学位論文要旨



No 117651
著者(漢字) 曽田,長人
著者(英字)
著者(カナ) ソダ,タケヒト
標題(和) 19世紀ドイツにおける古典語教育・古典研究の展開と国民形成 : テオドール・モムゼンとフリードリヒ・ニーチェを手がかりに
標題(洋)
報告番号 117651
報告番号 甲17651
学位授与日 2002.10.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第391号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 足立,信彦
 東京大学 教授 山脇,直司
 東京大学 教授 塚本,明子
 東京大学 教授 黒住,真
 帝京平成大学 教授 麻生,建
内容要旨 要旨を表示する

 本論は19世紀ドイツにおける古典語教育・古典研究の展開と国民形成の関わりを振り返り、その分析を通して19世紀ドイツにおける人文主義の継受と国民形成の関わりの特徴や意義を考察した。周知のようにドイツは三十年戦争後、政治的・文化的に様々な意味での分裂状態に置かれ、その内実が一定しなかった。しかし19世紀には古典古代(特に古代ギリシャ)という模範との取り組みを通して、旧来・外来のものからの解放とドイツに自生的なものの形成が図られたのである。

 考察に際して筆者は、18世紀後期から19世紀初期にかけての人文主義者の著作を手掛かりに新人文主義的な古典語教育・古典研究によるドイツの国民形成コンセプトの再構成を行い(第1章)、そのコンセプトと19世紀ドイツにおける古典語教育・古典研究の実際の展開との理念上のずれを、引いてはそのずれと国民形成の現実との相関関係を検討した(第2章)。さらに19世紀中期以降のドイツにおいてそれぞれ政治的な国民形成、文化的な国民形成の徹底を試みた古典研究者としてテオドール・モムゼン(Theodor Mommsen)とフリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche)に注目し、彼らの古典語教育・古典研究(観)とドイツ国民形成の関わりを考察した(第3、第4章)。

 上で触れたドイツの国民形成コンセプトとしては、「ドイツ(ヨーロッパ)の有機体論(文化)対イギリス・フランス(オリエント)の機械論(文明)」、精神(Geist)に類する概念の受肉による「個人-形成のメディア(古典語、古典研究など)-(文化的・政治的な)ドイツ・ネイション」の三位一体的で有機体的な形成という2つの図式を再構成した。その際、古典語・古典研究という形成のメディアとの取り組みが一方で(事柄の知識の歴史学的な研究に基づいて旧来・外来の規範を相対化し)機械論的な対抗思潮(啓蒙専制国家[分邦主義]、汎愛[実科]主義、正統主義的なキリスト教、フランス文化など)からの脱却に貢献し、他方で(古典語の中に孕まれていると考えられた)精神(人間性の理想)の受肉による「個人-形成のメディア(古典語、古典研究)-(文化的・政治的な)ドイツ・ネイション」の三位一体的で有機体的な形成が期待された。つまり古典語・古典研究との取り組みが「ギリシャとドイツの親縁性」に基づいて個人や文化国民としてのドイツの形成に貢献するだけではなく、「形式的陶冶」に基づいて個人の主体化や自由の実現、引いては主体化され自由となった個人がドイツの統一に寄与することが遠望されたのである。しかも新人文主義が対抗思潮(機械論)に対して行った批判の仕方の中には、プロテスタンティズムにおける「信仰の原理の行為の原理に対する優位」の枠組みと同様の特徴が見られ、本来の信仰(Geist霊・精神)の取戻しを経た上で、信仰の現実化としての行為を肯定し対抗思潮を統合する企図が明らかとなった。すなわち新人文主義的なドイツ国民形成コンセプトにおいては、キリスト教に代わって新たに(古代ギリシャ)文化の中に信仰的な価値が見出され、それへの帰依を経た上で行為としての政治・経済活動を肯定し、この両者がドイツの文化的・政治的な国民形成へ寄与することが目指されていたのである。

 しかるに19世紀ドイツにおける現実の古典語教育・古典研究及び国民形成の展開において、こうした理想主義的な国民形成コンセプトの実現は反動体制の結成によって阻まれた。その結果、古典研究においては改めて形成のメディアとしての古代ギリシャの中に有機体性を歴史学的に見出し、それをドイツの国民形成の参考にしようとする試みがなされた。しかしこうした歴史研究が研究対象の広がりを招くことを危惧しあくまで個人の主体化を重視する立場も存在し、両者の立場の対立が古典研究におけるヘルマン-ベック論争、古典語教育におけるティールシューシュルツェ論争によって顕在化した。この論争の余波は19世紀後期にまで及び、論争の内容・背景として前者は(1)「事柄の知識との取り組み、実科主義、政治的な国民形成、行為の原理、リベラリズム、プロイセン」に近い立場、後者は(2)「言語の知識との取り組み、キリスト教、文化的な国民形成、信仰の原理、ロマン派、非プロイセン」に近い立場に依拠した。上で挙げた2つの論争は、新人文主義的な古典語教育・古典研究が領邦国家間の対立、(信仰の原理と行為の原理の区別に基づく)宗派対立、実科主義とキリスト教の対立、文化と政治の対立など様々な対立関係を当初目指されたように統合するよりも、むしろ相対立する対抗思潮に近い立場へと分裂し、それによって同時代のドイツの国民形成との関わりを保っている状況を示すものであった。

 1849年の3月革命に際しては、精神が現実に対する形成力を持つという新人文主義の立場が理念的・現実的に揺ぎつつある事態が明白となり、しかも(1)の古典研究自体の内的な展開が同様の帰結を招いていた。しかし古典語教育・古典研究は3月革命後もなお制度的に延命したことから形骸化の意識が強まり、古典語教育、古典研究、教養の.コンセプトの自己刷新の企てが現われ、他方で対抗思潮との関係が変化した。これらの企てや変化にも関わらず、古典語教育・古典研究はプロイセンを中心とする諸領邦国家の庇護に入りつつあり、ドイツ・ネイションの新たな「形成」よりもむしろすでに存在するドイツ・ネイションの「維持」に貢献しつつある事態が現れていた。また1871年に第2帝国が成立した後、ドイツは未だに分裂状態にあることが一般に強く意識され、新人文主義的な古典語教育・古典研究によるドイツ国民形成のコンセプトは強い批判に曝された。そこで本論においては、19世紀中期以降こうした危機の打開を試みる古典研究上及び国民形成上の、以下の3つの企てを検討した。

 第1にモムゼンは、上で触れた古典研究の(1)の流れを汲み、ドイツの政治的な国民形成の完成を志し、文化的な国民形成に対しては批判的であった。彼は市民共同体や形成のメディアとしての学問(歴史学的な古典研究)の形成を重視し、学問との取り組みの中に信仰的な価値を見出し、この信仰に基づいてドイツの政治的な国民形成という行為への寄与や文化的な国民形成の主体である教養市民に対する批判を行った。

 第2にニーチェは、上で触れた古典研究の(2)の流れを汲み、古代ギリシャにおける本来の精神の取り戻しによるドイツの文化的な国民形成の完成を初期には志し、政治的な国民形成に対しては批判的であった。彼は文化的な個人(主体)と形成のメディアとしての芸術(初期)・文化(中期・後期)を重視し、芸術・文化との取り組みの中に信仰的な価値を見出し、この信仰に基づいてドイツの文化的な国民形成という行為への寄与(初期)や政治的な国民形成、形成のメディアとしての学問(初期)に対する批判を行った。

 (モムゼンとニーチェはドイツの政治的・文化的な国民形成が古い機械論的な性格を継承したまま有機体論に渾然一体と融合されていた現実、及びその背景にあった「言語によって基礎付けられた精神・世界」というキリスト教的な考えに対する批判を異なる仕方によって行い、新人文主義的な古典語教育・古典研究の発展的な継承を試みたのである。)

 第3に大衆ナショナリズムは、新たにドイツ-ゲルマン信仰(ドイツ精神)に依拠し、ドイツ国民宗教への信仰を通して実科主義や後には第2帝国の政治という行為の肯定へ向かった。その際ドイツ・ネイションの中には神格化された高い価値が見出され、それへ個人や形成のメディア(学問、文化など)の従属すべきことが主張された。そして新人文主義が目指したような対抗思潮の統合によるドイツの国民形成という考えは、現実において改めて大衆ナショナリズムによって実現されつつあったのである。

 第2次世界大戦後の西ドイツにおいては19世紀以後のドイツの国民形成をめぐって、大衆ナショナリズムから第3帝国の成立へ連なった実際上の展開と、モムゼンとニーチェの古典語教育・古典研究(観)の結合によってあり得たであろう可能的な展開という、ドイツ国民形成の2つの系譜が問題となっていたことが明らかとなった。この2つの系譜においては、プロテスタンティズムにおける「信仰の原理と行為の原理」の区別の刻印を留めた、文化と政治の間のあるべき関係の形成が問題となっていたのである。

 こうして19世紀ドイツにおいて新人文主義的な古典語教育・古典研究は、19世紀以前のプロテスタンティズムを中心とした国民形成から20世紀の大衆ナショナリズムを中心とした国民形成への媒介の役割を果たしただけではなく、モムゼンとニーチェの例に見られたように後者を乗り越える方向を孕んでいたと言えよう。さらにプロテスタンティズムの信仰覚醒運動において「霊-文字-行為」の3者の中から専制的な現われに対する批判の試みがなされたのと同様に、新人文主義的な古典語教育・古典研究とドイツ国民形成の関わりにおいては「個人-形成のメディア-ドイツ・ネイション」の3者の中から専制的な現われに対する批判が行われた。したがって、新人文主義的な古典語教育・古典研究は人間中心主義に依拠し神中心のキリスト教(特にプロテスタンティズム〉と内容的に対立していたにも関わらず、ドイツ国民形成との関わりにおいては性格的にプロテスタンティズムの影響を深く受けていたと言うことができよう。そしてこれらの特徴は、ドイツ・ヨーロッパの同一性の形成や維持に収斂する傾向が見られたのである。

審査要旨 要旨を表示する

 2002年10月1日、曽田長人君の学位請求論文『19世紀ドイツにおける古典語教育・古典研究の展開と国民形成-テオドール・モムゼンとフリードリヒ・ニーチェを手がかりに-』の最終試験がおこなわれた。主査は地域文化研究専攻助教授足立信彦、他の審査員は、地域文化研究専攻から教授塚本明子および黒住真、相関社会科学専攻から教授山脇直司、さらに、曽田君が地域文化研究専攻に在学中指導教官をつとめた帝京平成大学教授麻生建である。

 曽田長人君の提出論文は、そのタイトルに示されているように、近代ドイツの国民形成のプロセスの中で果たした古典語教育および古典研究の役割とその紆余曲折をきわめて詳細に跡づけ、国民形成の歴史に新しい光を投げかけたものである。

 論文は4章立てになっており、第1章では問題の出発点となる18世紀後期から19世紀初期にかけて、当時の人文主義者たちが抱いていた古典語教育および古典研究に基づく国民形成のコンセプトを再構成し、第2章では、このコンセプトに支えられた新人文主義的な古典語教育および古典研究の発展と、現実の国民形成の展開のプロセスの間の相関関係を追跡し、第3,4章では、顕著な差異が認められる二人の古典研究者、テオドール・モムゼンとフリードリヒ・ニーチェによってなされたその新しい位置づけの背景と主眼点が、ヨーロッパ統一という現代の問題も視野に入れながら検討されている。

 展開のプロセス全体はそれ自体きわめて複雑であるが、曽田君はそれらに通底するものとして二つの図式を提起し、それを骨格として論文を構成している。第一は「有機体論と機械論の対立」の図式であり、この図式はヨーロッパとオリエント、ドイツとフランスといった大きな枠組みの間での対立の図式であると同時に、新人文主義とそのさまざまな対抗思潮との間に見られる対立の図式でもある。第二は、個人の形成とその媒体(手段)、および国民形成との間の三位一体的関係の図式である。特に、後者について、そこには宗教改革以来の「信仰の原理の行為の原理に対する優位」という枠組みが、そのつど姿を変えて登場すると主張している。つまり、そのいずれに重点を置くにせよ、個人の形成と国民形成は、つねに密接な相関関係の中に置かれており、またその媒体はそれぞれの局面では異なっているものの、前二者と切り離された形で登場することは決してない。その意味で三者は「三位一体」であり、かつ有機的な関係にあるが、同時に、何らかの意味で超越性をともなった精神的なもの(信仰の原理)が先行し、それに対する帰依をへた上ではじめて行為としての政治的、経済的な活動が肯定されると指摘されている。

 この論文の最大の特徴は、従来、主として政治的な側面から考察されてきた近代ドイツの国民形成のプロセスを、古典語教育および古典研究という、一般的には疎遠とも見える観点を切り口にして、再構成しなおした点にある。もちろん、このことは、ドイツにおける国民形成のプロセスが長い間文化的な側面に重点を置いてきたことと密接に関係しており、その意味ではきわめて特異な現象であると言える。しかし、曽田君は、両者の関係をかなり大胆に図式化することによって、この図式を古典語教育や古典研究がすでに政治的な力を失った二〇世紀の大衆ナショナリズムにおける国民形成や、また、最近あらためて見直されているモムゼンとニーチェによる新しい可能性の提言に対しても適用している。

 論文の口述審査においては、この論文が博士論文として十分な水準に達しているとの評価が審査員全員からなされた。

 ただ、上で触れた図式化に関して、図式化そのものに問題があるわけではないが、いくつかの点で不十分さが残るという指摘がほぼ全員から出たことも付言しなければならない。そのなかでも、特に問題となったのは、「信仰の原理の行為の原理に対する優位」の枠組みであり、この枠組みについて、一方でより一層の一般化(抽象化)の必要性が指摘されると同時に、それぞれの局面における具体的な現れ方に関してより精密な分析が必要である、との指摘がなされた。

 しかし、この論文の核の一つをなしている古典語教育および古典研究に関する詳細な歴史的叙述は、日本において初めてなされたものであり、叙述自体の持つ価値以外に、たとえばドイツにおける精神科学の成立史研究に対する寄与など、さまざまな可能性を秘めているという指摘もあった。資料および文献に関しても、可能な限りの渉猟がなされており、また付されている膨大な注によって細部にわたる目配りがなされ、形式的にも十分整った博士論文であると言える。

 したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク