学位論文要旨



No 117643
著者(漢字) 椎野,俊之
著者(英字)
著者(カナ) シイノ,トシユキ
標題(和) 超流動3He自由表面下に束縛されたイオンの研究
標題(洋)
報告番号 117643
報告番号 甲17643
学位授与日 2002.10.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4256号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 岡本,徹
 東京大学 教授 石本,英彦
 東京大学 助教授 久保田,実
 東京大学 助教授 松田,祐司
 東京大学 助教授 小形,正男
内容要旨 要旨を表示する

 1はじめに

 超流動3Heは異方的なP波クーパー対をもつため壁などの境界があると対破壊が起こり、境界近傍の性質は液体内部とは大きく異なっていると考えられる。特に、超流動3Heの自由表面は不純物がなくP波超流体の理想的な境界になっており、多彩な境界効果が起きると予想される。この境界効果としてはオーダーパラメータの異方的な空間変化やアンドレーエフ反射、さらにアンドレーエフ束縛状態などがあり興味深い。

 しかし、これまでに自由表面を調べる研究はほとんど行われていない。これは、液体3Heが電気的に中性であり、なおかつ超低温で実験を行う必要があることから、適切な研究手段を確立できなかったためと考えられる。そこで、本研究では自由表面下に形成されるイオンの古典的な準二次元系をプローブとして用い、自由表面の物性解明を目指した。

 液体3He中には正、負の電荷を持つ二種類のイオンが存在する。正イオンは、He2+イオンのまわりに3He原子が凝固した固体球になっていると理解されている。負イオンは空洞の中に電子が束縛されたものである。これらのイオンは、表面からの鏡像力と外部からかけられる電場により、表面下の深さが超流動3Heのコヒーレンス長程度の位置に東縛される。このことから、表面下に束縛されたイオンが自由表面の研究のための有効なプローブになるのではないかと期待される。バルクな液体中のイオンの輸送現象はよく調べられていて、これと表面下に束縛されたイオンの輸送現象を比較することによって境界効果を明らかにできると予想される。本研究では常流動、超流動2He自由表面下にイオンを束縛し、その移動度測定を行った。

 2実験方法

 移動度測定に用いたサンプルセルの摸式図を図1に示す。コルビノ電極は二枚の同心円盤から成り、イオンを駆動したり、その応答を観測するための電極である。下側電極は、イオンを表面方向に押しつける電場をかけるためのものである。この電極にはグリットがあり、その下にイオンを生成するためのタングステンティップがセットされている。コルビノ電極の同心円上に表面下のイオンが外側に逃げないようにバイアス電圧をかけるガードリングを用意した。

 表面下にイオンを生成するには、まず自由表面がコルビノ電極と下側電極の間に位置するように液体3Heの導入を行った。次に、正イオンの場合700〜900V、負イオンの場合-200〜-300V程度の電圧をタングステンティップにかけると、イオンが放出し表面下に束縛される。

 液体3Heの超低温までの冷却は希釈冷凍機と核断熱消磁法を用い、核ステージに取り付けられている炭素抵抗温度計、3He融解圧温度計およびPt-NMR温度計を用いて温度計測を行った。

 金属の壁と液体3Heの間にはカピッツア抵抗と呼ばれる熱抵抗があり、低温ではこの熱抵抗が非常に大きくなる。このためサンプル液体への熱流入により、サンプル液体が核ステージの温度からういてしまう状況が起こりうる。そこで、銀の微粒子から成る30m2程度の表面積をもつ熱交換器を製作した。

 束縛されたイオンの移動度測定は、イオンとコルビノ電極との容量結合を利用して行う。コルビノ内側電極にかかる入力電圧と、イオンの応答により外側電極に流れた出力電流I(t)を時間の関数として図2に示す。

 表面下に正イオンが束縛されているとき、コルビノ内側電極に-2Vかかると、正イオンが内側電極の下の領域にひきつけられるため、内側電極の下と外側電極の下の領域でイオン密度に差が生じる。この状態からt=0で内側電極を0Vとすると、コルビノ電極の下側の領域全体が一様なイオン密度になるようにイオンが運動する。この結果、動径方向に電流が流れ、容量結合を介してコルビノ外側電極に変位電流が流れ込む。この変位電流は、イオンの受ける抵抗Rとイオンとコルビノ電極とが形成する容量Cで決まる時定数CRで指数関数的に減衰する。容量Cは温度変化せずセルの形状だけで決まるため、時定数CRの温度変化から移動度μ∝1/Rの温度依存性を知ることができる。

 3結果及び考察

 常流動3He自由表面下のイオン常流動3He表面下の正イオン、負イオンの移動度を図3に示す。正イオンの移動度は、約300mKから温度が下がるに従い増加し、約40mKより低温ではほぼlog(1/T)に比例して増加する。負イオンに対しては、温度が下がるに従い緩やかに減少して、約20mKより低温では温度依存性を失い一定になる。

 正イオンの方が負イオンより移動度が大きいのは、正イオンの方が負イオンに比べて軽い有効質量を持つためとして定性的には理解できる。本研究の測定温度領域において負イオンの移動度はほぼ一定であるのに対して、正イオンの移動度は温度の降下とともに増加する。これは、正イオンの方が有効質量が軽いために3He準粒子との衝突の際に受ける反跳効果が重要になるためと考えられる。このような正、負イオンの移動度の温度依存性は、バルクな液体中にあるイオンとよく一致した。

 超流動3He自由表面下のイオンゼロ磁場、飽和蒸気圧下で超流動3He-B相が出現する超流動転移点Tcより低温では、正、負イオンの移動度が急激に増加した。超流動転移点Tcでの移動度μcで規格化したμ/μcを、Tcで規格化した温度の逆数Tc/Tの関数として示したのが図4である。

 常流動状態では、正イオンに比べると負イオンの移動度の温度依存性は緩やかであった。超流動状態では、移動度の絶対値は正イオンの方が約一桁大きいが、変化の割合は負イオンの方が大きいことが図4から分かる。この振る舞いはバルクな超流動3He中のイオンと一致する。

 図4中の実線は液体内部からバリスティックに飛来する準粒子の数に比例するフェルミ因子(逆数)である。正イオンの規格化した移動度はTcから0.5Tcまではフェルミ因子とだいたい一致しているので、正イオンの運動はバルクから飛来する3He準粒子との衝突によって決まると考えられる。0.5Tcより低温ではμ/μcの温度依存性が緩やかになりフェルミ因子からずれる。

 図4中の点線はバルクな超流動3He中の負イオンの規格化した移動度である。このデータは圧力29.3barで得られたものである。この結果と表面下に束縛された負イオンのμ/μcとを比較すると、Tcから0.5Tcまではバルクな液体中の負イオンのμ/μcとよく一致するのでバルク液体中の3He準粒子との相互作用により表面下に束縛された負イオンの移動度が決まると考えられる。しかしながら、より低温では移動度の温度依存性が緩やかになり正イオンと同様にバルクな液体中の負イオンの振る舞いからずれる。バルクの値からずれ始める温度が正イオンとほぼ同じであるから、正イオンと同様の原因で温度依存性が緩やかになっていると考えられる。

 このように移動度の増加が緩やかになるのは、バルクから飛来する3He準粒子以外の散乱の原因があることを示唆している。その可能性として、表面を伝播する表面張力波の量子リプロンと表面に形成されるアンドレーエフ束縛状態がある。

 これまでに、超流動3He自由表面でリプロンの観測はなされていないが、リプロンからの散乱の寄与を見積もるとずれに対して10-8程度と非常に僅かな寄与しかなく低温での温度依存性を説明できない。

 アンドレーエフ束縛状態の波動関数は、絶対零度において3000A程度で減衰する包絡関数とフェルミ波長で振動する関数の積で書き表される。イオンの束縛されている深さは-300Aであり、アンドレーエフ束縛状態の波動関数と重なっている。このため、アンドレーエフ束縛状態とイオンとの相互作用により、イオンの運動に対する抵抗が存在すると考えられる。簡単な見積もりから、アンドレーエフ束縛状態からの移動度に対する寄与は1/μAB〜T2と予想される。実験値からバルクの寄与を差し引いて求めた1/μABは予想と異なり、むしろ温度の低下とともに増大する振る舞いを示している。

 超低温において測定値の温度依存性が緩やかになる原因として、サンプル液体と壁に温度差がついている可能性もあり、この点を改善することは今後の課題である。

 4まとめ

 本研究では、はじめて液体3He自由表面下にイオンを束縛して、その移動度を測定することに成功した。

 常流動3He自由表面下のイオンの移動度は、バルクな液体中の正、負イオンの移動度とほぼ一致した。表面下のイオンは古典的な二次元系であるのでウィグナー結晶を組んでいると考えられるが、予想された転移点で移動度の振る舞いに異常は見出せなかった。これはイオンの有効質量やリプロンとの相互作用を考えれば理解することができる。

 超流動状態において負イオンの移動度は、転移点からT〜0.5Tcまではバルクな液体中の負イオンの移動度とよく一致した。一方、正イオンはフェルミ因子の温度依存性とおおよそ一致した。これらのことから、0.5Tcより高温側では液体内部からバリスティックにやってくる3He準粒子とイオンとの相互作用により、自由表面近傍にあるイオンの移動度が決まることが明らかになった。

 0.5Tcより低温側ではバルク液体中のイオンの振る舞いよりも緩やかな温度依存性が観測された。このことは、余剰な散乱があることを示唆している。余剰な散乱はリプロンとの相互作用では説明できない。アンドレーエフ束縛状態の影響について考察した結果、余剰な散乱が低温で増大するという逆の傾向を示すことが分かった。したがって、この研究からは余剰な散乱の原因について断定することはできなかった。緩やかな温度依存性の原因としてサンプル液体の温度が核ステージの温度からういてしまっていることも考えられ、液体とセルの熱接触を改善した追試が望まれる。さらに、アンドレーエフ束縛状態との相互作用について定量的な計算との比較も必要である。

図1:サンプルセルの模式図。

図2:コルビノ内側電極にかかる矩形の入力電圧と外側電極からの出力電流I(t)。

図3:常流動状態における正、負イオンの移動度の温度依存性。

図4:規格化した移動度の温度依存性。

審査要旨 要旨を表示する

 3He原子はスピン1/2をもつフェルミ粒子である。飽和蒸気圧下の液体3Heは、量子効果により超低温下においても固化することなく、Tc=0.9mKにおいて超流動状態に相転移する。狭義のBCS超伝導体と異なり、超流動3Heにおいてはp波三重項のクーパー対が形成されるため、多彩な内部自由度を持つ。そして、そのクリーンな自由表面近傍においては、オーダーパラメーターの異方的な空間変化、アンドレーエフ反射、さらにはアンドレーエフ束縛状態などの豊富な物理が期待される。本論文では、自由表面近傍における超流動3Heの物性に対する知見を得ることを主な目的として、表面下に束縛された正イオンまたは負イオンをプローブとして用い、移動度測定を行った。

 本論文は4章からなる。1章はイントロダクションであり本研究の背景や目的が記されている。2章ではバルク液体3He中のイオンの移動度に対して、これまで行われた実験や理論計算が紹介されている。

 3章は、実験装置・方法についての記述である。実験は、核断熱消磁冷凍機に装着された試料セルを用いて行われた。液体3Heは、細管を通じて試料セル内に導入され、焼結銀の熱交換器を通して冷却された。正イオンまたは負イオンは、液体3He中におかれたタングステンチップに高電圧をかけることによって生成され、液体表面に垂直にかけられた電場と表面での鏡像ポテンシャルによって表面直下320nmの深さに束縛された。正イオンと負イオンの半径は、それぞれ6A、21A、また有効質量は、それぞれ3He原子の30倍、300倍と見積もられる。イオンの移動度は、液体表面直上におかれたコルビノ電極との容量結合を通して測定された。この試料セルの作製は、論文提出者が独力で行った。液体3He上のイオンの非常に小さな伝導率を正確に測定するために多くの回路上の工夫も行われた。

 4章に実験結果と考察が記されている。常流動3He表面下の正イオンに対する測定では、500mKから1mKにわたる温度低下に伴い、温度の対数に比例する移動度の増加が観測された。バルク液体3He中の正イオンの場合と同様に、準粒子の衝突による正イオンの反跳の効果として理解することができる。また、負イオンに対する測定では、液体3Heの粘性の温度変化を反映して移動度は温度の低下とともに減少し、10mK以下で一定値を示した。正および負イオンに対する結果は、他のグループにより観測されたバルク液体3He中のイオンの移動度に対する測定結果と、実験上の問題などを考慮に入れると、ほぼ一致している。これより、常流動3He表面下のイオンの移動度は、液体内部から飛来する3He準粒子とイオンとの衝突によって決まることがわかった。

 超流動3He表面下の正イオンおよび負イオンに対する測定では、準粒子密度の増減を反映した急激な移動度の温度依存性が観測された。表面近傍ではオーダーパラメーターがバルクの値から大きく変化しているにもかかわらず、少なくとも0.5Tcより高温での結果は、バルク超流動3Heに対する実験結果および理論計算と良く一致した。この温度領域での移動度は、液体内部からやってくる3He準粒子による散乱によって決まると解釈された。また、0.5Tc以下では、移動度の温度依存性は飽和傾向を示し、バルク超流動3Heにおける値よりも低くなった。熱流入により試料と温度計との間に温度差が生じたことに、よる可能性も否定できないが、表面でのアンドレーエフ束縛状態の形成による解釈も可能である。さらに、正イオンの測定では、イオンのドリフト速度がランダウの臨界速度を越えて対破壊が引き起こされることによる非線形効果が観測された。

 以上、本論文では、液体3Heの自由表面下に束縛された正イオンおよび負イオンの移動度の温度依存性を常流動相から超流動相にわたる広い温度範囲において実験的に研究した。実験結果は、これまでバルク液体3He中のイオンに対して得られていた結果とほぼ一致し、表面固有の現象の確証は得られなかった。しかし、液体3He表面下におけるイオンの移動度測定は、本論文の研究が初めてであり、本論文提出者は実験上のさまざまな困難を克服して測定を遂行した。本論文が、今後の研究の貴重なステップとなることが十分に期待される。

 また、本論文は、河野公俊氏、椋田秀和氏、W.F.Vinen氏との共同研究であり、共著の形で一部すでに公表されているが、論文提出者が主体となって試料セルの設計・製作および物性測定の遂行、実験結果の解析・考察を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、審査委員全員一致で、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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