No | 117646 | |
著者(漢字) | ワイラートサック,ネーナパー | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | ワイラートサック,ネーナパー | |
標題(和) | タイにおける経営管理職者の人材形成 : 日本を基準に考察 | |
標題(洋) | Career Formation of Managers in Thailand : A Japanese Benchmark Perspective | |
報告番号 | 117646 | |
報告番号 | 甲17646 | |
学位授与日 | 2002.10.23 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(経済学) | |
学位記番号 | 博経第158号 | |
研究科 | 経済学研究科 | |
専攻 | 現代経済専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 本論分は以下の5章で構成される。 第1章Introduction 第2章Literature Review 第3章Top Executive Career 第4章Career Formation of Managers in Thailand 弟5章Conclusions and Implications 第1章Introduction この章では、本論文の問題意識、目的、研究対象、そして仮説を紹介する。 タイにおいては大企業の成長と共に、かつてのファミリー経営管理職者の枠を越えた、いわゆる「専門経営管理職者」の必要性が強調され、経済成長期に起こった人材の「引き抜き問題」を背景に、その養成が重要とされてきている。又、経済成長期に専門経営管理職者が増えつつあった事や彼らによる貢献度が大きかった事が確かである。その後、タイは通貨危機を契機として、大企業の倒産や不祥事、不良債権の問題等といった状況に見舞われている。その中で大企業の経営管理職者層はその構成と質的な面の両方が問われており、様々な改革が実施されている。 本論文は、そうした状況の中、二つの問題意識に焦点を絞って分析を試みるものである。第一はタイの大企業が経営管理職者(Senior managers or executives)の「人材不足」に対して、どれほど「内部養成」を重視しているのかという点。第二は、国内外の経済社会変化に対応して、量だけでなく、「質のある」経営管理者の確保、定着、そして内部養成を図るためにはどのような「採用政策」、「選抜政策」や「養成政策」、とりわけ「人材形成活動」をとっているのか、それらの内容や仕組みを比較分析、評価する。研究を進めるにあたっては、大企業のキャッチアップ型成長と経営管理職者養成で成功を収めた後発国としての側面と、バブル崩壊後タイと似たように企業が困難な環境に置かれているという側面等から日本を基準(benchmark)とした上で、後々発国のタイの特徴を浮き彫りにすることとする。 第2章Literature Review この章では日本や米国などにおける経営管理職者に関する従来の研究を紹介し、その中で、特に「企業内労働市場論」及び「人的資本理論」に焦点を当てる。又、企業内人材形成制度に関しては日本や米国における個別企業を対象とした比較研究を参考にし、「早い昇進モデルfast track model」と「遅い昇進モデル late selection model」という二極モデルをタイプ化する。次に、タイにおける経営管理職者に関する従来の研究を紹介し、従来の研究より明確になった事、さらにそれら研究の「欠点」や「問題点」についても掘り出し、本論文の検討課題と仮説を設定する。その中で、いわゆる日本的人材形成のタイヘの移転可能仮説についても多少触れる。 第3章Top Executive Career この章はタイと日本における経営管理職者の「キャリアの実態」及び「人的資本」の実証研究である。先ずは、「内部昇進経営管理職者」(the internally promoted executives:IPEs)の存在を確かめることから始める。大企業の代表である上場企業を対象に証券取引所に公表されたデータを利用した。これにより、上場企業のデータベース(日本は計520社、タイは計323社)と各企業の経営管理職者のデータベース(日本は計8,905人、タイは計4,190人)を作成した。 その結果として、日本企業では終身雇用制度が崩壊すると言われつつあるにもかかわらず、経営者の殆どが内部昇進経営者で、特に所謂「生え抜き」が主流であることに変わりがないことが分かった(81.7%)(Table3-1)。 一方、タイの大企業においては、通説の通り、ファミリー経営者が支配的であるが、外部から採用された専門経営者も多く存在している。反面、経営執行委員会については(ファミリー経営者や大株主経営者以外の)専門経営者が多い(82.4%)(Table3-3)事が分かった。その専門経営者の中では特に内部昇進経営者がかなりの比率(経営執行委員会の34.4%)(Table3-3)で占めているが、その比率が予想より多かった事に新たな発見である。 又、どういった企業に内部昇進経営者が存在するのかという事については、「企業内労働市場理論」に基づき、企業のサイズ、創業年数、所有形態、業界、経営管理職者の数などを説明要因とし、内部昇進経営者比率との因果関係を分析している。この際、重回帰分析の手法を利用した。 その結果として、日本の上場企業においては、内部昇進者比率と企業サイズとの関係は見出されないが、歴史のある企業や分散型企業とは肯定的な関係を持つ事が分かった。しかし、他の所有パターンの企業とはマイナスの関係がある。これにより、日本の「経営者企業」と「内部昇進経営者」が緊密な関係にある事を再確認できた。Table3-13に総合結果を示す。 一方、タイの上場企業においては、規模の大きい企業ほど、又、創業年数の長い企業ほど、内部昇進経営者の比率が高いという事が明確となった。さらに、内部昇進経営者比率は、外資系企業や分散型企業においては、マイナス関係であり、ファミリー企業とも関係が現れていない。これらの企業は内部昇進経営者よりも遥かに大株主経営者(大株主が経営者となる)が支配的であろう。 さらに、「人的資本理論」に基づき、専門経営管理職者の教育・仕事経験効果と、企業内昇進可能性との因果関係を見出すこととした。経営者の年齢、性別、教育レベル、大学名、卒業国、前の仕事経験などを調べた。現在、タイの専門経営者の学歴が高くなっている傾向が見られる他、「職種志向型キャリア(occupational-specific skills)を形成する傾向が強い事も確認できた。 第4章Career Formation of Managers in Thailand この章はタイの大企業内において経営管理職者の採用、賃金、選抜・昇進、ジョブ・ローテーション、や教育訓練が実態としてどのように行われているかを明らかにするものである。そのために、タイの4つの大企業を対象に聞取り調査を行った。Petroleum Authority of Thailand PLC.(タイ国石油公社)(PTT),Siam Cement PLC.(サイヤムセメント社)(SCC),Advanced Info Service PLC.(アッドバンス・インフォサービス社)(AIS)、Toyota Motor Thailand Co.,Ltd.(トヨタ自動車タイランド社)(TMT)である。4社それぞれ特徴があるが、いずれも優良企業であり、専門経営管理職者により経営されている会社との評価がある。 又、選抜・昇進の実態を明らかにするために、各企業の現在の経営管理職者プロファイル(属性や昇進経歴)を用いて、「キャリア・ツリー」というモデルにより、実証分析に取り組むこととした。第2章で紹介した二極モデルとの対比から導かれるタイ大企業の特徴とその背景を議論する。 採用管理 調査した全社においては現在、採用者の内、新卒者(並びに若い転職者)の比率が大きくなる傾向あり、いわば外部より内部化方向に進んでいる事が確認できた。ただし、人材不足感の強い職種においてのみ、多様な人材補充方法をとっている。さらに、経営管理職者の「ジョブ・ホッピング問題」については、特に中小企業や外資系企業でよく発生していると思われていたが、今回の調査対象企業の全社において、「コア・スタッフ」の定着率は高く、流動性は低かった。 内部化を促進する理由には(1)外部の人材を採用するコスト・リスクを削減したい、(2)適格な外部の人材が不足していること、(3)ある程度人材プールが内部に築き上げられたこと、そして(4)企業が大きくなり、企業特殊情報を蓄積するため企業内で人材養成する必要があること等が挙げられる。 選抜・昇進筍理 従来の研究はタイ大企業の昇進管理が、「学歴別階層構造」の下で行われているということに留まっている。 本調査では、経営管理者にとって最終学歴における大卒また大学院卒という要素が昇進のための要件となっている点を確認することができた。また、大卒と大卒以下という最終学歴区分を超えて、「大学院卒」や「留学」の比率が高まりつつある事がさらに分かった。タイ大企業の選抜・昇進の「学歴依存度」は大学院レベルまで展開しつつあるといえる。 さらに、最終学歴レベルだけではなく、同じ大卒でもさらに「卒業学科」により区分される。特に人材が不足している分野のエンジニアやコンピュータ関連などの人材が特別な待遇を受けている。これは特定分野の人材不足が問題であると言えよう。 調査した全社において、上記のような資格構造(入社条件つまり学歴・学科や職能資格段階の数)は概ね変わっていない。これはタイにおいて教育制度に変化が無かった事を示している。しかし、この先は大卒者の増加に伴い、資格構造にも変化が生じてくる事が予想される。 次に、調査した全社においては、早い段階での「選別」を行っている事が分かった。これは要するに有用な人材を定着させる目的、経営管理職者の人材を短い期間で養成するという目的、そして教育訓練にかかる投資を絞り込むという3の目的がある。早い選別はfast track modelに類似しているが、一方では、選抜は比較的後の方で行うという、つまり敗者復活戦(return match)が明確に存在する(特にSCCとAIS)。従業員のモチベーション維持や職務と人材のミスマッチのリスクに対して、補充の人材を育成しておくという意味合いももっと考えられる。 人事考課は調査した全社でかなり一般化しており、直接の上司が行っているトイウトップダウンプロセスが主流である。また、昇進決定の際に公平性、いわゆるバイアス回避を図るためにpanel committeeによって選抜が実施されている。 教育訓練 従来の調査結果によると、タイ企業では社外機関の活用が重視され、社外セミナーに対する依存度が高く、社内研修・OJTの比重が低いとされていた。 本研究の事例では、決してOJTが軽視されているのではない事が分かった。反面、近代化・国際化を志向するタイにおいては経営管理職者の教育制度を制度化・洗練化しようとしている事も明らかになった。これには海外経験、海外・企業内ビジネススクール、奨学金などといった体系的なOff-JTが挙げられる。 ジョブ・ローテーションについては下級職より、上級経営管理職でよくみられるが、その度合いはまだ小さい。また、キャリアの幅についても、比較的単一職能型(Single functional area)又は職種特殊型(occupational-specific)である事が分かった。つまり、特定の職務における技能や経験に特化したスペシャリストを養成ずるという方法である。この方法を行っている理由には、人材不足をはじめ、技術の陳腐化の予防、養成コストの節約が挙げられる。さらに、比較的流動的なタイ労働市場の中で、人材代替のフレキシビリティーの確保や、優秀な人材の定着を図りながら、限られた人材を最大限に活用したいという「職種型企業内労働市場(occupational internal labor market)」構想が形成されたといえよう。 弟5章Conclusions and Implications この章は研究結果のまとめと今後なすべき研究を提唱する。 本論文で4社の事例を取り上げ、以上の結果を要約したのがTable5-1とTable5-2である。4社についての調査結果はタイ大企業の経営管理職者人材形成の状況を反映するものの一部である。今後もその全体像をさらに掘り下げて描くためには、一層、理論的・実証的分析の必要性が高まっていくものと考えられる。特に、ファミリー財閥企業や外資系企業を含む多くの事例を取り上げた実証研究がさらに必要とされる。 | |
審査要旨 | 本論文はタイにおける上場企業の悉皆調査と代表的な大企業4社の事例研究を通じて、大企業における経営管理職層の実態と特性、そして企業が彼らをどのように養成してきたのかを、日本の経験を引照基準としながら明らかにしたものである。 タイでは1960年代の工業化以降、民間企業の数と役割が急速に増大し、80年代後半から始まる経済ブームのなかで、専門経営者の不足問題が浮上した。さらに1997年の通貨・金融危機の勃発を契機に、タイ企業の経営管理職層の質と能力が問われ、あるいは有能な経営管理職層をどのようにリクルートもしくは養成するのかという点が、重要な課題として登場してきた。こうした事実認識を背景にして、著者は、(1)大企業の経営を管理しているのははたして誰か、(2)企業内昇進の経営管理職層はどのような企業において支配的か、(3)大企業はどのようにして有能な社員をリクルートし、かつ彼らの能力を開発してきたのか、という3つの問題を設定し、これに対して実証的な検討を加えていく。 一方、著者によると、タイにおける企業の経営と経営管理職層については、いくつかの「通説」が存在する。まずタイでは創業者一族が所有と経営を支配する企業が多く、経営陣の大半は創業者のメンバーか、さもなければ「すでに出来合い」の経営者や有力な軍人・官僚を外から招聘してきたというものである。また、企業の採用と企業内の昇進システムについて言えば、国営企業では公務員と同様の「縁故採用」と「年功主義」が支配的であり、優良民間大企業においても、人的コネクションに頼った採用や有能な若年者の「一本釣り」(sponsored system)がよく見られるという認識であったと、著者はみなす。 もっとも最近の研究では、経済ブーム期の急速な事業の拡大にともなって、専門経営者の登用や経営管理職層の内部化、さらには彼らを養成するための厳格な人事査定制度の導入やOff-JTを含めた人材開発計画を策定する企業もでてきているという指摘がなされている。しかしこうした研究は、いずれもごく限られた事例にもとづく記述的な研究か、さもなければ一般的な印象にもとづいており、大量観察にもとづく統計的な把握や、詳細な事例研究にもとづく実証的検討に欠けているし、同時に理論的枠組みも明示されていないと、著者は批判する。 そこで著者は、こうした既存の研究の限界を克服するために、欧米諸国や日本で発展をみた「内部労働市場論」、「選抜と昇進」に関する議論を援用しつつ、一方では大量観察にもとづいて、2000年現在のタイ上場企業の経営管理職層(323社)の実態と特性を明らかにし、他方では4つの大企業の詳細な事例研究を通じて、(1)社員の採用、(2)選抜と昇進(縦のキャリア形成と横のキャリア形成)、(3)訓練と人材開発の仕組みの3つについて、主として日本と比較しつつ、おのおの特徴を明らかにした。本論文は、海外はもとより、タイにおいてもほぼ未開拓の分野に初めて鍬を入れたパイオニア的研究であると同時に、次の2点で重要な貢献をなしたものと評価できる。 第一は、上場企業の大量観察を通して、少なくとも経営執行委員会レベルでは、全体の4割以上がすでに内部昇進者(ルークモーと呼ばれる「生え抜き組」と、中途採用者でかつその後企業内で育成されたグループの合計)によって占められている事実を、まさに「発見」した点である。これは従来の常識や通説をくつがえす重要な発見であり、今後のこの分野での研究のデータ的出発点になると考える。 第二は、詳細な事例研究を通じて、少なくともタイの優良大企業のあいだでは、「年功主義」や「パトロン・クライアント関係」(庇護・被庇護関係)ではなく、「速い昇進」とリターンマッチを組み合わせた競争主義的な「選抜と昇進」の仕組みがすでに定着しており、同時にこの仕組みを支えるために、かなり厳格な人事査定や、OJTとOff-JTを組み合わせた独自の人材開発計画が制度化されているという事実を実証した点である。これも通説をくつがえす発見であり、同時に最近の研究が着目している「経営管理職層の内部化」という議論に実証的な根拠を与える重要な貢献とみなすことができる。 以上の2点の検討を通して、著者はタイの大企業にも「内部労働市場論」の適用が可能なこと、ただし、日本のように「企業特殊的スキル形成」(firm-specific skill formation)ではなく、タイではより「職種に密着したスキル形成」(occupation-specific skill formation)を重視していることを指摘する。その上で、通貨・金融危機に直面したタイの大企業の今後の展開について展望する。以上が、本論文の主な貢献と議論の流れである。以下、簡単に本論文の各章ごとの要点を整理、紹介しておこう。 第2章は、本論文の理論的枠組みの検討と日本、アメリカ、タイでの関連分野の先行研究のサーヴェイにあてられている。著者は日本における経営管理職層を含む経営体制の研究には6つのアプローチがあるが、そのうち本研究にもっとも有用な議論は「内部労働市場論」だと主張する。そして、この内部労働市場論=内部昇進者による経営体制は、終身雇用制を暗黙の了解事項としてきた日本だけではなく、外部経営者が支配的とみられてきたアメリカにおいてもかなりの程度定着している事実を紹介する。そして、この内部昇進者による経営体制は、企業特殊的スキル形成の必要性、良好な人間関係、モティベーションの与え方などの点から合理性を有しており、日米両国だけでなく、発展途上国の企業にも適用可能な議論であることを指摘する。 以上を前提に、著者はまずキャリア形成の類型として、職種別労働市場(OLMs)、職種別内部労働市場(OILMs)、企業内部労働市場(FILMs)の3つを摘出し、「選抜と昇進」の代表的な仕組みとして、アメリカにみられる「速い昇進(Fast Track Model)」と、日本にみられる「遅い選抜・昇進(Late Selection Model)」を取り上げる。また、訓練と人材開発システムとしては、大学や民間機関での企業外での教育・訓練(Off-JT)を重視するアメリカと、企業内、現場での継続的な教育・訓練(OJT)を重視する日本の2つのパターンを紹介する。そして、アメリカ型は短期間に利用可能な人的資源の能力を最大限に活用する面でメリットがあるが、社員のモティベーションが下がるというデメリットがあること、逆に日本型は外部環境の変化に迅速かつフレキシブルに対応できるメリット(幅の広い専門性など)を持つが、若い層の創意工夫を抑制するデメリットもあるという指摘を行なう。 最後に、タイの経営体制についてこれまでなされてきた先行研究をサーヴェイし、所有と経営の特徴や事業の発展パターンに注目してきた財閥やファミリービジネスに関する研究や、経営管理職層に関する最近の研究は、専門経営者や内部昇進者の存在に注目しつつも、大量観察にもとづく体系的かつ実証的な研究に欠けていると、著者は批判する。内部労働市場論をめぐる著者のサーヴェイは広範であり、整理も行き届いている、また、タイに関する先行研究も、タイ語、英語、日本語の文献を幅広く渉猟しており、有用である。 第3章は、第2章を受けて、著者自身による上場企業の経営管理職層に関する大量観察の結果の整理と分析にあてられている。ちなみに、タイでは通貨・金融危機のあと、証券市場改革の一環として、タイ証券取引所(SET)が「グッド・コーポレート・ガバナンス」概念にもとづく情報の開示を、上場企業のすべてに義務づけた。このうちとくに重要であったのは、役員の当該企業の株式保有状況、所有主家族との姻戚関係、最終学歴、過去10年間の経歴などについて情報の開示を求める「証券取引法第56条第1項にもとづく報告書」(いわゆる「56/1形式報告書」)、つまり「株式公開もしくは増資目論見書」(Prospectus)の提出を義務づけた点である。これによって、上場企業に限るが、タイでは初めて取締役役員や経営執行委員、役員待遇の部長以上の中間管理職の実態に迫る道が開かれた(登記所の企業データには明記されていない)。 著者は、SETが保有するこの「56/1形式報告書」(2001年3月提出分)を、当時の上場企業435社(約8000名)全部について検討し、このうちデータが利用可能な323社(4190名)についてデータベースを作成し、タイでは初めて詳細かつ大量の経営管理職層に関する個人情報を整理した。本論文の第一の貢献はまさにこの点にある。 著者の分析結果によると、会長、社長を含む取締役役員のうち内部昇進者(生え抜き組と中途採用組の合計)は6%にすぎず、多いのは創業者一族(24%)、主要株主(19%)などであった。ところが目を経営執行委員会メンバーに転じると、内部昇進者の比率は43%にも達し、創業者一族(9%)、主要株主(9%)の比率を大きく上回った。この事実から、著者はすでに経営者の「内部化」が進んでいると主張する。そしてより重要な指摘は、こうした内部昇進者の占める比率の企業間の違いは、回帰分析の結果によると、もっぱら業種の違い、企業の規模と事業年数(年齢)にもとづいており、所有形態の違いによるものではなかったという点である。換言すれば、「究極の所有主」が創業者一族であるファミリービジネスもしくは家族所有型企業においても、内部昇進者の比率は一定の高さを示していることを明らかにしたのである。この点はきわめて重要かつ興味深い指摘である。 次いで、日本の『役員四季報上場企業版2001年』から整理した520社(8905名)の個人データと照らし合わせつつ、著者は、経営管理職層の平均年齢が日本(55-59歳)に比べてタイ(50-55歳)は5歳以上も若いこと、性差でみると女性の占める比率は、日本(0.25%)に比べてタイ(17%)はきわめて高いこと、最終学歴別にみると、大卒以上は日本(90%)のほうがタイ(79%)より高いが、修士(MBAを含む)以上でみると、日本(3%)よりタイ(44%)のほうがはるかに高いこと、しかもタイの場合、海外での学位取得が54%にも達すること、そして大学での専攻分野では日本(経済学部、法学部、工学部の順)とタイ(経営学部、工学部、会計学部の順)の間に大きな違いが見られたことなど、日本とタイのあいだの興味深い比較が、数多くなされている。 第4章は、本論文のハイライトともいうべき部分で、1998年から2001年にわたる現地での度重なる聞き取り調査と豊富な二次資料によって、タイ大企業のキャリア形成の実態が、詳細かつ生き生きと描かれている。著者は事例研究を行うにあたって、まず会社の従業員規模が3000人を超え、会社年齢が20年以上の優良大企業にターゲットを絞り、かつ所有形態の違い、業種の違い、データの豊富さを注意深く勘案して、4つの企業を選定した。具体的には、国営企業であり、石油精製・販売を行うタイ石油公団(PTT)、王室財産管理局が保有し、タイでもっとも古い製造業であるサイアムセメント社(SCC)、タイ人(正確には華人系4代目)が保有し、新規産業の花形である電気通信を担当するアドバンスト・インフォ・サービス社(AIS)、そして日本との合弁企業であり、製造業の代表をなすトヨタ・モーター・タイランド社(TMT)の4つがそれである。 著者はこの4社について、それぞれ(1)採用の仕方、(2)キャリア形成(縦のキャリア形成とジョブローテーションなどの横のキャリア形成)と「選抜・昇進」の仕組み(報酬・給与システム、人事査定制度を含む)、(3)教育訓練と人材開発計画の3つについて、具体的にその特徴を明らかにし、比較検討していく。分析の結果によると、採用については、通常の企業が新聞・リクルート誌の広告や人材紹介会社に依存しているのに対し(タイの企業には日本のような同一時期いっせい新卒採用の慣行がなく、他方、大学には就職斡旋窓口もない)、4社は直接大学と接触を試みる「キャンパス・リクルート」や、学生自身の入社希望受付を活用し、有能な新卒の人材の確保に積極的であること、また採用にあたっては、大学の銘柄、専攻分野、大学の総合平均点(4.0が満点、2.7点以上)などを重視していることを明らかにする。 次に、キャリア形成については、PTTの場合には1981年から83年入社組の113名、SCCの場合には1979年から81年入社組の128名の、それぞれの20年間にわたるキャリアツリーを作成し、昇進の速さ、年齢・勤続年数との関係について詳細な分析を行う。タイの企業のキャリアツリーについて作成し分析した研究は、本論文がおそらく最初である。また、同様のデータが入手できなかったAISについては、課長クラス(PG7-11)51名、TMTについては副部長、部長クラス(M2,M3)29名のデータを使って、それぞれ選抜と昇進の仕組みを検討している。こうしたデータの分析の結果、著者はTMTを除く3社では、競争主義にもとづく厳しい選抜がなされており、入社1年から3年目で「速い昇進」が導入され、さらにこれを補完するリターンマッチの仕組み(とくにSCC)が確立していることを明らかにした。また、いずれの企業においても昇進と年齢の間には有意の関係がなかったという、通説を覆す事実を発見している。また、TMTについても、従来言われてきた「入社年と勤続年数」重視の日系企業という議論を退け、中途採用組の比率が高いこと、一定の選抜が見られること、経営の現地化に積極的であることなどを指摘している。 日本のブルーカラーやホワイトカラーの経営管理職層育成の重要な手段である「横のキャリア形成」については、SCCが日本ときわめて近い、徹底した「ジョブローテーション」方式をとっているのに対し、他の3社は同一職種内でのローテーションにとどまっていること、ただしアメリカ式ではなく、日本で採用している「単一の、幅の広い能力の開発」により近いシステムをとっていることを明らかにする。またいずれの企業においても、人事査定は年2回なされ、項目その他も明示され、制度化されていることを指摘する。 最後に教育訓練については、TMTを除く3社が、企業内セミナーや訓練コース(OJT)を充実させ、同時に昇進の資格要件として企業内に設けられた経営管理職層養成学校や、企業外での研修システム(MBAコース)などを活用し、OJTとOff-JTを組み合わせ、人材開発に積極的に取り組んでいることを指摘する。3社と異なる制度をもつのはTMTで、同社の場合には、通常のOJTのほか、日本の本社や工場への研修派遣が重要な役割を果たしていることに注目している。 第5章は結論部分であり、本論文の要約とともに、タイ・モデルの整理とその合理性が検討され、同時に日本型経営システムの移転可能性の限界も指摘される。著者はまず、タイ大企業の経営管理職層の選抜・育成にみられる特徴として、(1)中途採用や外部からの人材登用から内部昇進への移行、(2)リターンマッチを組み合わせたトーナメント方式の存在、(3)学歴と成果を基礎とする昇進システム、(4)単線的で専職種ベースのキャリア形成(これをタイ語でacheep=career pathと呼ぶ)、(5)Off-JTをより重視していること、の5点を指摘する。そして、日本の「企業特殊的スキル形成」ではなく、「職種に密着したスキル形成」を重視するタイ企業の方法は、一方で訓練の時間とコストを節約し、他方で社員のもティベーションを維持する上では、効果的であったと結論づける。 以上のように、本論文は従来のタイの企業研究がほとんど対象としてこなかったホワイトカラー層のキャリア形成と経営管理職層の実態について、数多くの興味深い事実発見を行い、この分野のパイオニア的な研究として大きな貢献をなしたといえる。また、本論文の末尾に付録として添付されたさまざまなデータ類もきわめて有益である。ただし、いくつかの問題がないわけではない。 第一に、著者は日本にみられる「企業特殊的スキル形成」とタイにおける「職種に密着したスキル形成」を対比的に扱っているが、「企業特殊的スキル形成論」は、同一業種同一職種でありながら、企業のあいだにみられるスキル形成の差異に注目した議論であり、「企業特殊的スキル形成」であっても「職種に密着したスキル形成」の試みもありうる。つまり、両者は相互排除的な対抗概念とはいえないのではないか。むしろタイの特徴は、本人の「職種」が入社以前の大学の専攻科目に強く規定され、入社後の教育訓練もこの「職種」に即して実施されている点にあるのではないのか、という意見が出された。その脈絡で、本論文でいう「職種」(occupation)が、タイ社会でどのように使用され理解されているのか、より掘り下げた考察があれば日本との比較が生きてくるとの指摘もなされた。 第二に、事例研究は注意深い予備調査をへて、国営企業、伝統的タイ系企業、新興タイ系企業、日系企業の優良大企業4社に絞り込まれているが、その半面、創業者一族が所有と経営の双方をなお支配している華人系ファミリービジネス型の大企業と、日系企業と並んで大きな経済力を行使している欧米企業の2つが、事例研究の対象から落ちてしまっている。この両者は著者がターゲットする企業内のキャリア形成という、企業にとってはもっともセンシティブな分野について「情報開示」にきわめて消極的なグループであり、実際、著者は何度か接触したが、データの入手ができなかったと聞く。とはいえ、華人系企業と欧米企業はタイにおいて大きな存在であり、彼らが「選抜と昇進」において、どのような制度をとっているのかを比較検討することは、タイの多様な企業所有形態を考えた場合、依然重要であろう。 第三に、著者はタイの事例を検討するにあたって日本をひとつの引照基準としているが、日本に限らず多くの国の大企業のあいだでは「内部労働市場」が重要性を増すことがすでに明らかにされている。したがって問題は、「内部労働市場」の形成・発展パターンと国のあいだに見られるその違いを、どのように説明するかにある。この点、従来の議論は「文化的アプローチ」と「後発工業国モデル」の2つに分類することができるが、著者は論文のなかで、「文化的アプローチ」を意識的に避け、「内部労働市場」の形成をあくまで経済学的な合理性で説明しようとしており、その点では議論の一貫性を保つことに成功している。その一方、「後後発工業国」に所属するタイの労働市場の歴史的発展と特性については、著者の関心は薄いものになっている。日本や他の諸国との比較研究の立場をより生かすとするならば、今後は「後発工業国モデル」のアプローチを視野に取り込むことも重要ではないか、との指摘がなされた。 もっとも以上の3点のうち第2点と第3点は、著者の今後の研究に対する期待を込めた要望の意味もあり、本論文のオリジナリティや質の高さをいささかも損なうものではない。以上の審査結果から、本論文は本研究科が要求する博士論文の基準を十分に満たしているものと判断し、この審査委員会は本論文を博士(経済学)の学位を授与するにふさわしいと、全員一致で判断した。 | |
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