学位論文要旨



No 117647
著者(漢字) 青山,和佳
著者(英字)
著者(カナ) アオヤマ,ワカ
標題(和) ダバオ市におけるバジャウの都市経済適応過程 : 経済的生活水準とエスニック・アイデンティティの観点から
標題(洋)
報告番号 117647
報告番号 甲17647
学位授与日 2002.10.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第159号
研究科 経済学研究科
専攻 現代経済専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中西,徹
 東京大学 教授 中兼,和津次
 東京大学 教授 竹野内,真樹
 東京大学 教授 佐口,和郎
 東京大学 教授 柳澤,悠
内容要旨 要旨を表示する

 本研究の課題は、フィリピンのダバオ市におけるバジャウ(Badjao)を事例として、彼らの経済的な生活水準(standard of living)が向上(低下)するときに、先住民/少数民族がもつ選択の自由・権利という観点から重要な福祉(well-being)であるエスニック・アイデンティティにどのような変容が生じうるのか検討することである。この課題を追求することで、開発経済学が中心的課題としてきた「国民」(nation)の経済成長の達成という考え方に対して、その意義を認めつつ、それでは見落とされてしまう、ひとびとの暮らしぶりとその向上(低下)を分析、理解する上で重要な視角を提起したい。本稿の主要部分では一次資料を中心に議論を進める。実態調査は、1997年8月から1999年12月まで継続的に行われた。本論文は2部8章から構成され、各章の要約はつぎの通りである。

 第1章では、本研究の基本的性格と分析の枠組みを提示した。はじめに、先住民の市場参加過程に関する先行研究の批判的検討を通じて、生活水準/福祉を考える上でなぜエスニック・アイデンティティが重要であるか明らかにした。開発経済学においては、選択の自由・権利という観点から生活水準/福祉の重要な要素でありながら、エスニシティ/民族変数は分析の対象として明示的に論じられてこなかった。一方、先住民を個別社会の文化や価値観をになった主体としてとらえようとする人類学的研究では、エスニック・アイデンティティはその集団の文化特性であるだけでなく、適応の過程で生じるさまざまな困難に対処するための能力の源泉たる資源でもあると捉えられており、本研究は基本的にこのアプローチを応用するものである。これらをふまえて、本稿全体における分析の視点と方法を設定し、エスニック・アイデンティティの概念規定について述べる。章末に本稿の構成を示した。

 第1部は第2章から第5章までの4章からなり、ダバオ市における社会、文化、政治的環境を概観しながら、そこに暮らすバジャウ(サマ)について社会経済的状況を明らかにするよう努めた。

 第2章では、ダバオ市のバジャウが連なるサマ語集団に関する先行研究のサーベイを行い、さらに現在のフィリピンにおけるナショナル・レヴェルの先住民政策の概観することを通じて、彼らを取り囲むマクロ的な状況について整理した。歴史的にバジャウとは、サマ語集団のうち家船生活者を指す。それはタウスグなど他の有力エスニック集団からの他称かつ蔑称であった。1960年代以降の研究によれば、海サマにみられた家船を居住場所とする生活様式は、第二次世界大戦後、島嶼東南アジアが新生国民国家となってからは近代化の波を受けて大きく変容した。近年のバジャウ(サマ)研究に照らすならば、「貧しい先住民/少数民族」という焦点のあて方はまれであり、むしろ地域における商業資本主義の浸透や国境の登場に柔軟に対応してきたとする事例が報告されてきたが、本研究が扱うフィリピンにおけるバジャウは、街角で物乞いするイメージから都市の最貧困層とみなされている事例という点で新しい。さらに、本章では、現在のフィリピンにおける先住民政策の枠組みでは先住地保障が中心であり、先住民の組織だったイニシアティヴが重視されていることから、恒常的な政治的統合をもたない漂泊性海洋民で、先住地を離れて都市に移住したダバオ市のバジャウのようなグループは保護の対象となりにくいことも確認した。

 第3章では、ダバオ市のバジャウを取り上げ、質問紙調査で収集した客観的指標によって経済的な生活水準を把握するとともに、非サマとの相対的位置づけにおいても彼らが都市貧困層であることを明らかにした。スルー・サンボアンガ地域の内戦・治安悪化を背景に難民的性格をもってダバオ市に流入してきたバジャウは、セブアノ、タウスグ、マラナオ、ラミヌサなどの非バジャウ・グループと比べて、学歴が極端に低い。労働市場参入に必要なスキルが低く、かつバジャウに特殊的な限られた生業--漁業、貝殻・真珠販売業、古着販売業(行商)、物乞い--に就いていた。生活水準を示す諸指標--所得・支出・負債、住居・耐久消費財など--は、軒並み非バジャウを下回り、物質的な貧困は否定しがたい。また、主観的調査による民族間イメージの把握によれば、非バジャウはクリスチャン、ムスリムの別なく、バジャウに対してネガティヴで蔑視的なイメージを抱いていた。

 第4章では、視座を移してバジャウ内部の社会的不平等を探求するため、社会的地位に関するバジャウ住民の主観的な意識調査の結果を用いた分析を行った。各世帯の社会的地位は、個別に評価されるよりも、まずはそれが属するところのグループ単位で評価されるという2段階の認識を経る傾向が強い。そうしたグループは5つあり、それぞれちがった特定の生業に対応している。すなわち、社会的地位の高い順に、1)男子:貝殻・真珠販売業(ホテル)、女子:主婦か非漁業、2)男子:貝殻・真珠販売業(ホテル・行商)、女子:古着行商業、3)男子:貝殻・真珠販売業(対貨物船・行商)、女子:主婦か古着行商業、4)男子:漁業(ボボ[魚伏籠])・パラングレ[延縄])、女子:古着行商業・物乞い、5)男子:漁業(パナ[突き漁])、女子:物乞い、という構成が典型であった。これらの生業グループは親族・地縁集団とも対応しており、彼らがダバオ市の都市経済に適応していく上でのひとつの単位と考えられるから、第2部における観察・分析単位として有効である。また、社会的地位に関する評価基準の分析から、バジャウ自身が考える生活水準の向上とはどういうものか検討し、基本的に経済的な基準が重要であるという結果を得た。

 第5章では、生業グループ別に事例分析を行う第2部の準備として、彼らが就いている生業の特徴を明らかにした。具体的には、生業面における世帯内分業の存在を前提としながら、彼らが就いている生業を男子型生業(漁業、貝殻・真珠販売業)、女子型生業(古着行商業、マット織り)、および女子・子ども・高齢者型生業(物乞い)の3つに仮設的に分類した上で、生業の概要(商品の概要、営業の模様、所得など)、参入障壁と他のエスニック・グループとの関係という観点から分析した。この作業を通じて、バジャウが就いている生業がダバオ市地域経済で占める位置が、少なくとも交渉面においてマージナルであることも明らかにした。

 第2部は、第6章から第8章までの3章から構成される。第1部における分析をふまえて抽出された、経済的な生活水準が異なる5つの生業グループについて代表的世帯をとりあげ、ダバオ市における都市経済への適応過程とエスニック・アイデンティティの現れ方について比較分析する。

 第6章では、まず5つの生業グループについて経済的行動の違いやその要因について比較分析した。分析の枠組みとして援用したのは「家計戦略」である。つぎに経済学的なアプローチとしての家計戦略の概念枠組みには明示的に組み込まれていないものの、人類学的なアプローチでは環境への適応するための重要な資源であり、同時に自己の在り方・生き方の根源に関わってくるエスニック・アイデンティティの現れ方--サマとして自分自身や内部者に対する自己表現、バジャウとしての他人に対する自己表現--について、グループ間の比較をした。その結果に基づき、経済的な生活水準の異なる生業グループ別に、1)エスニック・アイデンティティの現れ方と使い方、2)変化をもたらした主体についての類型を仮設し、つぎのような結論を得た。ダバオ市におけるバジャウの場合には、事例分析の結果が示すように、経済的な生活水準の向上は必ず文化変容をともなうが、それは直ちにサマとしてのアイデンティティの喪失にはつながらない。むしろ経済力をつけることで自分たちらしさをどこに残すか自己選択できる余地が生まれる。他方、経済的な生活水準の向上がみられない、あるいは低下している場合の文化変容は、半ば強制的な同化、文化剥奪やアイデンティティの自虐的表現につながりやすい。

 第7章では、生業グループ別に、属性、一般的な生活水準、社会関係などについて記述分析を行い、1)経済的な生活水準--所得や消費など--の量的・質的把握と、2)その水準を満たすために実際にどのような行動がとられるのか、という過程の把握、および、3)家計の経済的実態が非経済的要素--宗教・社会儀礼など--を含む暮らし全体にどのような可能性、あるいは制約を与えているのか把握しようとした。この作業を通じて、5つのグループは析出地のちがいにかかわらず以前は漁業を生業としていたが、ダバオ市に転入してからはそれぞれに異なる生業転換を経験し、経済生活ばかりでなく暮らし全般に多様な適応状態を経験している様相を具体的に描いた。

 第8章は各章の要約と結論を述べたうえで、分析結果の含意としてつぎのような諸点を掲げた。ダバオ市のバジャウという事例に関する政策的含意としては、1)エスニック環境に配慮した介入の必要性、2)エスニック・グループ内部における不平等に配慮した介入の必要性、3)最低生活を維持するための所得獲得の必要性、4)政策介入においてサマの文化要素を配慮する必要性、5)政策介入における「文化の仲介者」の必要性、などである。また、フィリピンにおける先住民政策/研究に関する一般的含意としては、1)適応のヴァリエーションを生むひとつの要因として「介入」を考慮した研究の必要性、2)マイノリティの多様性と自治権付与では解決しないもうひとつのミンダナオ問題、3)多文化主義政策への適応にみる注意点、などである。さいごに今後の課題を述べた。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は,少数民族の経済的な生活水準(standard of living)が変化するときに,エスニック・アイデンティティにどのような変容が生じうるのかという問題について,フィリピンの一少数民族であるバジャウ(Badjao)を事例としてとりあげ,1997年8月から1999年12月までの長期間に行われた実態調査にもとづいて分析した実証研究である。その内容は以下の通りである。

 序論となる第1章において,青山氏は,従来の開発経済学を,「選択の自由・権利という観点からの重要性にかかわらず,エスニシティ/民族変数は明示的に論じられてこなかった」と批判し,それを可能にする準拠枠の構築のために文化人類学に着目し,議論を発展させる。すなわち,青山氏は,エスニック・アイデンティティを,単に文化特性だけでなく,適応の過程で生じる様々な困難に対処するための能力の源泉たる資源でもあると捉え,貧困者を分析するための枠組みを提示する。本論文が有するオリジナリティの源泉は,この新しい視角にある。

 第1部(ダバオ市のバジャウ)では,バジャウ(サマ)にかんする包括的な文献渉猟と実態調査にもとづき,ダバオ市におけるバジャウの社会経済条件をあきらかにしている。バジャウとは,サマ語族のうち漂泊性海洋民としての家船生活者を指すが,1960年代以降の研究によれば,その家船を居住場所とする生活様式は,第二次世界大戦後,島嶼東南アジアが新生国民国家となってからは近代化の波を受けて大きく変容した。近年のバジャウ(サマ)研究による限り,「貧しい先住民/少数民族という焦点のあて方はまれであり,むしろ地域における商業資本主義の浸透や国境の登場に柔軟に対応してきたとする事例が報告されてきた。これに対して,青山氏は,フィリピンの場合には,都市貧困問題と直結しており,高い流動性ゆえに保護の対象になりにくいという固有性の性格を有すると指摘する(第2章)。これは,従来の研究にはない新しい発見である。さらに青山氏は,第3章において,バジャウが,客観指標からみて最貧状態にあり,居住地域における諸民族間の主観的評価においても蔑視されているという厳しい環境に置かれていると議論する。すなわち,スルー・サンボアンガ地域の内戦・治安悪化を背景に難民的性格をもってダバオ市に流入してきたバジャウは,セブアノ,タウスグ,マラナオ,ラミヌサなどの非バジャウ・グループとの比較において,学歴と労働市場参入に必要なスキルに乏しい。それゆえ,限られた生業(漁業,貝殻・真珠販売業,古着販売業,物乞い)に就かざるを得ない状況にあり,所得・支出・負債,住居・耐久消費財などの生活水準諸指標のいずれもが,非バジャウのそれを下回っている。物質的な貧困は否定しがたい状況に存在するのである。また,実態調査による民族間の主観的イメージの把握によれば,非バジャウはクリスチャン,ムスリムの別なく,バジャウに対してネガティヴで蔑視的なイメージを抱いていたという事実発見も論じられる。

 これを受けて,第4章では,バジャウヘの主観的意識調査によって,5つの生業グループが抽出され,バジャウ内の社会的不平等の議論が展開されている。すなわち,社会階梯の高い順に,1)男子:貝殻・真珠販売業(ホテル),女子:主婦か非漁業,2)男子:貝殻・真珠販売業(ホテル・行商),女子:古着行商業,3)男子:貝殻・真珠販売業(対貨物船・行商),女子:主婦か古着行商業,4)男子:漁業(ボボ[魚伏籠])・パラングレ[延縄]),女子:古着行商業・物乞い,5)男子:漁業(パナ[突き漁]),女子:物乞い,というグループ構成の存在を指摘した。青山氏は,これらの生業グループは親族・地縁集団とも対応しており,彼らがダバオ市の都市経済に適応していく上でのひとつの単位と考えられるという重要な指摘を行っている。続く第5章においては,青山氏は,生業を男子型生業(漁業,貝殻・真珠販売業),女子型生業(古着行商業,マット織り),および女子・子ども・高齢者型生業(物乞い)の3つに仮設的に分類した上で,生業の概要,参入障壁および他のエスニック・グループとの関係という観点から,これらの生業のいずれもが地域経済における交渉面においてマージナリティを有することをあきらかにした。

 本論文の中核をなす第2部(都市経済への適応過程とエスニック・アイデンティティ:5つの生業グループに関する比較分析)は,第6章から第8章までの3章から構成されるが,経済学と人類学の分析枠組みを縦横に駆使しつつオリジナルデータに議論を語らしめるという手法をとっている。いずれの章も資料的価値だけをとっても極めて高いものがあり,同時に見事な実証分析となっている。すなわち,第1部における分析をふまえて抽出された,経済的な生活水準が異なる5つの生業グループについて代表的世帯をとりあげ,ダバオ市における都市経済への適応過程とエスニック・アイデンティティの現れ方について豊富な具体例を基礎に比較分析を行っている。

 第6章では,5つの生業グループについて経済的行動の違いやその要因について「家計戦略」の概念枠組みを援用して分析を行ったのち,その分析において捨象せざるを得なかった,エスニック・アイデンティティの現れ方--サマとして自分自身や内部者に対する自己表現,バジャウとしての他人に対する自己表現--について,グループ間の比較分析を行い,つぎのような重要な結論を導いている。すなわち,「ダバオ市におけるバジャウの場合には,事例分析の結果が示すように,経済的な生活水準の向上は必ず文化変容をともなうが,それは直ちにサマとしてのアイデンティティの喪失にはつながらない。むしろ経済力をつけることで自分たちらしさをどこに残すか自己選択できる余地が生まれる。他方,経済的な生活水準の向上がみられない,あるいは低下している場合の文化変容は,半ば強制的な同化,文化剥奪やアイデンティティの自虐的表現につながりやすい」というものである。さらに,第7章では,生業グループ別に,属性,一般的な生活水準,社会関係などについて記述分析を行い,1)経済的な生活水準(所得や消費など)の量的・質的把握と,2)その水準を満たすために実際にとられる行動過程の把握,および,3)家計の経済的実態が非経済的要素(宗教・社会儀礼など)を含む暮らし全体にどのような可能性,あるいは制約を与えているのかを把握しようとする。この作業の結果,5つのグループは析出地のちがいにかかわらず以前は漁業を生業としていたが,ダバオ市に転入してからはそれぞれに異なる生業転換を経験し,経済生活ばかりでなく暮らし全般に多様な適応状態を経験している様相があきらかになった。

 最後に,第8章では各車の要約と結論を述べたうえで,次の如く分析結果の含意がまとめられている。すなわち,1)エスニック環境に配慮した介入の必要性,2)エスニック・グループ内部における不平等に配慮した介入の必要性,3)最低生活を維持するための所得獲得の必要性,4)政策介入においてサマの文化要素を配慮する必要性,5)政策介入における「文化の仲介者」の必要性である。さらに,青山氏は,フィリピンにおける先住民政策/研究に関する一般的含意として,1)適応のヴァリエーションを生むひとつの要因として「介入」を考慮した研究の必要性,2)マイノリティの多様性と自治権付与では解決しないもうひとつのミンダナオ問題,3)多文化主義政策への適応にみる注意点も併せて指摘している。

 以上のように,本論文は,極めて斬新な内容を有するオリジナリティに溢れる研究であり,その学術上の意義は以下の如く数えられるであろう。まず,第一に,従来,その必要性が認識されながらも,開発経済学が分析対象として捨象してきた少数民族のエスニック・アイデンティティを陽表的に福祉指標として取り入れ,社会行動についての積極的な分析を行なう基礎的枠組みを提示することによって,開発経済学の分野に多大な貢献をしている点である。アマルチュア・センは,GNP至上主義に陥っている福祉指標を批判し,潜在能力アプローチを提唱したが,その後の議論の多くは抽象的な段階を脱し得ず,具体的な個別事例の中で,このアプローチを活用した議論はほとんどない。青山氏は,開発経済学のみならず文化人類学に及ぶ膨大な文献渉猟を行い,長期に渡る実態調査によって,従来の問題点を果敢に克服しようとし,説得的な議論を展開している。この意味で,本論文は,経済学と文化人類学を横断する準拠枠を構築することによって,潜在能力アプローチを発展させる新しい視角を提示していると評価できる。

 第二に,フィリピンにおいても研究が遅れ,その詳細があきらかではなかった少数民族バジャウの社会経済状況の実態について,数多くの興味深い事実発見を行っている点において,開発経済学におけるエスニシティの導入という観点のみならず,文化人類学や地域研究におけるパイオニア・ワークとして大きな貢献をなしたと考えられる点である。サマ族にかんする研究は国際的学会が存在するまで発展してきたが,これまでの研究は,専ら海洋漂泊民である海サマに限られ,いわゆる陸サマについての研究は皆無に近い状態であった。英語に翻訳されれば,本論文は,陸サマにかんする先駆的文献としてのパイオニア・ワークになることは間違いないところである。補論として添付されている月例家計調査に関する様々なデータ類も,今後のサマ族研究において,きわめて有益な資料として活用されていくであろう。

 最後に,青山氏は,ダバオ市一般で話されているセブアノ語に加えて,バジャウが用いているサマ語を修得し,万全な準備の下でインタビュー・質問票調査を実施し,きわめて精度の高い一次資料を収集している点を再度強調しておくべきであろう。従来の貧困層のジャーナリスティックな分析とは一線を画す研究であることはいうまでもなく,調査方法だけをとっても,青山氏の独立した地域研究者としての優れた資質を伺わせるに十分である。

 しかし,本論文にも問題がないわけではない。まず,第一に,本論文の中心概念である「エスニック・アイデンティティ」という術語の利用にあって,叙述にミスリーディングと思われる箇所が散見されることである。青山氏の「エスニック・アイデンティティ」は,関係論的同定と実態論的同定という二重性を有する。冒頭の定義ではこの点は明瞭であるが,個々の分析にあっては,この二重性が必ずしも明確に意識されているわけではない。とくに,経済的生活水準の指標,階層性と社会的流動性の存在,あるいは教育機会の拡大などの諸項目とエスニック・アイデンティティとの関係についての論述が不明瞭になっている感がある。さらに,青山氏の問題関心は,アイデンティティを複数の側面で自由に維持・管理できるという機能(function)の有無に帰着するのであろうが,それは,究極的には,政治環境や社会制度などのより外生的な要因に依存していると言わざるを得ないのではないだろうか。この点についての分析が不十分であるとの感は否めない。

 第二に,本論文の陰には膨大なデータが存在しているはずだが,それが十分に活用され尽くされているとは思われない。たとえば,所得決定因についての説明変数については,より詳しい説明が必要であり,そのためのデータも十分に収集されているはずである。バジャウの社会的不平等を論じた第4章の分析においては,主観的格差と客観的格差の対応関係についての分析も,もっと掘り下げられるべきであったように思われる。さらに,各エスニック・グループの価格やリスクに対する反応性の分析もバジャウの経済行動をより詳細に捉えるためには必要であろうし,所得や資産とエスニック・アイデンティティの関係についての,より積極的かつ大胆な計量分析が試みられるべきであっただろう。

 第三に,バジャウが貧困から脱するためには「社会保障」が必要であるという観点から結論部分で論じられている提言はやや平板であり,より掘り下げられるべきであったのではないかと言うことである。青山氏が重要性を指摘している,より高次な行政機関,NGO,開発援助機関などの介入のモデル事例について,より具体的な説明があっても良かったように思われる。もっとも,そのためには,「自立的発展」の定義という大きな問題が存在しているのは事実であり,この点については,青山氏の今後の長期の研究発展に期待したい。

 このように本論文にも幾つかの問題点が認められるものの,それは本論文が有するオリジナリティとクオリティの高さをいささかも損なうものではない。以上の経緯から,この審査委員会は,全員一致で,本論文が本研究科の要求する博士論文としての基準を十分に満たしており,青山和佳氏が博士(経済学)の学位を授与されるにふさわしいと判断するに至った。

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