで耐熱性が向上することを明らかにした。Cl注入TiNでは、注入Clが低温酸化を促進することで塑性変形能をもつMagneli相TiO2・xが摩耗界面にその場生成されるために、低摩耗・低摩擦係数が実現することを示している。本論文は、8章からなる。

 第1章は序論であり、種々の表面処理・表面改質プロセスに関するサーベイを行い、特にイオン注入プロセスに関して、そのプロセス上の特徴をまとめている。さらに研究対象としているTiNに関しても、その基本的な構造・特性などについて検討している。

 第2,3章はAl注入によるTiNの自己保護化による耐熱性向上について言及している。第2章では、サンプル作製・Al注入条件の記述に加え、Al注入前後の組織構造解析を詳細に行い、Al照射量による生成相の相違を見出している。さらにTGA、XRDにより酸化実験・相分析を行い、Al注入量に伴い耐酸化性が向上し、4.5x1017Al/cm2において酸化開始温度が200K以上も上昇するとともに、活性化エネルギーも未注入TiNのそれの2-2.5倍に増大することを報告している。第3章はSHM、TEM、XPS、SAEDによる詳細な機器分析による自己保護メカニズムの調査、検討である。Al注入により創製した(Ti,Al)N、AlNからの分離Alおよび注入金属Alが表面に向かって粒界拡散するとともに、表面から拡散する酸素と反応して選択的に緻密なα-Al2O3膜を形成し、これがさらなる酸素浸入を抑制するために、耐熱性が大幅に向上することを明らかにしている。

 第4、5、6、7章はCl注入によるTiNの自己潤滑化による耐摩耗性向上について検討している。第4章はCl注入による組織構造変化ならびに摩擦摩耗試験によるCl注入効果に関する調査である。TiN構造ならびにTiN表面はCl注入によりほとんど変化なく、注入されたClは、照射の物理的効果により増加した転位芯に捕獲された形でTiN内部に存在していることを確認している。Ar注入では全く効果がないことに比して、Cl注入では摩耗体積が2桁近く低下し、摩擦係数は1.0-1.4から0.2以下まで大幅に低下することを見出している。第5章では、摩耗界面ならびに摩耗粉の詳細な解析から摩耗中に進行する酸化反応について調査、考察している。未注入TiNとの比較により、Cl注入TiNでは凝着摩耗は発生せず、Abrasive摩耗による表面酸化反応が進行し、TiO2よりも高い収率で、その中間酸化物であるMagneli相が生成していることを見出した。Magneli相はその特異な構造からせん断すべり変形が許容されることが推定される。実際、詳細なHRTEM分析より双晶変形がこの相で部分的に生じていることを明らかにし、摩耗プロセス中に生成したMagneli相が固体潤滑膜として機能する自己潤滑メカニズムを提唱している。第6章は、すべり速度・面圧を広範囲に変化させた摩耗実験により自己潤滑メカニズムの成立範囲を調査し、Cl注入により表面粗さの抑制され、発生摩耗粉量もきわめて少ないことを確認し、従前の摩耗形態データから、自己潤滑機構は、固体潤滑あるいは境界潤滑領域に相当する低摩耗・低摩擦状態を実現できることを明らかにしている。第7章は、自己潤滑メカニズムに与える注入Clの影響に関する調査、考察である。低温酸化実験、詳細なXPS分析より、注入Clにより、摩擦界面という低酸素分圧・低温度環境においても酸化反応が進行し、Magneli相に代表される中間酸化物が形成されることを実証している。

 第8章は総括である。

 要するに、本研究は、塑性加工金型・切削工具などにおいて保護皮膜として実用に供しているTiNコーティング膜の耐熱性・耐摩耗性をAl・Cl注入により大幅に向上できることを示すとともに、その自己保護・自己潤滑メカニズムに関して材料科学的な考察、検討を加え、軽元素注入によるTiNの自己保護・自己潤滑プロセスを明らかにしており、材料工学ならびに材料科学上の貢献が著しい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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